野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは、昨年(2020年)12月に開催した明大土曜会での土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会)のお話である。参加者からの質問を基に土屋さんが答える形で、砂川闘争の裁判や安保・沖縄問題などについて語っていただいた。

【明大土曜会】2020.12.5
司会「今回の明大土曜会は第60回になります。2011年2月に第1回の明大土曜会を開催し、その時も土屋源太郎さんを呼んでお話を聴きました。来年で10年目になりますが、60回目の記念の会ということで土屋さんに来ていただきました。
今回は講演ではなく、こちらから質問してそれに土屋さんが答えていただくという形式でやります。」

【土屋源太郎さんとのフリート-ク】
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「伊達判決(注1)の最高裁跳躍上告(注2)の時に、何か裏工作があると思っていたか?」
(注1:1957年7月、米軍立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が柵を壊し基地内に侵入したとして日米安保条約に基づく特別措置法により逮捕・起訴された。東京地裁の伊達裁判長は、日米安保条約に基づく駐留米軍は憲法違反であり、デモ隊の行為は無罪であるという判決を出した。)
(注2:第1審判決に対し、控訴を経ずに最高裁判所に申し立てを行うこと。)

土屋「伊達判決が出て翌々日くらいに跳躍上告なので、何かあるとは思っていた。伊達判決が出たことによって、日米安保条約の交渉に相当影響していることは分かっていた。結局、弁護団も我々もそれ以上の追求はしなかった。そこには何かがあると思っていたが、それほど深く考えなかった。司法の独立という幻想を持っていた。」

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「伊達判決が出たのが3月30日。当日の新聞夕刊記事に砂川闘争の伊達判決を報じた記事とともに、もう最高裁への飛躍上告の記事が出ている。かなり新聞社としてもこの問題についての蓄積があったのではないか。」

土屋「当時の砂川闘争については、新聞社もずっと取り上げていた。3月30日の判決当日だけでなく、何日もいろんな形で取り上げていた。それだけ反響があったということは、駐留米軍が違憲という判決は初めてだったから。それと砂川闘争というのは、千人からの負傷者を出した『流血の砂川』と言われるような闘争だということが、多くの人に知られていた。」

「60年安保改定を前に、伊達判決は喉に棘が突き刺さったようなものだったので、権力側としてはありとあらゆる手を使って伊達判決を撤回して、安保は合憲としたかった。それに対して土屋さんを含めて被告になっていた側の闘いは大きな弁護団を作ってやっていましたが、裁判そのものは盛り上がっていましたか?」

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土屋「58年の初めころから安保改定交渉が始まる。安保改定の目玉は、日本が攻撃された時に駐留米軍がそれに対抗する行動を取るという条項を入れることだった。それまでは国内の騒乱があった時には駐留米軍が対応するという条項はあった。
57年から下交渉があって、58年から委員会で協議して59年春に改定安保条約を国会に提出する予定だった。その前の3月にこの判決が出て大慌てになった。それで日本側として早期に潰すという流れの中で、砂川裁判があった。59年の12月に最高裁で判決が出て、60年早々に安保条約改定に入っていく。全部アメリカ政府の中で、そのスケジュールが組まれていたということ。」

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「統治行為論の判決は米軍が合憲だとか判断しない、裁判所として高度の政治的なことは判断しないとなる。一方、沖縄県の辺野古訴訟では政権に都合よいところは政治的に踏み込む判決を出している。この59年から60年の判決はどのように位置付けられるのか。」

土屋「この問題は非常に重要。伊達判決は、米軍駐留は日本の要請で基地提供の資金を日本が出している。そういう状況の中で指揮権・管理権が日本側にないとしても、仮に米軍が戦争に巻き込まれた場合、当然日本国も基地があることによって巻き込まれる。だから明らかにこれは日本における戦力と同じものである。だから憲法9条に違反するという趣旨。最高裁の判決は、米軍駐留については、日本は自衛をする権利はあるが、自衛をするだけの力がない。力がないから米軍に駐留を許している。さらに指揮権・管理権が日本にないから日本の軍隊ではないし戦力ではないので米軍駐留は認める。ただし、安保条約のような高度な政治性のあるものについては、司法が介入すべきでないという統治行為論。
ところが、今年、この統治行為論についの最高裁の調査官メモが発見された。調査官はいろいろな資料を集めたり、伊達判決の内容を解明する仕事をしていた。
その中で、驚くべきことは統治行為論については、15人の裁判官のうち6人か7人しか賛成しなかった。少数意見だった。むしろ多数は使うべきではないという判断だった。
ところが最終的に田中裁判長の判断で結果的に採用することになった。だから最高裁判決を読むとすごく矛盾している。安保条約に基づく駐留米軍があるにもかかわらず、安保条約に関する審議はしない。

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安保交渉の背景があるので、伊達判決を早く破棄するのが最高裁の中心の課題だったと思う。結果として訳のわからない無理筋の判決を出した。ところが、この統治行為論があるために、いろんな所の裁判が統治行為論で出口で全部シャットアウトされている。非常にこれが問題。本来なら統治行為論について見直しをすべきだ。
この問題は非常に大きい問題なので、マスコミもなかなか取り上げない。朝日新聞くらいだ。これを今度の裁判で追及していこうと思っている。」

「米軍を巡る下級審の裁判では統治行為論が呪縛をもたらしている。去年4月に沖縄の安和桟橋に行った時に、普天間基地爆音訴訟の団長が那覇地裁での判決についてマイクを握り、『基地爆音という住民の切実な願いに司法は全く目を向けようとしない。この国にこういう司法判断がある。我々としては、みっともない裁判である』ということを言っている。」

土屋「爆音訴訟の問題に関連して話をすると、砂川裁判の最高裁判決で統治行為論が出ると同時に、そこで暗黙の判決の趣旨としては、安保条約に触れないということは、安保条約は日本の憲法の上位にあるということを実質的に認めた。そのために米軍駐留について日本の国内法を適用しないことが問題になっている。だから今、訴訟があった場合、爆音によって被害が出たものについては被害の補償をする。ただし夜間飛行の停止とかそういうものについては、日本の国内法を適用することはできないということで、自衛隊の夜間飛行は禁止する、米軍の夜間飛行は依然として停止もしなければ低空飛行も禁止はしない。その上で横田空域の管理は米軍がしている。それすらも止めにできないというのが実態としてある。それは全て砂川裁判の最高裁判決の統治行為論などがいろんな形で影響している。
そこにもってきて、今度の安保法制で安倍政権が砂川最高裁判決で集団的自衛権を認めるなんて馬鹿なことを言い出して(注3)、それもあるから我々は裁判にもっていった。今回の再審請求もそれがあるからぶつけた。イタリアでは国内法が適用されて、米軍が出動するにしてもイタリア側の許可がいる。日本とは全然違う。フィリピンでさえ基地を一時撤去させたからね。何も触れないでそのままずっと占領のような状態を維持しているのは日本だけ。安保条約は10年経過したら毎年変更協議ができることになっている。1回もやったことがないけれど。」
(注3:「砂川最高裁判決が集団的自衛権行使の根拠になりうる」という発言)

「11月に屋良朝博議員(沖縄3区・立憲)と勉強会をやって、普天間問題の見解を聞いた。屋良さんは、安保条約がどうこうではなく、普天間基地の返還はアメリカの事情で実現できる。その根拠は普天間の機能として一つは空中給油機の配備がある、これは岩国に移転している。二つ目はいざという時のアメリカから派遣される応援米軍の受け入れ。これは福岡と宮崎の自衛隊基地で受け入れの準備が進んでいる。三つ目はオスプレイの訓練の問題。これは佐賀と岩国で受け入れる可能性がある。日米安保を前提とした上で、県外移設を進めれば基地問題は解決する。そのことを実現するためには政権交代が必要という論理だった。
また小川和久(注4)は県内でうまく回せば普天間基地はすぐ返せるという主張をしている。キャンプハンセンにもともと飛行場あったので、その飛行場をもう1回作り直せばOKだということ。彼は一時自民党のブレーンをしていた。
このような発言は、安保条約の有り無しに関わらず、安保条約を認めた上でも出来るという考え方だが、そういう考えについてはどうか。」
(注4:軍事アナリスト)

