野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなりました。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

51MhsoaQs5L._SX342_BO1,204,203,200_


【「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(川上泰徳著・岩波書店刊)】
「シャティーラの記憶」(川上泰徳著・岩波書店刊)を読みました。頭の芯から言葉にならない想い――こんなにもつらく繰り返される人々の苦難と闘い、そしてそれは私自身の自らの記憶と体験と交叉する分―-なつかしさと化学反応を起こしたように言葉にならない想いが溢れ出たのです。
 シャティーラ――そこは、ベイルート市内からも近い0.1?の狭いパレスチナ難民キャンプ。私が1971年、ベイルートに着いた3月、初めて訪れた難民キャンプがシャティーラです。イスラエルがベイルートを占領した1982年、パレスチナ難民たちをキリスト教徒右派民兵を使って、シャロン国防相が虐殺させたのも、このシャティーラです。
 この本の著者は、20年にわたって特派員などを体験してきた中東問題専門家であり、フリーランスとなった2015年から2018年の3年間、ナクバの70年目にこの本をまとめる考えで、のべ6?月ベイルートに滞在してシャティーラ難民キャンプに通いました。そして1948年前後からパレスチナを追われたナクバ(シオニストのパレスチナ人民族浄化によって1948年のイスラエル建国が成された、パレスチナ民族にとっての大厄災のことをナクバという)時代の難民の第一世代から現在の若者たち第三世代、第四世代の約150人のシャティーラの住民にインタビューを重ね、それぞれの時代の経験と記憶を探り、パレスチナ難民の70年の実情を記録しているのが、このルポルタージュです。
読みながら、人間としてこれ以上ない仕打ちを受け、闘い、生き、語る人々の姿に、何度も立ち止まらざるを得ませんでした。1948年当時、パレスチナを追放された70~80万人と言われた難民登録者数は今や650万人を越えていますが、ここで著者が浮かび上がらせた住民の実情は、同じように650万件の記憶と経験があるのだと思いつつ読みました。どこのキャンプでも、きっと同じことが溢れていると思います。かつては、あるいは今もファタハやPLO、PFLPに属して闘い、闘い、闘ってきた老齢の父や母、その息子、娘たち、住民のパレスチナ人一人一人の人の一端が立体的にこの本で描か言を聞き、記憶を集めるのは、パレスチナ問題の歴史の事実を検証するためではなく、「私はあくまでも難民たちの脳裏に焼き付けている体験の記憶という主観的な言説を集めることで、彼らの体験を70年という時の広がりとして知りたいと考えた。それは私がジャーナリストとして、パレスチナの実感に触れる方法であり、人間体験としてのパレスチナをシャティーラという舞台の上で再構築しようとする試みである」と記しているように、やり方も独特です。まず、シャティーラに行き、出会った人にインタビューを試み、人から人へと話をしてくれる人間を探してインタビューを続けたのです。「50人、60人の話を聞いても見えてこない。(中略)取材が3年目となり、100人を過ぎたころにシャティーラを舞台にしてそれぞれの事件や時代ごとにうごめく人間の集団が見えてくるような感覚があった」と「あとがき」で述べていますが、オープンマインドのアラブ人、パレスチナ人だから見ず知らずの著者と出会い、率直に語ってくれて、この本の記録が成立していることがわかります。
 目次の第1章は「ナクバの記憶」として1948年にどのようにシオニストによって殺され、家を追われたのか、当時のアラブ志願兵らの姿も浮かび上がります。もっとも重要なこのナクバの記憶が少ないページしか割かれていないのは、すでに著者がインタビューを始めた時には、多くの当事者が亡くなられているためでしょうか。当時10歳前後だった人々の証言を読みながら時代をしみじみ感じてしまいました。私が70年代初めのシャティーラで聴けば、ナクバの記憶が家族中から怒りと哀しみと共に途切れることなく溢れ語られ、パレスチナ史はそのこと一色でした。のちのシャティーラの歴史となる右派キリスト教徒民兵による虐殺や、シリア軍やレバノンシーア派のパレスチナ人弾圧もありえなかった時代です。
 このシャティーラキャンプはパレスチナ祖国奪回をめざす民族主義者のパレスチナ人によって、闘いと訓練の砦として、当初場所が確保されたそうです。この始まりから、70年代のパレスチナ革命の「黄金時代」(カラメの闘いからミュンヘン闘争を経てアラファトの国連演説など)からさらに82年のサブラ・シャティーラ虐殺事件。この虐殺の実態を住人は語っています。あの虐殺直前にイスラエル軍に包囲されたシャティーラ住民は、代表団を平和の使者として白旗を掲げてイスラエル側との交渉に向かったのですが、そのまま行方不明となったそうです。そして、9月16日から18日の3日間の殺戮の目を覆うような残忍さ。
 しかし、イスラエル包囲下の虐殺の中でも、シャティーラの住民たちの中から約100人が虐殺者に抗して、ゲリラ戦で闘い続けたので、狭い露地の地形を知らない虐殺者たちは恐れ、キャンプの奥に入れず、18日撤退していったとのこと。撤退するまで、抵抗戦を闘ったという当事者の証言があります。私たちもサブラ・シャテーラ虐殺に対する国際民衆法廷をPLOと共に、83年日本で開催する準備をしたのですが、ゲリラ戦の抵抗は、当時十分知られていませんでした。
 また、93年の「オスロ合意」の過ちが難民キャンプを無気力にさせてしまったことも実感できます。シャティーラなどレバノンの難民キャンプの居住者は1948年のナクバの時の難民たちであり、オスロ合意によって、「帰還の権利」が棚上げされたばかりか最終地位交渉でもイスラエル政府は帰還権を拒否し続けてきたし、そうなることは当初から危惧されていたからです。
 第7章「内戦終結と平和の中の苦難」がそれですが、レバノン内戦終結と「オスロ合意」を経て、レバノンのパレスチナ難民が平和から除外されていく姿や、また、PLOやファタハからガザへの帰還メンバーに選ばれたり、役職を示されながら、愛する家族の居るシャティーラに残った人々の話に人間の尊厳の心の持ちようを教えられます。
 第8章、第9章は、私の知らない時代で、後半部分の記録には、衝撃を受けつつ読みました。
 第8章の「シリア内戦と海を渡る若者たち」では、シリア人と違って、パレスチナ人は欧州で難民として認められず、多額の旅費を掛けつつ、シャティーラに舞い戻った人や、逆に自ら欧州から戻ってきた若者たちの姿も描かれています。
 また、シリア難民の何家族もがレバノンで保障のない生活を強いられ、家賃の安いシャティーラに間借りしていることも知りました。200ドルの家賃と日々の食費を稼ぐために毎日大通りに出て、ティシュを売って、健気に母親を養うシリア難民の少女の話。そうか、シャティーラに身を寄せて暮らすシリア人まで居るのか……。
 さらに第9章「若者たちの絶望と模索」では、深刻な「パレスチナ人の今」が、人々のインタビューから浮かびます。「オスロ合意」で、「帰還権」は棚上げされ、80年代のシーア派民兵によるキャンプ攻撃が続き、当時学ぶ機会を奪われた子供たちの今。政治的NGOなどに参加し、親たちの希望を継承する若者が育つ一方で、薬物依存や売買がキャンプに広がっている実情に驚かされます。それが家族間抗争や世代間断絶にもつながっているとのことです。
 「ナクバから70年を経て、かつて『パレスチナ革命』を担ったシャティーラには殺伐とした光景が広がっている。今シャティーラが直面しているのは、従来のパレスチナ問題を超えて、難民第三世代、第四世代となる子どもや若者たちと家族として、人間として、どのように関わるかという、より根源的な課題である」と記す著者の9章の結びに衝撃を受けました。レバノンのパレスチナ難民の置かれた差別による貧しさ、正規の就職を禁じられた生活を強いられ、数々の弾圧の中希望のない未来を見た時、若い人々が闘いも努力も虚しくなることも判ります。この若者たちの現実を、闘ってきた大人たちは、どんな苦悩でそれを見つめているでしょう。故郷を追われ真っ当な生活を奪われた結果の現実の一面だからです。でも著者は第1章からずっと、特に「終わりに」の中で、このシャティーラの人間的絆の深さ暖かさ、互いに助け合い問題を解決する委員会や調停など人々の暮らしの自治・自決の姿を記しています。この自治・自決はまた、女性たちこそがその家族と社会を支える存在であること、そしてその根本には、あくまでもパレスチナへ帰るという代を継いだパレスチナへの帰還を、かつてより強く願い続けている老若男女の意志として記しています。今やパレスチナのディアスポラは世界中に存在し、パレスチナ人が被った政治的暴力、生活を破壊される貧困を生む経済的暴力含めて、この暴力やそれを告発し克服しようとする意志は、「パレスチナ人の70年の経験がパレスチナを超えて、世界へ、そして普遍へとつながっていることを示している」と。パレスチナのナクバから70年、0.1? に住む人々の記憶と記録が普遍的な告発、世界の人間の尊厳の闘いとして問い返されています。
 ナクバに始まるパレスチナ人の70余年は、あまりに悲惨です。どのように人間性を奪われてきたのか、数々を淡々と語りながら、直、人間性豊かな人々。この本が人々の個々の歴史の縦糸と時代時代のシャティーラでの事件とその解決の共同性――ある時は武装し、ある時には真摯に仲介し―― 一つ一つが具体的に描かれていて、目に見えるようです。
 この現実をもたらした歴史的犯罪は今も裁かれず、パレスチナ人を「邪魔者」のように扱う世界で、なお帰還を求めるシャティーラの住民たちの世界を変えようとする諦めない意志に共感し、世界を、日本を変えねば……と、改めて思います。
リッダ闘争の日に読み終えました。
(5月30日記)

