野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。
第1回目は中核派。

写真は友人のK氏が持っているマル学同中核派法大支部の「中核旗」。
K氏は反戦高協と行動を共にしていたので、68年後半から69年頃のものと思われる。赤旗に黒マジックで「中核」の文字。
時間が無い時は、このようにマジックで旗に文字を書いていた記憶があるが、街頭闘争で使ったものか?

【勝利の展望は、機動隊の粉砕から】週刊読売 1969.11.13臨時増刊号(引用)
『全学連中核派副委員長 林 信次(横浜国立大)
<まず70年安保を、どういうふうに、なんのために闘わなければならないか>
はっきりいえば、革命のために闘う。(中略)革命というものは帝国主義あるいは資本主義そのものの生み出す矛盾が人民の耐えられないところまできたときに、人民そのものが不満と怒りをその権力者に対して向けるときに起こる。
そういったものを社会主義の方向にいかに導いていくのかが問われるわけで、それをぼくらが、あるいは組織というものがになわなければならない。
この原則に基づいて安保粉砕の闘いを70年あるいは70年代においてやろうというわけだ。(中略)

<中核派の幹部としてあなたに聞きたいが、安保粉砕に追い込む見込みと、その時期について>
おそらくは、70年代の階級闘争というのは安保粉砕、日本帝国主義打倒を掲げて闘われるだろう。そして、その安保が粉砕できたら日本帝国主義は倒れる。
となると70年代の全闘争に新たな地平を切り開くであろう11月闘争のいかんにかかっているとしかいえない。

<すると11月の佐藤訪米阻止闘争が重要になってくるのか?>
(中略)10月非常時体制が敷かれている。(中略)全国十何万、東京で二万五千、防犯部、刑事部の私服刑事をすべて公安刑事として登用するというふうにして、われわれを押さえつけようとしている。(中略)
10月非常時体制、この新しい統治形態の過程を打ち破るかどうかによって、70年、あるいは70年代は決まるというふうに見ていいだろう。
そういった意味で11月佐藤訪米阻止闘争こそはきわめて歴史的な意味をもった決戦であると思う。(中略)

<民衆のエネルギーの爆発がなければ、革命は達成されないと思うが、具体的に中核派としてそれをどういうふうに動員していくのか?>
(中略)組織というのは目的を追求するけど、大衆は勝てないと思ったらやらない。いまの大学闘争についても若干いえると思うが、かって大学治安立法といえば1万人近い人数が東京だけでも集まっていた。
それが最近少なくなっている。それはなぜか。
機動隊万能主義というものにぼくらが十分にまだ打ち勝っていない。あんなに機動隊が出てはもう大学闘争に勝てないんじゃないか、ということが一つの問題になって伸び悩んでいる。
11月にぼくらが機動隊を一部において、できれば全部においても粉砕できるかのどうか、やはり国家権力の暴力と、われわれの暴力との対決になっている機構を知っておく必要があると思う。打ち破らなければ勝てはしない。(中略)
やはり機動隊をいかに粉砕できるか、しかもそれが機動隊粉砕の闘いと同時に、その方向性は沖縄奪還であり、安保粉砕、日帝打倒であることを全体にしみわたらせようということだ。
やっぱり大衆に勝つという展望を与えてやる必要がある。それはぼくらが一部分でも機動隊を粉砕すれば、大衆は「勝てるじゃないか」という気がする。
必ず後からついてくる。(中略)

<革命の結果生まれてくる理想の国家、あるいは社会像は?>
ぼくらは資本主義すべてを否定するわけではない。資本主義というのは厖大な生産力をつくり上げる。それは認める。
マルクスの言うように、ぼくらは資本主義を歓迎する。しかし、支持しないという立場をとる。なぜならその生産力はブルジョアの利益になるからだ。
しかし、ぼくらはその生産力をもっと全面的に解決する。全面的に開花して物質的に豊富になり、全人民に行き渡るということをもって私有財産意識というものはなくなるだろう。
(中略)いまは違う。労働者が働いてもほとんどの利益はブルジョアジーが取ってしまって、労働者はせいぜい労働力の再生産に必要なだけの賃金をもらうだけだ。要するに食べ、暮らし、生産するというような労働力の再生産に必要なだけで押さえつけている。
しかし、ぼくらは能力に応じて働き、働いただけもらうということを喚起する。(中略)
もう一歩進んで、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るということが貫徹されなければならない。人間は物質が豊富で、いつでももらえるというときにはためこもうとしない。
なぜ私有財産制度が生まれたかというと、基本的には貧困が原因だ。(後略)』

週刊誌のインタビューということで、党派機関紙よりもわかりやすい内容となっている。
(つづく)