土屋「その考えは非常に重要な問題。この間静岡で『沖縄を語る会』があり、オンラインで前泊さん(注5)を呼んだ。彼は非常にはっきりしている。彼は『辺野古移転問題は単に普天間基地の代替施設を作ることに対する反対ではない。基本的な本来の考え方は沖縄から基地をなくすという考え方。ところがオール沖縄にするためには、そこまで出すとまとまらない。しかし現実にはいろいろな矛盾が出てきた。玉城デニーになって、基本的には玉城さんも安保条約は賛成。だから基地をなくせという発想ではない。基地を辺野古に作ることは反対なので、そこに問題がある』と言っていた。だから問題はそこなんだよ。沖縄の中でも安保条約に反対だから辺野古の基地はダメということと、単に普天間基地を辺野古に移設して膨大な費用をかけることに反対するということがあり、共闘体制での内部がガタついていることも事実。
そこの難しさがあり、当初はあまり言わなかったが、『独立論』が出てきている。このまま日本で交渉させても、安保条約がある以上交渉は進まないだろう。そうではなくて沖縄は独立して直接アメリカと交渉することによって、安保条約を含めた全体的な交渉ができるということ。沖縄の中でもいろいろ出てきている。
玉城知事の親分は小沢一郎。その辺が微妙に働いているのも事実。
本来は、まとめて行くためには、安保の問題も大事だが、まず辺野古移設を止めるのを第一目標にする必要がある。」
(注5:前泊博盛・ジャーナリスト・沖縄国際大学大学院教授)

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「南西諸島のミサイル配備問題については。」

土屋「自衛隊が今、配備を進めているが、玉城さんは反対していない。黙っている。地元では反対運動があるが、それには触れない。現実には相当作られてしまった。」。

「石垣島の反対運動の人に話を聞いたことがある。社民系と共産系、さらに本土から移住してきた人と土着の人が足の引っ張り合いをしている間にどんどん基地ができてしまっているという状況がある。宮古島もゴルフ場だったところが均されてフェンスができている。安保の問題を言わないで反基地だけを言うと、自衛隊基地ならいいのかという問題になってしまう。本来そうではないと思っているので、その辺をどう訴えていくのか。」

土屋「そういう意味でも、できればこちらから沖縄に行って交流すると同時に、現地の若い人たちと、こちらの若い人たちと交流をやって、どういう考え方を彼らが持っているか知る機会を持つ必要があるのではないか。」

「県民投票をやった元山さんと話したことがある。『沖縄の運動を沖縄の人だけでやってナショナリズムの話にしたら負けるだろう。だから普遍的な平和主義とかそういう問題で巻き込んでやった方がいい』という話をしたら、『それは違う。沖縄人によってやらなければいけない』という話をされていた。玉城さんの主張は『イデオロギーよりアイデンティティ』。最終的には平和主義とか、そういうイデオロギーでやっていかないと、結局日本国家とかアメリカ国家とか、そういう巨大なアイデンティティに勝てないんじゃないかと思っている。沖縄で運動をやっている若い世代の人は、沖縄人としての自覚みたいなところから運動に関わる人が多いような気がする。そこをどうすり合わせていけるのか分からない。」

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「1950年代当時、砂川だけでなく全国で基地反対闘争が盛り上がっていた。その闘争との交流や影響はあったのか。」


土屋「内灘とか基地反対闘争があって、交流があった。その人たちも砂川に応援に来た。いろいろな交流があり、全国的な運動として広まった。というのは、50年代は日本の基地は8割が本土、2割が沖縄だった。60年代以降になってどんどん沖縄に移していく。それで7対3という逆転現象を起こしていく。
もう一つ今年になって分かったことがあった。それは砂川基地の拡張について我々は冷戦があって、近代兵器の大型のジェット機を飛ばすために滑走路の延長が必要だと考えていた。ところがそれにプラス、どういう問題があったかというと、52年に朝鮮戦争が終息を迎える。47年頃からベトナム民主共和国の独立運動に対しフランスが闘って戦争になっていた。米国はそれに対して資金的な援助はしていたが、フランスが敗けて押されてくる。それと朝鮮戦争の終結の目途が付いた。そこで米軍がベトナムに介入することを決める。それを決めることによって、米軍立川基地をベトナム攻撃のための基地として使いたい、そのための延長ということが背景にあったようだ。それから原爆を小型化して地雷にする。その原爆地雷を積み込んで行くという計画があったらしい。でも軍の内部で対立があって、結果的にそれはやらずに枯葉剤になった。それは今年の春、アメリカの資料で発見された。
今年はこの件と統治行為論の調査官メモが新しく発見された。歴史ってすごいね、これだけ経ってもそういうことが分かってくるんだから。」

「砂川事件国賠訴訟(注5)で国側はアメリカ政府公文書の存在についてどうのように主張しているのか。」

土屋「再審請求が却下になって国賠訴訟をすることになった。この裁判でひどいことは、国側は最初に何と言ったかというと『公文書の文章は不知』と言った。そればかりか、この文章はアメリカのマッカーサー大使が一部捏造したのではないか。また、通訳が入ったり、タイピストに打たせたりしているので、真意が伝わっていないと同時に大使の私見も入り込んだ形で文章を出しているのではないかということまで言い出している。それに対して我々は、公文書館に直接国側が文章を取り寄せろと主張した。裁判所は国に文章の調査を求めた。もし調査をしなければ、しないなりの理由を出せと言った。ところが国側からは『公文書について捏造したというようなことは今後触れない』という回答だけが来た。公文書がないとかではなく、触れませんという回答だけが来た。今度の裁判はこれが非常に大きな問題になる。
また皆さんに裁判への協力をお願いしたい。」

(注5:伊達判決の一審判決を覆す最高裁判決を出した当時の田中耕太郎最高裁長官が駐日米大使らに、審理進行中の裁判情報を漏洩・提供していたことは憲法37条が定めた「公平な裁判を受ける権利」を侵害するものだとして、砂川事件元被告人ら3人が、2019年3月に国を相手取り東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起した。)

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(沖縄意見広告 朝日新聞朝刊2021年6月6日:土屋さんは「沖縄意見広告運動」の共同代表です)

※フリートークの前半はこれで終了しました。
後半は明大の自治会と全学連の話になります。後半は今後ブログに掲載予定です。

(つづく)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月25日(金)に更新予定です。

今回のブログは、「10・8山﨑博昭プロジェクト」のWebサイトに5月3日付で掲載された、山本義隆氏の書評「『飯舘村からの挑戦 ― 自然との共生をめざして』を読んで考えたこと」である。プロジェクト事務局のご厚意により転載させていただいた。

【『飯舘村からの挑戦 ― 自然との共生をめざして』(田尾陽一著)を読んで考えたこと】
原発事故からの復興とは,新しい社会を作ることである
山本義隆
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▲田尾陽一著『飯舘村からの挑戦――自然との共生をめざして』(2020年12月刊、新書版320ページ、1034円(本体940円)、筑摩書房)

Ⅰ.福島県飯舘村
 書名にある飯舘(いいたて)村は,阿武隈山系の海抜400 ~ 600メートルの高原状の村で,福島県の北部,事故をおこした福島第一原発から北北西約40キロに位置し,面積230平方キロ,うち75%が山林で,農地は2200ヘクタール。広い村である。たとえば千葉市の面積272平方キロと比べれば,その広さがわかる。広いだけではなく,福島原発の事故までは農業・林業・畜産酪農業を中心とし,「日本で最も美しい村のひとつ」をかかげて「までいな村づくり」が全村あげて進められていた村であった(「までい」とは「丁寧」の方言)。
 2011年3月11日の東日本大震災の際の東京電力(以下,東電)の福島第一原発の事故が飯舘村の人たちの運命を変えた。12日に福島原発1号機が水素爆発を起こし,その日の夕方,政府は原発から半径20㎞圏内の住民に避難を指示し,そのとき飯舘村には約1500人の人たちが逃れてきて,村はその人たちのために炊き出しを行なった。事故はさらに14日の3号機の爆発,15日の4号機の爆発と続き,そして15日,それまで太平洋側に吹いていた風が北西に変り,吹き上げられ大量の放射性物質は内陸部に運ばれ,折からの雨と雪で飯舘村に降り注ぐことになった。文部科学省に備えられていた原発事故にさいして住民を放射線被曝から護るための被害予測システムSPEEDI(緊急時迅速放射能影響ネットワークシステム)の試算結果は公表されず,結局,飯舘村全村が計画的避難区域と指定され全村民に村外への自主避難が指示されたのは4月22日になってからであった,それまで飯舘村の人たちは,なにも知らされずに強い放射線に晒されていたのであった。
 こうして飯舘村6000人のコミュニティーは崩壊した。以来,放射能に汚染された村は,2017年3月に長泥地区をのぞいて避難指示が解除されるまで,当時3000頭と言われた家畜の世話等でどうしても必要な人が昼間の限られた時間に戻る以外,事実上無人となった。2017年以降に帰村した人は約1400人,大部分は高齢者である。帰村が認められたといっても,村の面積の大部分を占める山林に降り注いだ放射性セシウムはほとんど手付かずに残されている。
 ちなみに,原発から40㎞も離れているこの飯舘村は,電源三法による交付金の対象外で,原発建設にともなう「恩恵」とは一切無縁であった。
 4歳のときに広島で被爆し,大学で物理学を専攻し,大学院で素粒子物理学と加速器の研究に携わっていた本書の著者・田尾陽一は,2011年の原発事故に衝撃を受け,事故直後の3月25日,単身で第二原発近くの楢葉まで赴き,後日語っている(以下、『飯舘村からの挑戦――自然との共生をめざして』から引用)。
 2011年3月11日の東日本大震災直後,私は地球の表皮にへばりつく日本列島が自然の力に翻弄れていることを実感した。そこに住み続けるには,日本列島のあちこちにそれぞれふさわしい自然条件を見つけて,分散して自然と共存することが安心,安全だと考えてきた。「多極分散型国土」とか「地方分権ネットワーク社会」とか過去にむなしい言葉だけがあったが,この巨大地震を経験し,今こそ安心・安全のためにもその方向に向かう機運が生まれるだろうと期待した。ところがそのようなことは全く話題にもならなかった。ほとんどの政治家・官僚・メディア・知識人が中央集中志向にとらわれており,東京集中政策を支持し,それこそが経済成長を取り戻す道だといわんばかりである。野党は中央集権体制を前提に政治権力を取りたいと熱望している。要するに,大震災から教訓を得ていないということだ。(p.11)
 地震だけではなく東電事故との,言うならば天災と人災の二重の被災地でもある福島への著者のこだわりの原点であろう。そして著者は,その年の6月,飯舘で農業と畜産を営んでいた菅野宗夫・千恵子夫妻に出会い,何人かの友人と語らって「ふくしま再生の会」(以下「再生の会」)の立ち上げを決意し,それはただちに実行に移された。
 実は私は,著者とは大学の教養学部のクラスから理学部の物理学科そして大学院まで同じで,長い付き合いがあるのだが,それにしても本書を読んで,著者の果断な決断力そして行動力にはあらためて感心させられた次第である。