【本の紹介】
「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」

岩波書店 2,860円(税込み)
(以下、紀伊国屋書店Webサイトより転載)
内容説明
故郷を追われてから70年。レバノンのキャンプに暮らすパレスチナ難民の証言を通して、苦難の歴史をつむぎ出す。0.1km2のキャンプの歴史から浮かび上がるパレスチナ問題の本質。
目次
第1章 ナクバ“大厄災”の記憶
第2章 難民キャンプの始まり
第3章 パレスチナ革命
第4章 消えた二つの難民キャンプ
第5章 サブラ・シャティーラの虐殺
第6章 キャンプ戦争と民衆
第7章 内戦終結と平和の中の苦難
第8章 シリア内戦と海を渡る若者たち
第9章 若者たちの絶望と模索
終わりに―パレスチナ人の記憶をつむぐ

著者等紹介
川上泰徳[カワカミヤスノリ]
ジャーナリスト。1956年長崎県生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)アラビア語科卒。1981年朝日新聞社入社。学芸部を経て、特派員として中東アフリカ総局員(カイロ)、エルサレム、バグダッド、中東アフリカ総局長を務める。編集委員兼論説委員などを経て2015年退社。エジプト・アレクサンドリアに取材拠点を置き1年の半分を中東で過ごす。中東報道で、2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

【書評アーカイブス】
このブログでは、主に「オリーブの樹」に掲載された重信房子さんの「書評」(本の感想)を掲載しているが、今回は、以前、このブログに掲載した書評の中から、アクセス数の多かった記事を紹介する。

重信房子さんの獄中書評「夜の谷を行く」(桐野夏生著)
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2017-09-15.html
浅川マキの書評 ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-10-31.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年集会

img702_1
日時:2020年1月13日(祝) 午後1時半~
会場:PLP会館大会議室
   (大阪市北区天神橋3-9-27)
会費:入場無料
内容:「1969年とは何であったのか?」
    海老坂 武 氏(フランス文学者)
   「11.13裁判・付審判闘争の報告」他 
  
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月20日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなりました。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)