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連載91で全共闘白書について書いたが、この本は党派、ノンセクトを問わず、全国学園闘争を闘った人たちへのアンケートの回答をまとめたものである。
アンケートの中で「元活動家の沈黙」という質問への回答が気になった。
この質問の趣旨は、元活動家が政治的に沈黙している理由を聞くものなのだろうが、この質問への回答の中に、闘争に関わった者の「沈黙」に対する様々な思いが見てとれる。
以下、そのいくつかを紹介する。

【全共闘白書】(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)(引用)
『「元活動家の沈黙」という質問に対する回答(抜粋)
<東京大学> 66年入学
70年安保闘争の敗北の総括は、「もう一度、各自の持場に戻って、こつこつやっていこう(問題点や矛盾を見つけ、現場で運動していこう)ということであったと考える。したがって、各自の持場を超えた「政治的」なことには沈黙しているのは当然である。

<関西大学> 67年入学
より真摯に活動に関わった人ほど、政治的に関わりたくないのが自然だと思う。全共闘経験を披露しながら現在の政治を語る人を信じたくない。

<京都大学> 65年入学
それでいいと思う。あの時代に私たちが獲得したものは生活あるいは生き方の中に着実に息づいているし、いろんな所で歴史を変えていく力になっていると思う。
元活動家はあくまでもその時代に適用しただけの元活動家なのだから、出てくるべきではない。

<大阪芸術大学> 72年入学
 自分は団塊の世代の少し下なので、当時、運動を担っていた人々が潮の引くように消えたことに、怒りを感じた。かっこ良くやるだけやって、さっさとひきさがり沈黙を決め込んだという気がして、10年くらい前までは、勝手な世代だという判断だった。
今は、日本独特の社会構造の中で自分を守らざるを得なかったのだろうと解釈しているが、謎の部分はまだまだ多い。

<広島大学> 68年入学
沈黙の質が問題だと思います。このごろ、かってともに闘った連中と話をする機会がありましたが、ほとんどが“思い出”としてしか残っていないように思いました。
解体し、敗北した後は、何年たっても当然総括の季節であり、これは個人的にしか担われないものであって、行為的には沈黙するしかないと思いますが、思想的な意味での空虚な沈黙を見てばからしくなります。

<和光大学> 68年入学
何も政治的に発言すればいいということでもないだろう。元活動家の心の中には何らかの形で経験が残っているはず。それを、その場その場でいろいろな形で表現すれば良いと思う。

<早稲田大学> 72年入学
絶望が深ければ深いほど人は沈黙を守ると思うし、「自己否定」という理念が政治的沈黙への道筋となることはある意味で当たり前だと思う。』

「元活動家」の「沈黙」に対し無責任と批判する回答もあったが、それを追認(許容)する回答も多かった。
大学への入学年度の違いや、それぞれの個別の体験を踏まえたうえでの回答なのだろうから、それに対してコメントをする気はない。
ただ、「沈黙」についての私なりの回答を書いてみたいと思う。
私は3年前、ある体験がきっかけとなり「あの時代」を「語る」ことを選んだのだが、それまでは政治的にも個人的にも「沈黙」していた。
大学を離れてから30数年間、「あの時代」のことは語らずに、心の奥底にしまって黙って生きていくことが「あの時代」を体験した者の生き方と考えていた。
全共闘結成、バリケード封鎖、機動隊導入、ロックアウト、内ゲバ、70年安保闘争の終焉、運動の再構築・・・それぞれの場面で多くの人たちに出会い、そして多くの人たちが消耗し、挫折し、姿を消していった。
その間の体験は、政治や組織、思想と自らの関係を常に問われるような重く辛いものであり、懐かしい“想い出”として語れるようなものではない。
肯定することも否定することもできないような「もの」として私の中で「語る」ことを拒んでいた、とでも言っておこうか。それは同時に政治的な活動への参加についてもいえることだった。

当時の闘争に関わった多くの者は「沈黙」の中にいると思うが、たとえ深い「沈黙」の中にいても、当時の「志」を忘れずに、その時々で時代と向き合い、生きていくということが一番重要なことではないだろうか。
「沈黙」には人それぞれに意味があり、「語るべき」時がくれば、どんな形であれ人はそれを「語り始める」と私は思う。