Ⅱ.ふくしま再生の会
 その「再生の会」の活動形態そして組織原則として「何かをやるとあらかじめ決めて進めてきたわけではない。支援者という立場でもなく,現地で,協働して,継続して活動するという原則を決めているだけだ(p.293)」とあり,もう少しフォーマルには,「現地で継続して協働し,事実をもとに活動し,被害者の生活・産業の再生と創造,これを通して新しい公共空間の創造,社会の創造的変革を目指す,自立して思考する諸個人のあつまり(p.225)」とその目的が語られている。
 ここに「現地で」とあるように,再生の会の活動は徹底的に飯舘にこだわって,飯舘に集中して行われている。それはもちろん,直接的には失われた飯舘の自然と社会を取り戻すためであるが,それと同時に,未曾有の原発事故からの回復のモデルケースを創り出し世界に示すためでもあり,したがってその眼差しは,飯舘の内部に注がれているだけではなく,世界にも向けられている。現実にインターネットを駆使して世界に発信し,国内の大学生や高校生だけではなく,留学生や外国からの見学者をも多く受け容れ,さらに韓国や米国でも講演し,活動はきわめてインターナショナルに展開されている。
 「事実をもとに」とは,イデオロギーにとらわれずに,ということであろう。
 「継続して」という点では,「ふくしま再生の会」がこれまですでに10年の活動を記録し,そればかりかNPO法人としてメンバー300人を越えるまでに成長し,今もなおさらなる活動を展望していることで,十分に実現されているといえよう。それは,自然災害の後の一過性のボランティアの活動とは本質的に異なるものである。そのことは人災としての原発事故が地震や台風等の自然災害と本質的に異なることを正しく反映している。
 そしてまた「協働し」とあるが,その意味は,ひとつには現地の村民との関係が支援・被支援という上下的で一方向な関係ではなく,共に学び共に働くという水平的で相互的な関係だということであり,そしていまひとつには,開かれた運動として他の諸団体・諸機関との協力関係を拒まない,いやむしろ積極的に関係を求めるということであろう。
原発災害は,福島のみならず日本にとっても未経験・未曾有の事態である。世界にも日本にも本当の専門家は皆無である。そこで,専門分野を越え公私を超えた取り組みが必要になっている。「ふくしま再生の会」は“やってみる”ことが重要だと考えており,いろいろな専門家・大学・研究機関との共同の取り組みが行われている。(p.110)
 この表明が,著者および著者を中心とする「再生の会」の基本的なスタイルをよく表している。それにしても,どのような立場の人に対してであれ,どのような地位の相手であれ,臆することなく協働と協力を呼びかけ,ポジティブな関係性を築き上げてゆく著者の手腕というか,むしろ正確には著者の人間的なスケールとキャパシティーの大きさには,ほとほと感心させられる。
 「再生の会」の当面の具体的な課題として「1.環境放射線測定,2.放射能測定,3.農業・林業・畜産業の再生,4.生活・コミュニティーの再生」が挙げられている。その具体的な詳細については,本書を直截読んでもらうほうがよいが,協働ということの実際として,たとえば,放射線の測定においては村民との共同作業として,そして除染の実験でも村民から多くを教わる形で実践されていることは記しておくべきだろう。
 放射線の測定について書かれている。
 2020年3月まで,飯舘村役場の予算が付き各行政区から住民2人,総勢40人が,ふくしま再生の会やいいたて協働社のサポートで,自分の行政区を当初月2回,近年は4回測定を続けた。その貴重なデータは,村の予算で私たちが年間一冊のわかりやすいパンフにして,全村民に配布し続けてきた。2020年3月でこの事業の予算が,突如何の説明もなく打ち切られた。私たちは,8年におよぶ村民主体の全村放射線測定が飯舘村で行われたということを誇りに思っている。……今後は,〔帰還困難地区として〕まだバリケードの中にある長泥地区住民の要望にそって,ボランティアで住民と会員による測定を続けていくつもりである。(p.121)
そして続けられている。
 また長泥以南の〔汚染のより激しい〕浪江町等の山間部について自然環境調査と並行して放射線測定を行う新しいプロジェクトの実現を追求している。……私の構想を聞いたKEK〔高エネルギー研究機構〕や海外の科学者が,その意義を認め期待をもっていることも事実である。20~30年と無人の,放射能汚染された閉鎖自然空間で何が起こっているのかを,科学的に継続・観測を続け,その結果を世界と共有することは歴史的な責務であるが,この国にはそれを理解できる人は少ない。(p.121f.)
 先にも指摘したように,飯舘への徹底したこだわりが,そのことのゆえに国際的な意義をもつことの自覚である。

Ⅲ.原発事故の本質とは
 世界史的な事件としての福島の原発事故は,20世紀後半の工業文明そのものの破局を表している。それゆえ,その自然的かつ社会的影響を長期にわたって詳細に調べ上げ世界に公表することは,世界最大最悪の原発事故を起こした日本の「責務」だとする,本来ならば国の指導者こそが持たなければならない自覚と認識が,ここにはある。しかしそれにしても,そのような重要な「責務」を私的でボランタリーな組織に委ねっぱなしで,これまで「技術立国」を謳ってきた国が責任を負おうとしない,この国の貧しさを痛感せざるを得ない。
 原発事故はその被害が空間的には国境を越え,時間的には何世代にも及び,その意味ではそれまでの,たとえば石油コンビナートの火災とか爆薬貯蔵庫の爆発のような事故とは,根本的に異なるものである。崩壊した東電福島第一原発四基では,10年経た今なお人間の立ち入りが拒まれ汚染水が発生し続けている。はっきり言ってお手上げなのである。そもそもが,原発は,通常運転でも放射性廃棄物,いわゆる「死の灰」を生み続け,それらはたとえ無事故で稼働し終えたとしても残される廃炉の中心部とともに,10万年という人間の時間感覚ですれば事実上永久的に隔離して保管されなければならない。もちろん事故が起ればその危険が人間の生活空間に直接侵入し,現実の人間社会に多大な影響を与える。
 今回の事故で放出された毒性の強いセシウム137の量について,日本政府は2011年8月に広島原爆によるセシウム137の168倍と発表したが,海外の研究者による独自調査では,その3倍にのぼる可能性が語られている(W.Biddle『放射能を基本から知るためのキーワード』梶山あゆみ訳,河出書房新社)。そしてそれは半減期30年でベータ線を放出してバリウム137にかわり,そのバリウムが強力なガンマ線を放出する。もちろんその大部分は太平洋に落ちたと考えられ,飯舘村に落ちたのはわずかな部分であろうが,それでも量は少なくはない。いずれにせよセシウム137は半減期30年ゆえ,事故から10年経た現在も (1/2)10/30=0.8,つまり事実上8割が飯舘の山林に残されている勘定である。その一部は雨に洗われ川に流されたかもしれないが,大部分は地面表層に染みこみ,苔等の植物に吸収されて残っているであろう。
 こうして,長期にわたって飯舘は人の住めない空間に変貌したのであり,そのことは,飯舘の農業や林業や畜産業に甚大なダメージを与えただけではなく,村落の共同体を破壊し,家族を分断し,人々の精神に多大な傷を与えたのである。もちろん,原発事故直後の被曝の人体への影響が今後「晩発性障害」として現われる可能性も零ではない。
 飯舘村の一部をのぞき避難指示が解除された2017年,著者・田尾陽一は生活拠点そのものを飯舘に移す。そのことは原発事故の深層をあらためて著者に開示することになった。
 私は,飯舘村に移住してここに2年間住んでみて,原発事故の被害地の厳しい現実があることを思い知らされている。それは未だ続く放射線・放射能の影響,それによる農林畜産業の打撃もさることながら,住民の精神・気持ちへの打撃が大きいと思う。国や行政が物理的な除染をやっても,古い家を壊し新しい施設をつくっても,賠償金を支払っても,人々が受けた精神的打撃は消えない。(p.175)
 こうして筆者が到達した原発事故の本質として,著者は2015年のワシントンの講演で語っている。
 福島原発事故は,放射能・放射線の直接的被害だけでなく,避難による家族生活の破壊,コミュニティーの破壊,農業・産業の破壊,精神・文化・伝統の破壊を引き起こしたことを認識しなければ,人類の未来はないだろう。(p.227)
 著者のその表明を貫いているのは「福島原発事故被害地の問題は,根本的には21世紀の日本・世界の人間が自然とのかかわりをどう考えるかということである。現在の文明を支える精神の根源的な見直しにつながっている(p.299)」という確信であろう。
 端的に,福島原発事故からの復興とは,新しい社会を作ることであるということの認識である。