全国学園闘争の記録シリーズ。今回は大阪市立大学である。
大阪市立大学は大学のサイトによると『大阪市立大学は、1880年の大阪商業講習所設立に始まり、日本で初めて市立の大学として発足した旧制の大阪商科大学を経て、今日まで続く長い歴史と伝統を持つ公立大学です。公立では数少ない総合大学であり、高い水準の多様な学問研究を基盤とする研究大学として歩むとともに、「理論と実際との有機的な連結を重視する学風」や市井の精神に発した自主独立・自由進取の気風を重んじて、大阪の発展や日本と世界の未来を担う人間を長年育成してきました。』とのことである。
大学のサイトを見ても、1968年から1969年にかけての大学闘争のことには全く触れられていない。歴史から抹殺されようとしている個別大学闘争の記録を残してくのが、このブログの使命でもある。
では、当時の新聞や雑誌の記事から、大阪市大闘争の様子を見てみよう。

東大全共闘機関紙「進撃」1969.3.10
【運動貫く拒否の思想 医学部問題が発端】

昨年10月、大阪市立大学医学部は三項目要求を掲げて闘争を開始し、2月14日本部封鎖を大衆的に決行し、入試阻止闘争に向かおうとしている。
医学部の三項目要求は次のとおり
1. 講座制=教授会独裁体制解体
2.教授会の公開性、枠の拡大を実施し学生、青医連、大学院生の対等参加を認めよ。
3.教授、教員選考の際、全構成層の参加を認めよ。
このような医学部の闘いの前に、大阪市当局、学校=当局は一度は屈し「医学部民主化委綱領」を締結した。
この「医学部民主化綱領」は、大学の自治=教授会の自治に対する批判、製薬資本の大学運営への介入拒否、無給医、差額ベット等国家の医療行政への批判を骨子としたものである。
しかしながら市大医学部教授会は、一度は「医学部民主化綱領」を締結したものの、この決定を二転三転させるというハレンチな挙に出、実質的にこの「綱領」の空洞化を図ろうとした。
このような医学部教授会の無責任、無方針の背景には、市大内の阪大閥と京大閥の派閥抗争があるといわれている。
闘争以前、医学部主流派は完全に京大閥に掌握されていたが、反主流派を形成する阪大閥は学生の運動を有効に利用しつつ、学生の要求を大幅に受け入れ、当時の医学部執行部(京大閥)に大打撃を与えた。これに対する京大閥からの巻き返し、阪大閥の反撃などの力関係から、その後の医学部教授会のジグザグ路線が展開され、その無責任性が明らかにされたもの。
これに対し学生の運動は「拒否権」の思想を軸に展開されている。この「拒否権」とは単に大学=当局が打ち出してくる学生管理案を拒否するという制度的な意味を持つだけでなく、学生自身が自らの存在基盤を問い直し、自らの学生存在をも拒否していく権利を保有するといった論理を含んだものである。
市大のある指導者が語っていたように、この「拒否」の思想を持ってはじめて自立的な自己統合集団としての学生運動も形成されるだろう。
現在、大阪市立大学では入試阻止を政治焦点として、この「拒否」の思想を軸に大衆的な運動が形成されつつある。」

ichidai2


朝日ジャーナル 1969.9.21(引用)
【苦悩する個別学園闘争 関西から】
東大の原型を残し 大阪市大

機動隊がいつ入っても、もう不思議はないといわれているのが大阪市大です。昨年11月、医学部ではじまった大阪市大の闘争は、その後他学部にも飛火し、教養部三号館、経済研究所、病院西館(部分)など現在かなりの建物が封鎖されています。もっとも、基本的には依然として医学部闘争、病院闘争の色彩が濃厚です。
 附属病院のベット数1,100というのは大学病院では西日本随一、全国でも慶應病院についで二番目ということです。ところが教授は学外に“逃亡”して姿を見せず、助教授以下の全教官層で構成している教員会は無期限当日直拒否(実際は他に入院患者の診察にあたるものがいないので、部分的にしかおこなわれない)、院生、無給医はことしの2月から診療拒否の無期限ストといったぐあいで、現在入院患者は約300、さしもの大病院も閑古鳥が鳴くような状況です。学生はもちろん1月末からストに入っています。教授会に対して、学生から助教授にいたるまで総スカンという例は、おそらく全国でも、この医学部以外にちょっと例がないでしょう。
もとはといえば、昨年11月、医学部教授会が、学生、大学院生、無給医、青医連で構成している医学部民主化共闘会議(現在は“民主化”をとってしまって、単に医共闘と呼んでいる)との間に到底実行できる自信もなかった改革案―民主化基本綱領を認めてしまったからです。
その内容は①全教員で構成する最高決定機関で学部を管理運営、学生はこの機関に発言権のあるオブザーバーとして参加、公開とする、②同機関に提案する議案は学生、青医連などの諸自治機関で合意したものに限る、③拡大教授会の決定に対し、自治機関の一つでも拒否すればその決定は白紙に戻し、合意に達するまで協議する、というもので“学生参加”の点から見れば、これほど徹底した綱領はないでしょう。要するに学生たちがノーと言えば、何ひとつ実行できない仕組みになっているわけです。
医学部教員会も、この綱領は絶対拒否権の思想や大学解体論の立場をとるものではない、運動戦術論はお互いの立場を尊重するなど4つの付帯事項として認めた上で綱領全文を支持することを決めました。
理工系を除く他の学部は早くから拡大教授会に助手を含むなど民主化が進んでおり、大阪市大全体としても機構の民主制を標榜してきました。その中で最も遅れていたのが医学部だといわれていたのですが、そこに民主化運動が起こっただけによけい激烈な形をとってあらわれたともいえるでしょう。
ところで協議会(他大学の評議会にあたる)の基本綱領に対する態度は微妙で、学生の拒否権を全学的なものとして認めるわけにはいかないが、医学部教授会が学生と約束したことについては、信義の問題として守るべきだというのです。
だが、医学部教授会はその後、基本綱領を実施する努力はみせず、これが学生たちや教員会の目に背信行為とうつり、「あきれはててものがいえない」とあいそをつかされ、全員総辞職の不信任をつきつけられて、学外に“逃亡”せざるをえなくなったのです。
大阪市大はもちろん、大学措置法による“重症校”にはいっています。大学当局が措置法の指定をうけたくなかったら、まず教授会が学内に戻ることが先決で、そのうわさも強く流れているのですが、いまの状況からみたら、それは機動隊に守られてのご帰館以外にちょっと手がないでしょう。
医共闘の学生も、長期のストでさすがに疲労の色はかくせませんが、それでも主な活動家たちはストが解除されても、闘争委員会方式(全共闘方式)をとっても闘うとがんばっています。市大にもプロ学同、社学同、ノンセクトなどの活動家が集まった大阪市大全共闘はありますが、自治会組織にのっかっている医共闘はいちおう別組織になっています。医共闘には構改派の小セクト統一共産同系の学生が少数いるほかは、セクトらしいセクトがいないといわれていますが、にもかかわらず、これだけ長期の闘争を持ちこたえています。これは、昨年末までのセクトを乗越えて闘ってきた東大闘争の原型が残っている珍しい例といえるでしょう。」
大阪市大にも、ついに機動隊が導入された。その時の新聞記事である。
毎日新聞がその時の様子をよく伝えている。