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全国学園闘争シリーズ5回目は、京都の龍谷大学。
龍谷大学は、1639年に西本願寺に設けられた「学寮」にはじまる、370年もの歴史がある西本願寺の宗門大学である。
宗門大学ということで「浄土真宗の精神」が、龍谷大学の建学の精神ということになる。
龍谷大闘争の様子が朝日ジャーナルに掲載されているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『僧に非ず俗に非ず(竜谷大)
青年とともに学び問題を解決していた親鸞、国家権力と対決し抵抗していた親鸞、しかしながら、今ある親鸞精神とはなんであろうか。
仏教そのものが門徒から寄付金を搾取するものでしかありえないし、西本願寺そのものが、そのための機構でしかありえない。
仏教そのものが「死体埋葬業」と言われるまでになり、ただ形式どおりの念仏をとなえるものとなってしまった。このような状態においても、何ら対応策を考えない。
西本願寺があるというだけで仏教があるというような幻想を作り上げてしまった。
本願寺はまた、ハレンチにも竜大にまで介入してきた。竜大は本願寺のためにあるのではなく、全人民のためにあるのだ。
われわれはこのような介入を許すことはできない。
本願寺宗教権力下にある竜大に全学無期限バリケードを築くことによって、僧侶大量養成所=竜大の機能をマヒさせ、本願寺との関係を断ち切り、日大闘争で表現された破壊の思想をもって、西本願寺宗教権力を徹底破壊してゆかねばならない。
破壊こそが、あの「教行信証」にある「主上臣下法に背き義に違し」「すでに僧に非ず俗に非ず」の精神である。
(竜大仏教闘争委員会のパンフレット「非僧非俗」No4から。なお竜大は9.12より全学無期限バリケードを築いている。)
(文学部・白須浄真)』

このバリケードは約50日続くが、バリケードを築いた当日、同じ仏教系の京都女子大とともに西本願寺突入闘争が闘われた。(写真は毎日新聞から転載)

【西本願寺に1000人乱入】毎日新聞1969.9.13(引用)
『“学生一揆”に法灯大ゆれ 重文もメチャメチャ 「大学への介入やめよ」
京都・西本願寺へ12日午後、同宗門立竜谷大全共闘、京都女子大全闘委などの学生約千人が「本山の大学への不当介入粉砕」「本山解体」などを叫んで押しかけ、警官のピケを破って境内になだれ込んだ。
学生たちは土足のまま西本願寺で最も神聖とされる御影堂と阿弥陀堂に“一向一揆”のむしろ旗を先頭に突入。重文御影堂の障子2枚をこわし、投石で柱に無数の傷がつくなど大荒れ。
防戦に出た本願寺職員と衝突して双方に約40人の負傷者が出た。

この日正午過ぎから、竜大深草学舎(京都市伏見区)で、竜大全共闘、同ベ平連、同ノンポリ・ノンセクト連合、京都女子大全闘委など主催の「大学立法粉砕、本願寺不当介入粉砕集会が開かれた。
この後約1,200人が市中デモをし、午後3時過ぎ、下京区の西本願寺総門前に着いた。
届出のコースは、ここから南下して西本願寺隣の大宮学舎に向かうことになっていたが、先頭のヘルメット学生約100人は、警官約20人と警察のトラックでつくっていた総門前の阻止線を一気に突破して構内になだれ込み、続いて他の学生も全員構内に突入した。
正面の重要文化財御影堂(大師堂)前の広場を埋めた学生たちは「本山の不当介入抗議集会」を始め、御影堂の階段に土足ですわり込み、さい銭箱の上に乗って次々と本山批判の演説をした。
同3時40分、リーダーが「責任者の太田淳昭総長が現れぬなら土足で本堂に踏み込む」と演説。
ヘルメット学生約100人が土足のまま御影堂階段から回廊で駆け上がった。
本山側は若手職員、信者、学生ら約50人が廊下に待機していたが、学生はこの列に突っ込み、旗ザオを振ったり、なぐりあいの乱闘となった。
階段下の学生からの砂利やこぶし大の石が投げられ、正面の障子や柱に傷がついた。
本山側はあわてて同堂の板戸を降ろしたが、学生の体当たりで障子2枚がこわれた。
いったん突入をあきらめ集会を再開した学生たちは、同4時10分、今後は御影堂の回廊を土足でデモしたあと、約70メートルの廊下(重文)を駆け抜け、北隣の阿弥陀堂(本堂・重文)回廊へも乱入、ここでも職員と衝突、投石を繰り返した。
同4時半、学生たちは境内から大宮学舎構内に移り集会「今後も本山との対決を強める」と気勢をあげて散会した。(中略)
対立のきっかけは竜谷大が8月末に発表した「竜谷大学改革試案」。この中で大学側が「学長には僧籍は必要でない」としていることに、同本願寺が「僧籍が絶対に必要だ」とクレームをつけた。
学生たちは「不当介入だ」と本山を批判していた。(後略)』

“一向一揆”のむしろ旗を掲げて1,000名の部隊が西本願寺に突入、宗教系大学はラディカルですね。

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