Ⅳ.ポスト福島を見据えて
 そしてこの発言は,「福島後は,私たちは全く違う世界に生きているのだという自覚が必要です,旧来の政治も,経済も,哲学も,科学・技術も,教育も,再度根本から見直し,この世界にその内部から何を残し何を破棄するか,思考を重ねなければならない時だと思います。(p.228)」という根源的な認識へとつながってゆく。
 そして,そこに至る唯一の途としての「地方分権」が,飯舘での10年の実践に裏打ちされた教訓として語られている。
 中央政府とその周辺が破壊した地域の自然と人間生活は,どんな困難でも地域の力で再生するしかありません。外部から上から目線で安易なことを言う必要はありません。地方自立こそ,現代社会のすべての出発点です。復興事業は,福島の人々が財政執行権を持ち実施すべきです。食糧・エネルギー・高齢者問題は,福島の人が自立的に解決できるでしょう。現在の中央政治・官庁・専門家が,どうしても地域を理解できないなら,そろそろ明治以来の官僚制全体主義を抜本改革する時期だと思います。(p.230)
 こうして,ポスト福島の展望が語られる。注釈を交えることなく,著者の肉声を載せるほうがよいだろう。
 日本の典型的な山村で,林業,牧畜,酪農,農業を組み合わせた循環型の産業を振興しながら,この地に根付く伝統・文化を発展させていくことの意義は,飯舘村のみにとどまらず,福島,日本そして世界の今後にとって計り知れない意味がある。近代化がさらに進む21世紀社会における意義として重要である。現在世界各国で語られる社会目標は,経済成長・科学技術振興という二つの言葉一色になっている。これらを各国が競って追求するその先に待っているのは,直感的には文明の崩壊ではないだろうか。コロナの来襲は,このことを予感させる。今や緊急に,新しい社会目標の再構築が必要である。そのことは,21世紀初頭に最悪の原発事故を起こしたこの日本から始めなければならない。(p.300)
 私自身は,正直なところこの著者ほどの行動力はないけれども,しかしこの最後の提起には全面的に同意することができる。 
 明治期に日本は独立を確保し,アイヌ支配と琉球処分を強行し、さらに国際的なステータスを獲得するために「殖産興業・富国強兵」をスローガンに、『女工哀史』に表される女工や炭鉱夫、農民への過酷な搾取・収奪をもって産業と軍事での近代化を達成した。こうして「脱亜入欧」を果した日本は,20世紀に入る前後に覇権主義的ナショナリズムに突き動かされて日清戦争、日露戦争をとおして台湾、次いで朝鮮を植民地支配した。第一次世界大戦後,「高度国防国家の建設」をスローガンにして,総力戦体制によって軍事大国に突き進み,資源を求めて東アジアの諸国を侵略し,あげくに1945年8月の破局としての敗戦を迎えることになった。
 しかし戦後,日本は,その覇権主義的ナショナリズムを十分に反省することなく,戦時下の総力戦体制の遺産をもとに復興をとげ,戦争責任をあいまいにした保守政党と中央官庁と財界からなる権力ブロックを確立させた。そしてその中央集権的指導の下で,日本は経済成長をなしとげた。そのことは,国内では公害や環境破壊そして地域の共同体の破壊をともない,さらにはおりからの朝鮮戦争・ベトナム戦争での特需等にも助けられていたのであり,このことは戦後の経済大国化が再びアジアの民衆の流す血によって購われたことを意味している。
 このように明治以来,国内的には技術立国による重化学工業国家の建設をめざし,国際的には列強主義的ナショナリズムに突き動かされてきた日本は,1945年の破局の後も,主戦場を軍事の分野から経済の分野に移し替えただけで,「経済成長・国際競争」をスローガンに戦後版の総力戦を戦い,こうして20世紀末に出来上がったのが,エネルギーと資源を大量に浪費し,大量生産・大量消費・大量廃棄にはげむGNP世界第2位の経済大国日本であった。そしてその挙句に,第2の破局というべき福島の原発事故を引き起こしたのである。そして同時に,現在,明治以来はじめての人口減少と,急速な高齢化社会を迎えている。そのことは成長経済持続の客観的条件が失われたことを意味しているが,にもかかわらず経済成長を第一義とする新自由主義経済は,労働者の貧困化をもたらすに至っている。そして今,新型コロナウイルスによる感染症COVID-19のパンデミックで,第3の破局を迎えつつある。
 福島の原発事故と新型コロナウイルスのパンデミックは,世界史的出来事である。そのことは,中央集権的権力によって指導され,資源とエネルギーを大量に消費する重化学工業を基幹産業とし,巨大化した都市に人口が集中している20世紀的国家の終わりの始まりとみることができる。著者・田尾陽一は,飯舘の再生という実験のなかに,その先の社会のあり方を展望しているのである。
 そのことを10年に及ぶ実践をふまえて語っていることにおいて,本書『飯舘村からの挑戦』は,重く貴重な提言であるといえよう。多くの人に読んでもらいたい。新書というコンパクトな書であるが,中身は濃く重い。
 ただ,無理に新書に収めようとしたからであろうか,添付されている幾つもの写真が小さくて見づらいのは,残念である。
2021年4月30日
(やまもと・よしたか 科学史家、元東大全共闘議長)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月11日(金)に更新予定です。

今回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿第5回目である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載してきたが、今回で最終回である。
最終回の第5回目は、本章の青山学院大学時代(1970年の闘い)と終章・あとがきである。

【青学全共闘への軌跡】
ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長 全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・
アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない


3 本章 □1968年 青山学院全学共闘会議(青学全共闘・前身~全学闘)の闘い
第三節 《1970年》
●1970年2月 全学連中央執行委員に勧誘される
1969年の8月、私は再会した父と再婚した義母のはからいで、西武新宿線のとある駅から20分ほど歩いたところにアパートを借りてもらった。ここで、仏文科の映画撮影で仲良くなった女子学生とわずかな期間だが、暮らした。居候で、麻布高校のB君もここにいっしょにいた。彼は、高校全共闘部隊だった。1969年8月、法大チューターから、中核派全学連大会の議案書を、武部氏が執筆するため、アパートを短期間貸してくれないか、という申し出があったので、了承し、武部氏に会って、数日間そこを執筆活動に使ってもらったことがある。
状況は、1970年に入り、青学学生会館を拠点に、アジ演説とビラマキを行っていた。ロックアウト体制は、前年の青学生と全共闘部隊によって、粉砕闘争が行なわれ、機動隊も導入、大きな事件となっていた。監視小屋を焼打ちし、新聞報道もされた。そのなかで、ロックアウトは解除された。しかし、学内では大木の独裁支配体制は続き、膠着状態が続いていた。いわゆる「三公示」は完全に破棄されたが、問題の自治会設立、これが難題で、1969年1月大学と全共闘で交わされた確認書事項を、院長が決裁しない限り、予算もつかず、組織として公認されない。全共闘部隊としては、実力でオルグ・情宣、集会、会議、デモ行進、を続行していた。
そうしたなか、法大チューターから、「全学連の中執(※中央執行委員)にならないか?」という打診があった。
正直言うと、中執、というのは、大学闘争・全共闘運動から一定程度離れて、全国の大学闘争/政治闘争の指導、革共同の政治局・書記局に近い革命活動、職業革命家として没入していくことを意味する。私は、熟慮してそれを断った。他の中核派同志にはそういう申し出はなかったと思う。70年以降のリーダーS君、4.28沖縄で一緒だったK君、1969年3回逮捕されていたS君、Ⅱ部経済のリーダーT君、もうひとりのT君、他10人ほどのメンバーにも。おそらく受諾していたら、70年代の殺戮戦で死ぬか、「決戦」投入で長期拘留・受刑となっていたことだろう。