img681_1


毎日新聞 1969年10月4日(引用)
【大阪市大も機動隊導入 時計塔を水攻め】 

<ろう城学生 火炎ビンで抵抗>
全国の公立大学で唯一の“紛争重症校”大阪市立大学は4日朝、大阪市住吉区杉本町の本部キャンパスに機動隊を導入、9月30日早朝の医学部の封鎖解除につづいて全学バリケード封鎖解除に乗り出した。
前年秋以来、医学部民主化をきっかけに泥沼紛争で、あくまで“話合い解決”を主張し続けた渡瀬譲学長も大阪市議会の激しい突き上げや大阪府警の赤軍派(社学同関西派)の手入れなど大学内外の諸情勢に抗しきれず、3日午後全共闘側に“最後通告”を出し、警察力による封鎖解除に踏み切った。しかし、一部学生は徹底抗戦を叫んで同キャンパス本部時計塔に“ろう城”、火炎ビンで激しく抵抗し〝京大時計塔抗戦”につづいて“大学の象徴”時計塔をめぐり警官隊との攻防が繰り広げられた。
学長は4日午前8時半、杉本町キャンパスを封鎖している反日共系学生に対し退去命令を出し、大学側の要請で待機していた大阪府警機動隊員ら600人が学内に入り、本館、工学部、教養部などの封鎖を次々に解除した。
これに対し学生ら数人が赤旗、黒旗を掲げ本館時計塔屋上にたてこもり、火炎ビンを投げて抵抗した。このため時計塔真下に積み上げたイス、机のバリケードが黒煙をあげて激しく燃えあがり、また工学部正門玄関付近で機動隊導入に反対する一般学生、教職員ら約150人がすわり込みやジグザグデモを繰り返した。
学生の“時計塔ろう城”作戦に対し大阪府警は威力の大きい高圧放水車、ヘリコプターまで繰出したが、学生らは屋上に防水テントを張りめぐらし、放水車からの“水攻め”に備え、テントのすき間から火炎ビンや石を間段なく投げつけた。本館入口から屋上に通ずる高さ約25メートルの狭い通路には、イス、ロッカーのバリケードが積まれ、簡単に排除できず手間取り、キャンパスは警官隊の波と火炎ビンの炎、放水、黒煙、ヘリコプターの騒音に包まれた。
大阪府警は“ろう城”学生に殺人未遂、放火、傷害などの容疑で全員逮捕の方針を固めたが、コンクリートで流し込んだ堅固なバリケードに手を焼き、解除に手間どった。
大学側は同日から12日まで教職員以外の立ち入りを禁止、授業も行わないことを決め、また午後6時から午前7時までの夜間は一切学内立ち入りを禁止した。
<ノンセクトが“徹底抗戦”>
この日8時、大学側が「秩序回復のため退去を求めます」と呼びかけたとたん、本館屋上からガソリンのはいったカンと火炎ビンが投げおろされ、本館玄関の屋根に積まれた机やイスが燃え出した。しかし、約10分後、機動隊の放水車が火を消し止めると同時に本館南側の講堂から機動隊がドアをつき破って館内になだれ込んだ。
時計塔内には5人のノンセクト学生が“徹底抗戦”を叫んでたてこもった。「もう、ろう城する目的がない」と徹底抗戦戦術をとらなかった全共闘内部のプロ学同、中核、社学同などのセクトに対し「大学の機動隊導入には実力で抵抗するのが全共闘の論理だ」と塔の上でがんばっていた。
また学生の集団は市内各地でゲリラ活動を繰り返した。」

毎日新聞 1969.10.5(引用)
【時計塔も“落城” 大阪市大】

大阪市立大学の全学封鎖解除も4日朝から出動した大阪府警機動隊は、大阪市住吉区の杉本町キャンパス本部時計塔屋上の“徹底抗戦”組の排除に手こずったが、同日午後7時10分、10時間40分ぶりに、屋上へのハッチを突破、学生5人を不退去、凶器準備集合、公務執行妨害、傷害、放火未遂容疑で逮捕、全キャンパスの封鎖を解いた。
 この攻防で、警官13人、解除作業を手伝っていた民間人3人が劇薬らしい液体を浴びて軽傷を負った。“時計塔”トリデに呼応した杉本町周辺での火炎ビンによるゲリラ活動や先月30日封鎖解除したばかりの医学部(阿倍野区旭町)への再突入騒ぎでの検挙者を含めると、この日計29人の学生が逮捕された。
 機動隊を最後まで手こずらせた時計塔トリデは、屋上に工事用パイプを頑丈に組み合わせ板やテントを張り付けたもの。5人は10時間に及ぶ放水で全身びっしょり。催涙ガスで目もまっかに充血しガタガタふるえるばかり。すでに“戦意”を失って抵抗もしなかった。」
(終)

※ ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」の中に大阪市大新聞を掲載しました。
こちらもご覧ください。
1968-70全国学園闘争図書館
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、東大・日大闘争以外の知られざる全国学園闘争を掲載している。
今回は、以前掲載した中から東京工業大学の闘争を紹介する。
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-23.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-30.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-06.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年
「首都圏の集い」
img701_1
日時:2019年12月8日(日) 午後1時半~4時
会場:千代田区和泉橋区民会館
   (会議表示は「国連憲法問題研究会」)
会費:入場無料
  (参加希望者は03-6273-7233(研究所テオリア)まで申し込み下さい。

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月6日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなりました。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)
 
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」147号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

img698_1

<独居より  2019年5月15日~2019年8月8日
5月15日 監獄人権センターのニュースレター№98を他の資料と共々今日受け取りました。まだ読み込めてはいないのですが、そこに各地の視察委員会から当該施設への意見や提案と、それに対する施設側からの解答があった内容の報告が載っています。「医療・平成29年度(平成30年4月末現在)」の報告です。その一部に「東日本成人矯正医療センター」の報告があり、「視察委員会」が稼働しているのを知りました。主な内容は「入所後、短期に死亡するケースがまま見られるが、改善されていない。改めて他の施設と解決協議を求める」という視察委の意見に対し、「疾病の早期発見治療は矯正全体でも(矯正施設の意味と見る)取り組んでいる。(中略)当センター入所以前の施設においても最善の医療処置を施していると聞き及んでおり、今後も早期受け入れを始め、他の施設と協議等鋭意進めたい」という当センターの「官僚答弁」が載っています。
去年1月14日、私が当センターに入所以来一度も「視察委員会」の動きは見られず、まだ未稼働だと思っていました。「所内生活の心得」には視察委員会に触れていますが、八王子の時のような患者との関わりはみえません。八王子の時は「子安町通信」が発行されて、患者へのアンケートや面会もあり、視察委は患者の意見を汲み取る努力や、投函ポストも投書意見を入れやすい位置に設置されていました。昭島に来てポストも私たちの生活で通る範囲にはなく、他の患者も知らないし、「まだなんじゃない」という程度です。せっかく新法で設置された「第三者機関」が有効に稼働するよう昭島でも全患者のアンケートなどが八王子のように行われることを期待します。
(中略)
5月23日 今日は朝から腸洗浄の下剤4リットルを、12時までかけて飲み、何とか準備を終えて大腸内視鏡検査へ。普通、2リットル~2.5リットルでOKになるのに、私の場合は何回もの手術で人の手が入っており、癒着していて洗浄も大変です。午後1時半から2時半の検査は、新しい腫瘍なしでした! まだ大丈夫、腫瘍はないと思いつつ、気がかりでしたがホッとしました。でも内臓をかき回すのでやっぱり疲れます。
(中略)
5月29日 今日は、うすいピンクの芍薬開きかけが5本と、スターチスの紫が届き、丸岡さんのための追悼の花として飾りました。今日の命日、あの日のように雨でしたが、あの日は震えるほど寒かったのに、今日は蒸し暑い命日です。あの時はありがとうと、あれこれ丸さんに感謝しつつ空を見ていると、雨から陽の光に変わりました。
(中略)
5月30日 芍薬の大輪の5本のピンクの花が開きました。みごとな花です。(500円です! 安すぎ!)
今日はリッダ闘争の日。花で弔い祝えるリッダ闘争は久しぶり。あの47年前の闘いは、アラブ諸国政府も人民もアラファト議長も賛辞と支持を表明し、解放の闘い・国際連帯のシンボルの闘いでした。現在のパレスチナ解放の闘いの惨状は、PLOやアラファト路線の誤りはあっても、決してパレスチナ側に責任がある訳ではありません。かつての帝国主義の植民地支配の思惑とシオニストの「ユダヤ国家建設」の相互利用はパレスチナ人を犠牲として生まれ、その構図は今も続いているからです。
トランプ政権の親イスラエル政策は犯罪的です。反イラン親米同盟は中東を益々危険に陥れ、パレスチナ問題の解決を益々周辺化しています。6月に発表されるという米の「新中東和平案」では「パレスチナ側が拒否すれば資金援助を米が停止するばかりか、いかなる国からの援助も阻止する」という一項もあるとか。国際社会の国際法・国連決議に基づく反撃は果たしてどこまで可能なのか。イスラエルの核には目をつぶり、イランを追及するダブルスタンダードも結局は米政府の主張に日本含めて石油禁輸に応じる流れ。この方式をパレスチナにも押し付けようとするのでしょうか。
でも抑圧はパレスチナの「帰還の権利」、パレスチナの民族自決を逆に浮かび上がらせるでしょう。リッダ闘争の時代は何と自由な解放の夢を語り合ったものだったのか、今さら比較しています。リッダ戦士たちが「闘いは幸せ」と言った意味をかみしめつつ、5・30の祭に花を!と一人5・30を祝し世界の友に挨拶を送っています。パレスチナに献花を!

6月1日 今日の新聞で星野文昭さんが30日に亡くなられたことを知りました。読売によると肝癌の手術を都内の病院で行った後、容態が悪化したとあります。都内の病院ってこの東日本医療センターのことか……。重篤な状態で検察は刑の執行停止を許さなかったのですね……。丸岡さんの時同様の検察の意図を感じます。冤罪の上、刑期でも仮釈放当然の星野さん。権力は報復的に自由を許しませんでした。ご冥福を祈ります。