●春3月~5月 法大チューターの独善的指導に嫌気がさす(私物の横領、カンパの強制・長時間の指導強制)
その後、前述の西武新宿線のとある駅付近に借りたアパートを、家賃を半分負担するから、中核派の活動拠点として使わせてくれないか、という申し出が法大チューターからあった。快諾ではなかったが、OKした。(※家賃半分負担のカネはその後も払われなかった)そのころ、私は、救援対策部の女子学生(現在の妻)と付き合うようになる。仏文科の女子学生は就職等もあったのか、だんだんと疎遠になっていった。私的に親が借りてくれたアパートを中核派政治活動に提供すること、武部さんの執筆に使うなら快諾したが、心中うまく納得できなかった。まだ、70年代対革マル派殲滅戦争は始まっていなかったし、小さな四畳半と台所・トイレがついた程度のものなら、組織で借りることもできたはずだ、と一瞬思った。対公安秘密活動のためなら、私自身マークされていたので、それは意味がなかった。
3月~5月の期間、全共闘の会議・集会・闘争と同時に中核派としての闘争にも参加していたが、私個人としてはどうしても納得できなかったことがあった。
それは、①アパートにおいてあった私物(現在の妻がアルバイトで買ってプレゼントしてくれたダッフルコート、ショルダーバッグ)を驚くことに、その法大チューターが勝手に横領したこと、本人がそれを着て登場したからあ然として声も出なかった。②アパートを秘密会議等で使うのは構わないが、ある日帰ってみると室内が汚れ、めちゃくちゃになっていたこと。武部さんに貸した時は、原状のままできれいだった。③ことあるごとに、1000円、500円と、もともとカネなどない私からカンパと称して強制的に徴収したこと。④討論、と称して、2~3時間以上、半強制的に「指導」「説得」を行ったこと。これが、中核派中執になったら、どうなるのかわからない。スターリンのウクライナ食料徴発、日本共産党の査問、とまでは言わないが、カンパや、アパート提供、討論はあくまでも自発的な了解のもとにOKするものである。この自発的、自由、というのが私は最も重要なキーであると今でも考えている。半強制、ましてや強制、というのは絶対に拒否する。人間として、個人の大事な私物を、断りもなく勝手に横領する「自由」など、いくら党派の指導者でさえ、持ってはいないはずである。○○学会や○正会、統一教会ではないのである。ましてやオウム真理教でもない。彼らと同様のことをしてはならないはずである。
私は、この一連の過程、「事件」から、これが中核派ならご免被る、と考えるようになった。私の見た1966年~68年の革共同の先輩たちの人間としての品位、情熱、行動には程遠い現実を見せられた。
この法大チューターは今どこで何をしているのか。ひとこと「横領して申し訳なかった」との言葉を、それだけを聞いてみたい。
中核派の渋谷駅頭でのカンパ活動中、国士館の右翼2名が、女子同志に絡みついて妨害行為を行ったことがある。他のメンバーは見て見ぬふりを最初していたが、私はその右翼に対して手を振り払い、「この野郎!ふざけるな!」と妨害行為をはねのけた。右翼はそれからしばらくわめいていたが、逃げて行った。また、リーダーのもとにも、右翼3名が絡んできた。リーダーは空手の型で防衛。その後去った。ML派だったという学友(大学は不明)が来て、同様のことがたくさんあり、危険だったなあ、がんばれよ、と励ましてくれた。
法大チューターは、1970年秋にやはり渋谷駅頭カンパ活動のとき、私に「おう、今度、人民革命軍・武装遊撃隊を創設するよ」と述べた。その後、ゲリラ闘争がたくさん展開された。対革マル派戦争でも革命軍が軍報として戦闘詳報を『前進』-印刷所が襲撃されたころは、『革共同通信』に上げていた。彼がその後、革命軍の非合法非公然活動にいったかどうかはわからない。アナキスト革命連合の千坂恭二氏が、われわれが突き当たった問題は、「軍事」だ、と述べていたことがある。赤軍派の問題も同様であり、反日武装戦線も、先のベトナム反戦直接行動委員会、中核派、社青同解放派、ブント戦旗派の軍事部門の問題もそうである。国家権力の組織暴力・弾圧に対するに、いかに勝つか、ということ、この問題が問われていた。だから、それはそれでヨシ、と革命軍の話を聞いたとき、思ったのは事実であった。全共闘運動は各大学で権力の暴力的圧殺にあっていた。
この私的事件から、少し考察してみると、深い問題に突き当たる。
① 1972年連合赤軍の内部殺人を見知って、なぜ優秀な同志たちをリンチ殺人するに至ったのか、自主的自発的に革命運動に身を投げうって生死を賭けてきた仲間を、殺すのか、それをこそ真摯に「総括」すべきではないのか、と思うものである。森恒夫と永田洋子に全責任を負わせることもできない。リンチ現場を容認したものたちも許されない。
② 革マル派や日共民青は論外としても、中核派が1980年代に行った第四インターの仲間たちへの三里塚におけるテロとリンチは、絶対に許されない。どんなに国家権力に戦闘的であっても、別個に進んで共に撃つべき他党派へ暴力襲撃を行うことは許されない。(註:第二期工事で、同盟共同所有地を公団に売り渡すという条件派の行為はもちろん許されない)
③ 1971年明治公園の全国反戦総決起集会で、中核派と社青同解放派が激突したが、そのような統一集会を破壊する中核派の暴力的襲撃は間違いである。当時、私はその現場にいた。
④ 1970年中核派の海老原君殺害事件、1972年革マル派の川口君殺害事件から、本多さん、中原さん殺害事件、それへの凄まじい報復戦、中核派・社青同解放派と革マル派の全面戦争が続いた。もともと1969年安田決戦から組織的逃亡(温存)をした革マル派だが、その後「8派解体」(※解体、というのは組織絶滅を意味する)を呼号して、機動隊規制の枠外にあって、襲撃を繰り返した。あの1968年10.21闘争のときの革マル派の「雄姿」はもうない。革マル派を反革命と断じることはその時点では無理がある。反革命的な言動、主張があった、というべきである。彼らが、独自行動で敵権力に闘争し、他党派解体を呼号せずに、批判は行いつつ、運動を行えばよいことなのである。実際、蒲田で、自転車のバリケードを作り、機動隊と闘い、革マル派独自闘争を行ったこともある。中核派は、それを内心良し、と思っていた。日共民青だけが、われわれの内部と言えば内部の敵なのだ。強大な外敵は存在している。
⑤ 後年、社青同解放派が、分裂したのち、出刃包丁で殺人をする、殺しあう、という悲惨な事態を招いた。労働運動に重点をおくものと、対革マル派戦争に重点をおくもの、ひとつの組織で2つの部門で展開が難しければ、潰しあいをするのでなく、分派してそれぞれが闘いを進めればいいと思った。60年安保以後、5流13派という分裂状態にあったが、それぞれが暴力的に殺し合い、潰しあう、ことはなかった。激論や殴り合いはあったかもしれないが、組織を抹殺するという相互間の悲惨な事態はなかった。なぜだろうか。
自党派のみが、「唯一の前衛党・革命党派」である、他党派は「小ブル急進主義」「反革命「小ブル雑派」「スターリン主義」「左翼小児病」等である、そうだろうか。革マル派と日共民青は、他党派の存在自体を認めない。だから論外である。それ以外の党派は、全共闘運動の核として闘い、各大学拠点で権力支配に痛打を与えている、それらは広い意味での「同志」「仲間」であり、絆によって結ばれなければならないはずだ。そして、批判は良い。しかし、批判はレッテル貼りではない。内在的批判でなければならない。すべてにおいて。自らはどうなのだ、と日々、常に、ことあるごとに自身に問いかけねばならない。個々人すべてが違うように、個々の党派も、まず他者を認め合い、話合い、本当に闘うべき敵は何か、それにどのようにして勝つか、民衆の幸福を実現する道と、どのように連携連帯して闘うべきか、と誠意を尽くして切磋琢磨していくべきである。
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①~⑤、それらはすべて、誰が喜ぶのかを考えるべきだ。国家権力・公安・機動隊、佐藤内閣、右翼、日本共産党が大喜びする行動ではないのか。逆に、これは例えの前提で、機動隊・公安内部でゲバルト戦が起こり、四機と五機が潰しあいをした、という比喩を想定してみればいい。われわれは、それ見たことか、と喜ぶだろう。警察が、暴力団抗争において、市民に迷惑がかからないならば、それぞれ潰しあいをしてくれたほうが、手間が省けて一網打尽にできる。どこか相似していないか。過激派も一派だけなら、管理しやすくないか。逆に、全勢力が統一して一点集中の闘いを長期的戦略的に仕掛けることこそ、敵権力が恐怖するところなのである。付随して、『革共同政治局の敗北』(水谷、岸共著)を著した水谷さんと岸さんの痛切な思いは、山村さんが『中核派民主宣言』を著した思いと同じではないか、と思う。ブントのほうが、そういう意味では、おおらかではなかったか。仮に『ブント民主化宣言』など著す必要もなく、おおっぴらに公然と批判、小競り合いをした。殺しあう、などということはなかった。赤軍派分派でも、さらぎ徳二氏への暴力があったけれども。

●革マル派外人部隊、青学に襲来
1970年5月頃だったろうか、国学院革マル派を中心とする外人部隊が、青学へ押し寄せたことがある。おそらく大学の主導権を取ることが目的のデモンストレーションだったと思われる。約70人。学生会館前の広場へ座り込み、アジ演説をリーダーが行った。学生会館の屋根には、叛旗派赤ヘルや全共闘部隊が数名、ビンや石を用意して下を見下ろしていた。私は、学生会館2階踊り場で、彼らを見ていた。結果、白兵戦にはならなかった。座り込みをしている革マル派の中には、青学グループはいなかった。だが、その脇に、2年生と思われるSという青学グループのひとりがヘルをかぶって立っているのを発見した。彼は、私が踊り場にいることを見て、ヘルもかぶっていず、じっと見ているのを凝視していた。その眼は、半分驚いたように、半分憎悪の光を持っていた。私が中核派と全共闘の主要メンバーだということを知っていたからだろう。真っ昼間に、のこのこ約70人も広場に座り込んでアジを聞いている程度なので、恐怖感はなかった。
青学の革マル派グループは、理工学部U君、M君、放送研究部のOさん、Yさん、ブントから鞍替えしたT君、O君などなどで、1968年のリーダーFさんやKさんはすでに主要メンバーではなかった。ある程度身を引いていた。なので、1~2年生が主体となっていたため、機動隊や日共民青、右翼との闘争・激動のバリケード・弾圧・逮捕勾留・テロなどを経験していなかったと思う。
1年前の国学院右翼による革マル派全共闘部隊が、青学に避難行動した際、リーダーだったものと話合い、救護活動を行ったことなど知らなかったかもしれない。とにかく、革マル派というのは、信頼できないものだ、と再確認した事件であった。素のままで、全学闘―全共闘に参加してきた学友が、1970年になると党派色が濃くなり、青学では、叛旗派が中心で、中核派、ML派、社青同解放派、フロント、革マル派の6党派しかいなかった。民青はこの頃も大木院長の独裁支配に抵抗することもなく、外部での活動のみだった。つまり、学内ではビラマキも集会も何もしていない。

●1970年6月安保決戦―6.15~23へ 6.15―7万人日比谷総決起、
6月23日黒ヘルと黒旗を掲げる
前述のチューターとの確執や、疑問、躊躇などを心中に抱きながらも、目前の1970年4.28闘争など諸闘争に決起、ビラマキ、アジ演説、集会、会議など活動が続いた。それは必死で遂行した。そして、ついに、1970年6月安保粉砕統一行動へ決起する。正念場だった。この闘いのために、高校生の私は、死を決意し、青学入学以来、1968年~1969年のほとんどの激闘に参加してきたのだった。
逮捕も2回された。青学を安保粉砕・日帝打倒の砦とする、この思いが究極を極め、自身のなかに緊張が漲っていた。学内で総決起集会を行い、日比谷公園へ向かう。6.15、この大集会には約7万人が参加したとある。当時、赤軍派は、このカンパニア闘争(実力闘争ではない)を評して、「壮大なるゼロ」と言った。だが、この結集した労働者・学生・市民の統一行動は、機動隊公安が、ほとんどデモ規制に手が回らず、全く自由な霞が関周辺のジグザクデモ(スクラムを組んでジグザク模様で小走りに展開するデモ)やフランスデモ(手をつないで広がって行進するデモ)、通常の密集体形でのデモ、と多彩な安保粉砕行動を実現させた。あの1966年頃のデモとは雲泥の差である。
私は、樺美智子さんの遺影を先頭にした中核派のデモ隊列の先頭部隊にいた。このデモ隊列は、首相官邸や国会議事堂に続く道路を、放水車・装甲車と機動隊の大盾隊列でガードしていた、その機動隊の隊列に体当たりして押し合ったのである。私のすぐ前に機動隊員がおり、盾でグイグイと圧力をかけ、双方でびっしり密集することとなった。
この時、明治学院の同志が、機動隊員の暴行を受けて、失明する重傷を負った。

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《写真左:中核派・樺さん遺影を先頭に、右:ML同盟6月決戦/人民総武装パンフレットーネットより転載引用》》

後列部隊のML派諸君とアナキストグループが、この放水車や装甲車への抵抗闘争を行った。賛辞を贈りたい。
デモは機動隊隊列の左側の道路へ押し出され、国会議事堂方面へ突破することはできなかった。
デモ隊列の先頭にいた私は、50m先右手・道路中央分離帯に機動隊指揮官と副官がいたので、たまたま拾った傘をもって、指揮官に向かって、一人でじりじりと進み、指揮官に殴りかかったが、副官が盾で防御した。指揮官は、白色指揮棒をもって私を指し、何か叫んだ。そのとき、歩道にいた群衆のなかに、目をギラギラさせて私を虎視眈々と狙っている公安私服が2名いたのを見て、私はうしろに20mほどに迫っていたデモ隊列に入り、逮捕は免れたのである。その後デモ行進は続行された。あまりに弾圧が激しく、隊列はときどき崩されそうになったが、再度、再々度、何回も立て直し、「安保粉砕 闘争勝利!」デモ行進を貫徹した。途中、私服が、デモ隊列が崩れた間隙を縫って、同志を引き抜いて逮捕しようとしていたので、隊列が崩されたため歩道にいた私は、その私服の尻を思い切り蹴り上げた。すると、私服は、誰がやったかわからず、見境なく誰彼なく逮捕しようと右往左往していた。結局逮捕はできなかった。結束は強かったのだ。彼らは、一人逮捕すると、「検挙手当」がもらえるのである。機動隊員も憎いが、この私服がもっとも卑怯で憎い。
6.23安保粉砕統一行動の日。この日は青学で総決起集会を行ったが、私は、自らの思いと考えで、中核派の白ヘルはかぶらず、アナキストの黒ヘルをかぶった。6.15は小学校時代の樺さん虐殺の衝撃、彼女への哀悼の意味を込めて、中核派の隊列にいた。しかし、自身の思想や哲学において、どうしてもボルシェビキには納得できなかった。高校時代の背叛社、黒旗社、ネストル・マフノーの黒軍・自由共和国、クロンシュタットの反乱、サビンコフの自由祖国連合、が心に蘇ってくる。理由は前述で少し触れた。レーニンから疑え、ということだ。叛旗派の全共闘議長K君は、「レーニン主義じゃダメなんだよ」と言っていた。反戦高協時代の学友が、「共産主義じゃダメなんだよ」の言葉とともに、なぜかよく覚えている。戦闘団(叛旗派)は、いみじくも、サビンコフの社会革命党(エスエル)の武装集団名である。(註:叛旗派がエスエル主義ということではないので誤解なきように)私は、詩人カリャーエフのように高潔な魂をもっていたい、と思った。
青学のデモ指揮を行い、総決起集会に集合、デモ行進を行った。昨年のように大荒れではなく、それなりの多数のデモ部隊だった。途中、旗を機動隊員がもぎ取ったので、その隊員に「お前!」とにじり寄って抗議をしたが、彼はだまっているままであった。彼はデモ行進隊列の規制がなく、ひとりで警備していた若い隊員だった。ひとりでは機動隊員もただの人間である。デモが終わり、学生会館に戻った全共闘部隊のT君が、「すごいな、ひとりで機動隊員に・・」と言うから、「旗をもぎ取ったから、抗議しただけだよ」と返した。砂川闘争のときの、荒さんもそうだったことを思い出していた。

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《写真上:6.23中核派旗竿部隊、中:ブント戦旗派部隊~この部隊は反転して機動隊規制隊列へ突進していった。ーネットより転載引用》 /下:黒色戦線社パンフレット「無政府主義組織論」「無政府主義とサンヂカリズム」筆者撮影》