6月3日 リベラシオンのブログに公開するため「オリーブの樹」の1号からバックナンバーを校正チェックのため読み直しています。2001年当時は接見禁止の中で初めての公判経験に学び、理解しながら書面準備したりと必死でした。ああそうだった! などと1号から12号まで読み、思い出し胸いっぱいになります。公判の情景、証人の発言、メイの発言、未知の友人の方がメイのこと詩に記して下さったものも載っています。(12号)読み直し、高校時代の旧友の「シゲに捧げる『私小説』」も改めて読み、より深く思いが溢れます。大学の友人の傍聴記やカラス天狗さんの論文は今も光っています。
また、公判一年を迎えた意見書(2002年4月24日)では、ものごとが少し見えるようになった公判シロウトの私が、ハーグ事件に関する検察の調書改ざん(PFLPへの「依存」発言のTさん自供書で私を陥れるために「依存」から「依頼」へとあたかも作戦を依頼した話への改ざん)を告発しています。読み返しても、権力側はいかに私を重刑にさせるかで、検察側が証人を恫喝したのかも明らかです。この4年後には検察側を忖度した新しい裁判長によって懲役20年の判決が出されていくのですが、それ以前の2002年ころを読んでいて(丁度9・11事件やイスラエル首相シャロンによるPFLP議長暗殺から、西岸地区破壊、アラファト大統領府砲撃の時代)みんなの支援が胸熱く迫ってきます。丸岡さんの寄稿もあって、再会のように何度も読み返すことができました。

6月14日 安倍首相の対イラン外交、方角を間違っていませんか? 核合意を離脱しないようイランに求めるより、それはトランプに言うべきこと。そうでなければ、イラン側から見れば、安倍はトランプのメッセンジャーボーイを買って出た人に過ぎません。(本音はそうなのですが)ロウハーニー大統領もハメネイ師もその労を歓迎するとしても。ハメネイ師の「安倍首相の善意に疑いは抱かないが、トランプ氏は意見交換に適した人物ではなく、答えることもない」は、精一杯の歓待の言葉。同じ日の13日にホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃を受けたとのこと。これは、日本の外交努力やイランとの友好に反感を持つ勢力の謀略を思わせます。場所はホルムズ海峡というよりオマーン湾で、イランのせいにするよりサウジ、UAEら米・イスラエルと協力した技術力で、対イランの緊張を作り出そうとしたと考えるのが論理的です。

6月17日 今日から一部夏暦で、入浴が週3回月・水・金になり、一回増えました。また、今日の昼には冷たい麦茶がいつものお茶の代わりに給されました。この頃7Fでなく5Fのベランダで運動。プラスチック柱で遮られて少しも隙間がなく、外が見えないので、閉塞感で外で運動した気がしません。隅に生えていた一株のゲンノショウコも抜かれてしまいました。7Fの方が隙間から空や遠くがちょこっと見えるのですが。
(中略)
6月18日 丁度「救援」紙が届いて、やはり星野文昭さんが5月30日にこの昭島の施設で手術後に亡くなられたことを知りました。当所の視察委意見として、監獄人権センターに載っていたように、ここに入所して死ぬ患者が多すぎるという指摘を思い返しました。星野さんの獄死は、完全に検察と徳島刑務所などの責任です。肝癌は、14cmx11cmだったとのこと。もう長い間、癌に罹患していたのに、執行停止も仮釈放もせず殺したのですから。再審を継続して闘うとのこと。獄中医療の改善を共にめざしてほしいです。哀悼と共に連帯しています。
6月25日 今日はフリースジャンパーを回収し、カーディガン貸与と団扇(といっても円形の白ボール紙)配布。それに今日から拭身(3分。洗面器水2杯使用可)が可能になりました。今日は5Fのベランダでの運動後、初の拭身をしました。今日は久しぶりに陽が射しています。
(中略)
7月3日 昨日「要望願い」で、面会室にマイクを八王子のように設置してほしいと提出しましたが、早くも今日回答がありました。「回答・マイクの設置は考えていない。面会室にそれを新しく設置するのは不可能」とのことです。いろいろ事情はあるでしょうが、他の難聴者の今後のためにもとくいさがったのですが、どこからも苦情はない、とのことです。とても若そうに思えたので、検討するよう上の方にお願いしてください、と言ったのですが「私が上です」と言われてしまいました。何とかしてほしいです。面会室ではとても聞き取り難くて和尚にも迷惑をかけています……。八王子には一室がマイクで難聴者対応でした。いいところは真似てほしい……。
(中略)
7月6日 西日本豪雨の記念の日。それ以前に、私たちにとっての「7・6事件」から50年目の7月6日です。当時関わった人々の何人もが彼岸に在り、また、多くの人々が苦い痛みをもって、この50年前を思い返していることでしょう。丁度あの1969年―全共闘運動が、次々と機動隊の導入によって「学内正常化」の厳しい攻防を強いられた年―から50年。赤軍派結成からも50年。関連文書を書きつつ、「7・6事件」は即時的に暴力に流れたことを、当時の知性、政治思想性が感情に制約されていた赤軍派を始めとする党派の敗北状況を、反省と共に思い到ります。
(中略)
7月8日 月曜日、Iさんの便りで、柳田さんが3週間前に亡くなられたと知りました。呆然です。Kさんとうして「朱徳」の本を送って下さり、3年後の再会をめざしている、と言って下さったのに。今頃は、彼岸で西浦さんと再会して語り合っていることでしょうか。合掌。悼みつつ、大阪医療刑で予定直前の移監で会えなかったアポイントメントの日を思い出しています。
(中略)
7月22日 朝届いた新聞で、「自公改憲過半数」「改憲勢力2/3は届かず」の見出し。とりあえず2/3に届かなかったのはホッとしましたが、自公維の力の強さを(あれほど数々の森友から加計、議員の失言繰り返しつつ、利権やメディア印象操作に権力を利用している結果なのですが)見せつけられています。比例区の投票を見れば、全有する者に対する自民党の得票率はたった17%に過ぎず、公明党も10%も減らしているのに、です。諦めた庶民の姿は、投票率の低さに出ています。でも、次の衆議院選はどうなるかわかりませんよ。日米関係や様々のほころびが出てくるのは見えていますし、若い層の支持が自民党に多いとのことですが、共産党にも、「れいわ」にも支持層があるのは救いです。できたばかりの「れいわ」は、既成の社民・共産支持票ではなく、今後、無党派層やこれまで投票してこなかった人々にも届く広がりを作っていけるかと期待しています。もっと野党がうまく共同すれば、まだまだ自民党の強権政治や人気取りの諸政策も学びつつ、乗り越えていけるのでは、と期待したいのですが……。これは今後の野党次第ですね。もっと自民党と違う国や社会の根本的姿ビジョンを語ってほしい。「れいわ」はその点で魅力的だったのか? 新聞ではわかりませんが。でも改憲議員は国民民主党にもいるし、一本釣りされる人も出てくるでしょう。3分の2を揃えて改憲強行突破もあり得ますね。あの安保法束ねて、強行採決した時のように。「改憲」が現実問題として、迫っています。阻止を!
7月23日 大暑の今日も梅雨の空。でも、雨が降っておらず、一週間ぶりに5Fのベランダ。ぬかるんでいて、患者たちは立ち話。私はウォーキングで汗をかき、身体を動かすのが楽しみ。
房に戻って汗をふきふき一息のところへ、転房の指示。午後からの引越しに備えて荷物の準備です。遅れた朝刊の選挙の確定結果をよく読みたいのに……。
一面には、自民、維新、公明が各一議席、昨日の朝刊より増えています。あーあ、これで国民民主党の改憲勢力を切り崩して強硬採決もあり得ます。夕方受け取った人民新聞、木村さんの文に「山本太郎新党は吉と出るか凶と出るか?!」とあり、少し「れいわ」の雰囲気がわかりました。パワーが溢れた「やるぞ!」という断固とした主張が新鮮に感じられます。ポデモスやシリザのように、または五つ星の方? これから進みそう。自民支持や諦め投票しない層を切崩してほしい。
今日のがっかりは、房が北側に移り、森や緑が見えなくなったことです。でも隙間から少し空が見えるので、前の北向きよりましです。