終章 青学全共闘/中核派からアナキズム、演劇研究・文芸専攻へ
●1970年7月退学届を出すー早稲田2文「演劇」を目指す
1970年の7月、私は青学を辞めた。退学届を学生課に提出した。救援対策部の女子学生(現在の妻)と暮らし始める。
彼女は、翌年3月卒業。私は、7月から特許庁の下請会社でアルバイトを始めた。そこで、アルバイト仲間が何人かいたが、うち2名と仲良くなったが、なんと彼らも革共同・中核派のシンパで、この年の8月日比谷野音で開催された政治集会に参加していた。この頃は、こんなことはふつうにあった。バリケードがふつうにあった。集会とデモが日常だった。中核派に限らず、新左翼諸党派に参加する人間は多数だったし、ベ平連(ベトナムに平和をー市民連合)、フォークゲリラ、フーテン族、高校全共闘、そしてそれに反対する右翼、新右翼民族派も、文化芸術の新しい運動、音楽、生活の向上(高度経済成長期)-郊外団地開発や鉄道や高速道路・インフラの整備、マクドナルドの出店、コーラという飲み物、などが次から次へと展開されていった時代であった。「団塊の世代」と堺屋太一氏が命名したとおり、小学校から大学まで、団塊となって、そのなかで生き方を模索し、悩み、躊躇もあり、どの道を行くのか、その日その日で命が終わるような日々がこの5年間続いてきたのだ。
アパートも、すでに4月から東横線のとある駅から徒歩10分のところに借りた。トイレは共同、木造のボロアパートだった。父と義母に借りてもらったアパートは、3月に引き払った。引越を手伝ってくれたのは、元革マル派のY君とその彼女だった。彼はのち、自動車関係の評価会社を興した。5月に演劇団旗揚げに加わった経緯から、演劇に興味をもち、早稲田大学文学部を目指し、勉強を始めた。アルバイトも、特許庁の下請、サントリー多摩川工場(ここでは神奈川大学の全共闘メンバーもいた)―1日働いて1000円だった。横浜でのチラシ配り、蒲田でのテキヤ、などたくさんやった。父母の経済的援助はもうこちらから頼むわけにはいかない。ただ、母は青学を退学するまで、学費を払い続けてくれたのだ。青学で授業に出たのは、4月~6月のたった3ヶ月だけであり、いわゆる学生時代、といわれるのはそれだけである。マンドリンクラブはほんの一瞬であったが、いい思い出となった。その時の親友M君は今でも付き合いがある。喫茶店で何時間も話をした。

●1971年4月早稲田二文入学―バイトと演劇団/赤色劇場―川口君虐殺糾弾闘争
1971年4月早稲田大学2文に入学。仏語クラス(Iクラス)だったが、このクラスは、2文という性格上、個性豊かな学友がたくさんいた。例えば、フランス大使館に勤務していた学友、一度大学を中退して再入学したもの(私もその部類)、夜間部のため、昼間はバイトや仕事をしていたものもいたであろう。その中に、日大全共闘芸術学部にいたO君(元造形大教授/女子美大講師)、今次全共闘白書の縁を提供してくれたO君(元生協理事)、社青同解放派シンパのI君(元ゴルフショップ経営)、M君(現首都大学東京特任教授、元高校教師)、M君(元反戦高連、函館ラサール)、W君(故人、長野のタウン誌編集)、K君(のち、教師)、I君(元日経新聞)、K君(元テルモ社)などがいた。この頃によく飲み入った店に、「異邦人」がある。

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(写真上:広告チラシ)
私は、昼間のバイト(レストランウェイター、タウン雑誌営業、業界紙編集)を1976年まで続けながら、流山児祥の「演劇団」と関わり、その後、早稲田の劇団「赤色劇場」(写真下:「赤色劇場」台本)とも関わった。後者のメンバーには、星川京児君がいた。彼は、音楽の楽曲提供とともに、後年は世界の民族音楽の紹介・流布に心血を注ぎ、近年は邦楽にも境地を開いていたが、先年惜しくも他界してしまった。この音楽メンバーとのつながりで、はみだし劇場主宰していた外波山文明さんと関わっていたマビイ(女性歌手)の新宿でのコンサート楽曲も提供した。マビイのマネージャーをしていた田村氏は、泳げたい焼き君(子門まさと)のマネージャーをしていた方である。田村氏とマビイに連れられて新宿の狭いスナックに行ったとき、端の方にうずくまって飲んでいた暗い感じの男がいた。それは、タコ八郎だった。直接、全共闘運動のテーマにはずれるので、本稿はここでちょっと触れることにする。
1972年川口大三郎君虐殺事件を、早稲田革マル派が起こした。リンチした上に、遺体を病院前に放置したのである。この過ちに満ちた残酷なテロ行為に対して、革マル派糾弾の嵐が全学で巻き起こったのである。(註:学友O君の続全共闘白書アンケート参照)革マル派中央は、自己批判したが、早稲田学友たちの怒りは収まらなかった、自治会設立へと運動は発展し、それに対して革マル派は外人部隊を導入、Iクラスも夜間の学内デモを行ない、抗議の声を上げた。革マル派の10人位が中庭で集会、それを多数の学友が取り巻き、「帰れ、帰れ」の大合唱だった。集会参加者はうずくまり、首を垂れていた。川口大三郎君は、中核派の同盟員でもなければ、シンパでもない。彼らに文句をぶつけ、議論をふっかければ、それだけで目をつけられ、拉致されたりする空気、あるいはおそれが、あった。今まで、文学部キャンパスをわが物のように支配してきた革マル派にみな嫌気がさしていた。そういう雰囲気があった。二文での彼らのクラスオルグは、OとNの2人チームで、うるさいほど執念深かった。文句を言えば、前述のように目をつけられ、マークされ、川口君のように正義感の強い1年生は、拉致、リンチされるような重たい状況だったと思う。まして私は1970年まで中核派同盟員だったのだ。O君はML派だった。それこそ解体対象である。
外人部隊が侵入してきたとき、われわれは学外に追い出される形になったが、革マル派はわれわれに写真撮影を行い、とにかく陰湿だった。まるで公安刑事か、と。つまりは、居直ったのである。夜間の革マル派外人部隊と衝突になり、非武装のわれわれは、学内から出ざるを得なかったが、私は彼らに投石をして怒りをぶちまけた。結局は、革マル派は、川口君虐殺の真の反省などなく、自治会とその交付金と学内支配を民青と二分して、継続することが最重要だった。私は、昼間は編集のバイトをしていたので、昼間の出来事については学友からすこし情報を得るだけだったが、新しい学生のための自治会創立に向けて、みな闘いを続行していた。この間の闘争過程で、昼間だったが、早稲田正門前に集結し衝突になろうというところに、機動隊が迫ってきたことがある。私は思わず、投石をした。それが奏功したのかどうか、わからないが、機動隊が急に退いて、救急車が到着。機動隊員の誰かに命中したのだろうと思う。

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《写真:上:「棺を立てよ」2文Iクラス/虐殺糾弾パンフレット=表紙は「シュールレアリスム」となっていて、即内容がわからないようになっている。中:“怒りを日の糧に”10.6集会実行委員会―11・8の一周年ビラ、下:「革共同革マル派全学連」名のパンフレット“小ブル雑派解体”を呼号しているが、川口君虐殺の誤り・謝罪は明言されていない》
一度、どういうものなのか知りたくて、革マル派のフラクションに出席したことがある。10人ほどの学友が5人ずつ向い合せに座り、中央に指導者らしきものが1名、脇に1名がいた。結論から言う。それはテープレコーダーのように、ひとの熱や血が通っていないテーゼの繰り返しで、長時間、学友たちは発言ひとつなく、じっとそれを聞いていた。いま、その内容はまったく思い出せない。憶えているのは、暗い声でながながと繰り返されるご託宣だった。新興宗教のそれによく似ていた。たまったものではない、と感じた。
こうした1972年からの「激動」もあり、革マル派自治会はリコールされたものの、大学側は自主的自発的に学友たちの意志で作られた自治会を認めなかったのである。予算もつけなかった。以後、革マル派と日共民青の2大学生支配がまだ続くことになる。私は、ここでもまた、1つの「スターリン主義党」と1つの「反スターリン主義党」の陰湿さ、謀略性、暴力性を見たのである。早稲田学友の小笠原君の話では、このときの自治会創立に尽力した学友も、何人かは旅立ったとのことである。敬意をこめて、冥福を祈りたい。また、Iクラス学友のうち、数年前にH君も他界した。これは学友M君から聞いた。一クラス下のCさん(女子)も2008年に他界している。みな哀悼の意を捧げる。
早稲田時代、1972年東横線沿線アパートに現在の妻と暮らし始めたとき、朋友たちがたまたま集まったことが有った。
元青学革マル派リーダーFさん、元叛旗派I君とその兄、彼の福岡の親友、演劇団の木の内頼仁君、元青学全共闘2代目議長K君、演劇団女優Eさん、同男優H君、高校時代親友K君(青学全共闘)、青学全共闘シンパ夏目房之助君、中核派・青学全共闘S君(1969年3度逮捕)、中学時代の朋友K君、S君、S君である。みんなわいわい話し、飲み食べた。また、青学叛旗派が、ガサ入れ(警察の手入れ)のためヘルメット(赤・「叛」マーク)を預かってくれ、と連してきたので、預かったこともある。・・妻の学友(全共闘シンパ)から、社青同解放派の指名手配中のひとを一定期間かくまってくれないか、という申し入れもあったが、それは断ったことがある。
1970年に東横線沿線に一時借りていたアパートからこのアパートに引っ越す際、元中核派の同志K君とT君が手伝ってくれた時、公安刑事2名が監視で立会いに来ていたことがあり、このアパートも監視対象とされている危険性があったからだ。私は、監視対象だった。
そんなエピソードのなか、早稲田の方は、1977年3月卒業となった。単位が不足していたので、2年間も伸びた。
昼間の業界紙編集バイトは、5年間も続いた。ちなみに、編集長は元国学院生で、同大全共闘のシンパだったKさんというひとである。
1971年早稲田1年生(すでに22歳)の時、明治公園で開催された全国反戦主催・総決起集会が行なわれた。
この集会に参加したが、中核派が公園入口から大波押し寄せるようにゲバルト部隊が突入、社青同解放派の部隊に襲い掛かった。の衝突を見て、1966年~68年のあの激闘を、軋轢はあっただろうが、共に戦い抜いた戦線の破綻を見たような暗い重い気分になった。この後のデモは大荒れになり、赤軍派が爆弾を投擲、私も機動隊のジープを破壊、私服公安刑事を隊列側に発見したので、問い詰め、機動隊へ投石しろ、と強制したこともあった。囲まれてひとりでは彼らも何もできず、言うがまま、機動隊へ投石を素直に行った。このデモから以降、私は思想の問題は別として、戦闘的デモ隊列と直接行動から去ったのだった。

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2文卒論は、故水野忠夫先生に師事研究した『ロシア前衛芸術運動』(メイエルホリド:写真上)であった。水野先生は、『マヤコフスキーノート』ほかの著作を著し、ロシア文学研究の叡智だった。NHKのロシア語講座に出演していたこともある。感謝の念は今でも強い。2008年惜しくも逝去された。私はそれを3日間寝ないで書きとおした。
高校2年からこの時まで、すでに気づけば、10年の歳月が嵐のように過ぎ去っていった。閃光のような眩暈とともに。(了)

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□本稿を終えるにあたって思うこと~あとがき~鎮魂、そして闘いは終わっていない

◆1977年大手物流会社へ就職、以後、ビジネスマンとして営業・作業管理に33年関わり、国内駐在、海外勤務も経験した。その間、日々厳しい心身をすり減らすような時間が過ぎた。物流会社退職後は、JETROや大手海外宅配会社(海外)でも働き、その後公務に携わっている。50年の経過のなかで、青学全共闘の数人の仲間、また、早稲田でのクラス学友数人、とは交流が続いている。50年、と一言で言えば簡単だが、半世紀は長すぎる。

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◆大手物流会社での19977年~1983年頃までは、中核派とは疎遠になっていたが、前述の山本寛君(上写真:1970年当時、文連委員長。隣はO学生部長)は、時々事務所近くまで来てくれて、機関紙誌をくれた。もちろん、カンパもした。
彼が姿を見せなくなってから、名前も知らない中核派の人間が、カンパをもらいに来た時期もあった。名前も言わず、こちらも問わず、誰なのかさっぱりわからない。浅草橋放火事件が起きてから、山本寛君の指名手配写真がどこの交番でも見られるようになった。1983年頃から、音信不通となったのである。もちろん、会社には、あるいは会社関係の全ての人たちには、この闘いの記憶は語らなかった。つまり、50年口を閉じていた。全共闘の仲間と早稲田の数人、演劇団関係、そして救援対策部にいた妻だけである。だから、半世紀は長かった。
◆青学全共闘の仲間、シンパで2020年末現在、初代文学部闘争委員長Y君(2020年病死)
文学部闘争委員Dさん(女子/自死)、神学科闘争委員長Yさん(2020年自死)、ブントから革マル派に行ったYさん(病死)、全共闘シンパK君(事故死)、同Tさん(女子/病死)、中核派同志M君(2017年病死)、クラス学友ブントのK君(病死)、中核派同志/新聞会Kさん(病死)、演劇団スター悪源太義平氏(2018年病死)、ML派だったK君(事故死)、元革マル派リーダーFさん(病死)―多くの閃光の季節をともにした仲間たちが旅立ってしまった。早稲田の自由な自治会創立に命をかけた仲間たちも次々と逝く。彼らが語らないままだったものはいったい何だったのだろうか。

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《写真4枚:闘争継続!の青学全共闘集会・デモ行進1970年/下:ロックアウト粉砕闘争1969年)    
◆忘れ得ぬ方々、戸村一作さん、宮岡政雄さん、北原鉱治さん、日本農民の誇り。
◆足尾銅山・水俣から続く「公」害、原発汚染、障がい者・女性・民族差別、国家と大企業による利権優先事案に対する住民訴訟、薬害、災害予防放置、派遣労働と国民の貧困化―貧困層の増大、自死年間2万人、親子・親族殺し、親の死を隠して年金横領、家庭内暴力、児童・幼児虐待/殺害、食の安全策放置、ガンマフィア利権、5Gとリニア電磁波被害隠蔽、コロナ汚染蔓延放置・・どこに豊かな日本と国民がいるのだろうか。世界も戦争と避難民、自然界汚染、分断と差別、国家による自由と人権の蹂躙、中共の臓器売買・世界の人身売買・・どこに世界の幸福があるだろうか。この人生残りすくないなかで、あまりの惨状に絶望しかける。まだ、闘いは終わっていない。
◆私の個的実存の軌跡を書くことの一端は、先に傷つき、殺され、自死し、旅立ったひとびとの鎮魂にある。ひるがえって、敵であったものたちも多くが鬼籍に入っていることだろう。敵ではあったが、鬼籍にあるものたちの冥福をも祈りたい。生まれ変わったら、敵ではなく、自由を愛する同じ戦列にスクラムを組むものたちであってほしいと願う。
◆コロナ禍が蔓延している現在(2021年1月)、すでに1年になろうというこのとき、自公政府は弥縫策しか行わない。無能あるいは故意か、国民を3000人も死に追いやった。多くが感染、発症・無症状に関わらず、危険にさらされつつある。あまりに悲惨。医療従事者、介護、保育、福祉に関わるすべての人々、老人・こども、国民大多数の命を何と思っているのだろうか。50年を経ても、抑圧と弾圧と無策無能は厳としてある。
まだ闘いは終わらない。終わらないがゆえに、反権力と自由希求の全共闘運動・政治闘争の体験と、たとえそれがエピソードであっても本稿に記した。若きひとびとが、そのなかになにかひとつでも、光る衝撃を見つけてくれれば、それぞれの闘いに立ち上がってくれれば、本望である。また、改めて医療や福祉、保健所、介護、保育、教育などに関わるひとたちへ敬意を表したい。
◆いま、学習塾に貧困から行けない子どもたちの支援、にすこし関わっている。
子ども時代に受けた社会の支援の手は、成長してから大きな心の栄養になる。逆に子ども時代に受けたあらゆる虐待・差別・冷遇は、成長を妨げ、歪んだ人間を生む。自身にできることからやらねばならない。フードバンクや子ども食堂でもできることからやらねばならない。早稲田学友のM君は、現在、高校生主権者教育を提唱し実践、高校整理統合反対の事務局として活動している。青学の学友(女子)は、ひとり親家庭・離婚した女性の支援ネットワークで活動している。同じく青学の学友(女子)は、タイのエイズ感染の子どもたち支援活動をしている。できることを、能力のなかで、少しずつでも始めること、それが本当の基督教精神であり、青山学院の建学の精神なのである。
   
◆本稿を書く動機となったのは、2019年「続全共闘白書編集委員会」のアンケート回答に関わったことによる。同アンケートの契機をくれたのは、早稲田2文学友の小笠原君である。深く感謝している。また、編集委員会の山中氏のアドバイスにも感謝申し上げたい。事務局の前田氏、ほか同委員会の皆様、「情況」主宰各位にも連帯の気持ちを伝えたい。
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尚、本稿は残存資料が50年前であること、1969年指名手配前に同志が組織防衛のため、反戦高協時代以降多数の資料を持ち去ってしまったため、極めて少ないなか、記憶をたどって執筆しました。時系列や月日、集会デモ、人名等記憶違い等記述がありましたら、その点はご容赦ください。なるべく時系列に沿って執筆しています。ご指摘いただければ幸甚です。
(筆者)
       2021年1月8日

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《1969年5月沖縄闘争後の筆者―20歳/青学キャンパスにて。■撮影:当時、先輩/青学4年生S氏(後年はジャーナリスト/写真家) 》
■著者略歴:
1949年(昭和24年)東京生。1965年都立高校入学―1968年青山学院大学法学部入学―1970年中退。1971年早稲田大学第二文学部入学―1977年同大卒。同年大手物流会社就職―2009年退職。JETRO-大手国際宅配会社海外駐在を経て、現在非常勤職員。天台宗僧侶。

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 文献目録
「青春の墓標」奥浩平/「10.21とは何か」(「10.21とは何か」出版する会/「1968年」毎日新聞社・復刻版/青山学院大学新聞/毎日グラフ(昭和44年2月号「爆発する大学」特集)/早稲田大学新聞/武装」「共産主義者」中核派機関誌、1970年度青山学院大学卒業アルバム、早稲田大学関係チラシ、パンフレット/ノインターネットよりWikipedia、全共闘運動・学生運動・政治闘争・演劇関連ブログ記事等より引用(※表記)。
(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月28日(金)に更新予定です。

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