7月24日 目覚めると、隙間から遠くの緑が見えない。そうだ、今日は北側の部屋に移ったんだ……と、改めて残念。関西の「リベラシオン」の方で「オリーブの樹」の創刊号からのバックナンバーをアップすることになり、もう出ているそうです。私の方でもこの間は創刊号からの正誤表をつくるため読み直し、どれだけの友人たちに支えられて、後半、獄中を過ごしてきたのかと、各号を読みつつ皆に感謝ばかりでした。公判での丸岡さんやライラ、寄稿のカラス天狗、辻邦さん、第一審判決後2006年6/3、約80人が「重信メイさんのお話を聞く会」をTerrezaで開いて下さり、それがきっかけで、関西支える会―さわさわに至ったこと、改めて記録というものの再現力に、ありがとうという思いで読み返したところです。その間、丸岡さんをはじめ、柳田さんに至るまで、なんと多くの友が先に逝ってしまったのか……と思いました。過ぎた10年はとても短いけれど、これからの10年は生きているのかな……と思う年になったと、改めて実感しています。
(中略)
7月26日 韓国との関係悪化は安倍外交の結果です。どうして「外交の安倍」といえるのか、全部失敗し、税金で外国を飛び回ってきただけなのに。「選択」で山崎拓も同様発言。「私に言わせれば、トランプ大統領の緊密な関係も『抱き付き外交』で実がない」と断じています。「外交の実を見ると成果はゼロに等しい」「今の自民党議員の間では『わが身の保身のため首相を支持する』という危うい構造力学がある。」と看破し、安倍が意図的に後継を作らず、自分を脅かさない人で閣内を固めていて、人材払底に陥ったと嘆いています。一方で、今日の朝刊で「れいわ新選組」がなぜ人々に受け入れられたのか、よく判る記事に出会いました。山本太郎の訴えが本物であり、うす汚れた政治のパラダイムをひっくり返す勢いがあったのを理解しました。大手新聞が今でなく、投票前にこの記事を載せていたら票は倍増したかも……。「あなたの生活が苦しいのは、あなたのせいにされていませんか。あなたが役に立たないとか、あなたが勉強してこなかったからだとか。冗談じゃない!」涙があふれたと40代男性は語り「生活は苦しいけど、彼に託すしかないと思った。だってぼくを勇気づけてくれたのは彼だけだったから」と、貯金5万円から1万円寄付したと述べています。「自信を奪われているんじゃないですか。みんな。自己責任? ちがう! 国がやるべき投資をやってこなかったからだ」「生きててくれよ!」生活できない辛さにある人々のマグマを、この人は受けとめる力を持っているスピーチです。
(中略)
7月30日 この頃前より規則が厳しく、昨日はYさんに送った校正したプリントに、一行「校正よろしくお願いします」と書いたら、「今後は一行目でも通信文を書けば、一通分の信書として換算する」との指導で、その一行を消しました。今日も手紙に哀悼文を「原稿」として「同封願い」を出したのですが、却下で「増枚願い」(制限枚数の7Pより増加したため)を指示され、今回は許可されました。今後は「よろしく」とか「おねがいします」いろいろ省略して送るしかなさそうです……。(中略)
 また、友人から「『オリーブの樹』は歴史資料なのか、大原社会問題研究所や東大社会科学研究所でも資料として公開されている」とか。前にも友人が、中東研究者の宮田律さんのH・Pにオリーブの樹からの引用があったと送ってくれました。どこかで出会うのは嬉しいですね。また、今日受け取った資料に季刊「アラブ」の「現代史の証言・1975年重信房子と単独会見・日本赤軍ゲリラ闘争継続宣言・高木規矩郎」とあり、ギョっとしつつ、これ読んだところです。私がインタビューしたのは、アラブ時代に仲間の逮捕者にメッセージを送る意図で、何度かやっています。この時も、仲間の逮捕、自供をうけて「それは彼らの弱さや責任ではなく、私たちの弱さであり、それを自己批判しつつ責任を負う」と奪還を示唆したようなものでした。
 
7月31日 七月尽。今日は運動!と房を出て、講堂の1Fならいいのですが、2Fの狭い空間でラジオ体操と立ち話、ウォーキング。久しぶりのおしゃべりをみな楽しんでいます。短い廊下から講堂2Fに入るのですが、むあっとする熱気、30度以上の暑さを実感しました。
資料、水谷さんの文受け取りました。「革共同政治局が動労千葉に敵対、加えて二つの女性差別問題を隠蔽。党本部で追及・批判が噴出。ついに政治局炎上」と7/15付で中核派内部の危機的状況を暴露・分析しています。水谷さんはこうした問題を歴史的にも捉え返し、今参院選も取り組み放棄し「中核派形成の党是が崩壊」しており「その元凶は清水丈夫の論理にあり」(党と労働組合の一体的建設論で、ようは今の時代は党員しか戦えないとする論理)と党の革命を求めている水谷論文です。まったく「門外漢」の中核派のことですが、注目していたいと思います。水谷さんも自らを問われつつ記していると思います。
今日の朝日新聞に旧日本赤軍の「新たなイメージ写真」手配の記事。今、何のために? 警察国家の更なる「危険」や「陰謀」キャンペーンと「予算」に利用されています。

8月1日 リベラシオンの方、「オリーブの樹」ネットサイトへのアップに伴い、正誤表作成など協力下さってありがたいことです。リベラシオンのサイトに「JAPAN TODAY」や「人民通信」もアップするとのこと。私たちのそんな昔の海外発行のもの、よく見つかったなあ……と驚いています。「JAPAN TODAY」は80年代の新計画に沿って、海外の人々に「日本とは、いったいどんな国なのか? 奇妙なことに政権が憲法を壊そうとし、進歩派が憲法の厳守を訴える国」など、日本紹介です。これは「ソリダリティー英語版」の見解主張よりも「日本紹介」をテーマにした英語版です。「POLITICAL REVEW」は「ソリダリティー」の後継版です。70年代総括を経て、当時から私たちは人民主権を柱とする戦略(路線、政策)は変えていません。
(中略)
8月4日 「表現の不自由展その後」の中止報道。75日が3日で中止とは…。日本の空気の酷さを改めて実感します。安倍政権下の社会では横槍で中止になるだろうと思ったけれど、たった3日とは。主催者は日本の自由に幻想を持っていたのか、あまりに危機管理が軽いです。
「あなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利を私は命をかけて守る」と言ったヴォルテールの姿勢こそ、民主国家の姿なのに、日本は「日本会議政権」と化しているようです。匿名で脅したり、政治家が扇動したりしている姿への抗議を、広く市民社会に伝え、中止撤回再開実現によって、なんとか委縮社会のこの流れを変えたい。死刑執行、韓国に対する政治で報復。生き辛さを排外主義に扇動する「日本会議」の匿名講義が確実に日本を蝕んでいます。
(中略)
8月8日 今日初めて、東日本矯正医療センターの視察委員会による「もくせいの杜通信」(通関1号。2019年3月発行)が、やっと届きました。何で遅れたのか?「監獄人権センター」のニューズレターで、ここの視察委員会がすでに存在し、稼働していたのを知ったのですが、これまで2018年1月入所以来、何の兆候もありませんでした。今回の号は、人権センターで記したものと同じでしょうか。(1)視察委員会って何のためにあるのか?(2)どんなことをするのか?(3)どんな人が視察委員にいるのか?(4)どんなことをしてきたのか?(被収容者らの提案を受けたり面接したりして、年度末にこのセンター長に意見書を送る中に反映する)(5)意見書提案に何を書くのか?(自分のみならず、他の人たちみんなの為に改善してほしい点など。特命可。例として、これまで職員の態度が抑圧的で研修を求めたこと。職員の都合退職者多く、メンタル向上の措置を。スーパーバイザーを招き、刑務官と異なる領域の文化の尊重を育てるべし、など職員関連が記されていました。被収容者からみた問題発生の原因は、指導の客観性、科学性の欠如があり、外部スーパーバイザーの必要。法的観点から、規律違反に対して強制的に意志制圧の道具となっており、規律自体に合理性があるのか検証の必要あり、外部チェックの要請。この点、私も大いに賛成です。合理性のない不要な規律がありますから。また、人権センターのニューズレターにあった、入所後短期の死亡批判。(6)視察委員会からのおねがい(事実確認できないので面談申し出て。個別法律相談は「法テラス多摩へ」)など、これからの意気込みが感じられました。「法テラス多摩」は渡辺先生のところか……と思いつつ読みました。東拘や八王子の視察委でやっていたように、全患者アンケートをやって、実情を知ってほしいと思います。
(終)

【「リベラシオン社」について】
重信さんの日誌の中に「リベラシオン」というWebサイトのことが書かれています。
正式には「リベラシオン社」という名称のサイトです。
主にブント系の資料を掲載していますが、その中に「日本赤軍」のページがあり、そこで「オリーブの樹」のバックナンバーを見ることができます。
「リベラシオン社」日本赤軍ページ
【1969年「11月決戦」アーカイブス】
今年の11月は、70年安保闘争最大の山場となった1969年11月16日の「11月決戦」(佐藤訪米阻止闘争)から50年目となる。
そこで、以前、このブログに掲載した「11月決戦」の記事を紹介する。
1969年11月 佐藤訪米べ阻止闘争 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-07.html

1969年11月 佐藤訪米べ阻止闘争 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-14.html

「11月決戦」は勝利か、敗北か?
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-11-21.html

【お知らせ その1】

2019.11.16東京集会_page0001_1
10・8山崎博昭プロジェクト2019年秋の東京集会 特別講演会
(台風19号の影響で延期になっていた講演会です)
「ベトナムをどう見るか―歴史認識と現実」     
講師:中野亜里さん(現代ベトナム政治、大東文化大学国際関係学部教授)
 
日時:2019年11月16日(土)18時00分~21時00分
会場:全水道会館5階 中会議室 
 文京区本郷1-4-1(03-3816-4196)
 JR線「水道橋駅」から徒歩2分、都営地下鉄三田線「水道橋駅」A1 徒歩1分。
参加費:1500円
 
講演概要
1 ベトナムと関わりから見えたこと:「オモテ」と「ウラ」の世界
2 日本人のベトナム認識とベトナム人の歴史観・世界観:「社会主義」「民族解放」の神話、明らかにされていない歴史、自国の歴史に興味がないベトナム人
3 ベトナム政治・対外関係の現状:開発と民主化・人権問題、中国・アメリカ・日本と
の関係
4 今後の展望

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月22日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