野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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1970年3月14日から9月30日まで、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO'70)が開催された。
総入場者は6,400万人と万国博史上最多であった。

「人類の進歩と調和」をテーマにしたこの万国博に対し、1969年、日本で最も過激な儀式集団といわれている「ゼロ次元」の加藤好弘氏が中心となって「万博破壊共闘派」が結成される。
文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊を持って闘うという方針で全国的に反万博の行動を展開。
69年6月、京都大学のバリ祭で、教養学部本館のベランダの上で反博全裸儀式を行い、その様子が「アサヒグラフ」に見開きカラーで掲載されたことから、これを契機に猥褻物陳列罪で8名が逮捕される。

反万博の行動や、この京大での「儀式」の様子は、写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)で見ることができる。
京大での写真を見ると、京大教養学部本館バルコニーに羽の付いたヘルメットを被り、片手をあげた全裸の男女10名が並んでいる。(写真は「通俗的芸術論」から転載)
本館の柱には「帝大解体」「造反有理」のスローガン、「万博破壊共闘派」の後ろには「4.28政府中枢霞ヶ関占拠 社学同」の文字。そして本館からロープを伝って下に降りようとする男(服は着ているが、途中で落下し重症を負う)。
写真集の帯広告には「ラジカルかつスキャンダラスなパフォーマンスで60年代の街頭をカオスの渦へ変貌させた芸術テロリスト集団」とあるが、正にそのとおり。

この京大での儀式による逮捕を巡って、朝日ジャーナルに記事が載っているので紹介する。
【芸術家の反体制行動 ハンパク=反戦のための万国博】朝日ジャーナル1969.8.17(引用)
『70年を前にして、万国博への批判が各方面から高まっているが、その中に「万博破壊共闘会議」を名のる芸術家の一群がある。
パプニング、アンダーグラウンド映画、サイケデリックなどの風潮の中から生まれた「ゼロ次元」「告陰」「ビタミン・アート」などのグループで、彼らは昨年末各地を巡回して万博粉砕のデモンストレーション集会を行なってきた。
最近では京大バリケード内と池袋アート・シアターで、ヘルメットに全裸という姿での「儀式」を行なったことは、「アサヒグラフ」や「週刊明星」にも報じられたから、知られているだろう。

<逮捕された前衛グループ>
ところが、この2誌の報道をきっかけに、警視庁がいわゆるアングラ芸術への弾圧にのりだしたのは、みのがせない問題をふくんでいる。
まず、「週刊明星」記者が任意出頭を命じられた。調書をとられ、写真その他の資料を提出させられた。
ついで「アサヒグラフ」編集長も事情をきかれた。そのあと「告陰」グループ3人(うち女性2人)が、公然ワイセツ物陳列容疑で逮捕され、「アサヒグラフ」の記事を書いた映画評論家・金坂健二も参考人として出頭し調べられたが、調書を拒否したという。
なかでも「ゼロ次元」の加藤好弘と「新宿少年団」の秋山祐徳のばあい、逮捕状況が問題である。
目白署の刑事がT新聞文化部記者と名のって来訪し、文化部長に会って万博について話してくれといい、本人が着替えているあいだに周囲を包囲し、それから逮捕状をつきつけたという。
これは当の刑事もみとめ、「東京新聞」と「サンケイ新聞」が記事にとりあげた。
逮捕された5人は、いずれも10日間の拘留ののち一時保釈され、2万5千円の罰金をいいわたされたが、取調べの内容もゆゆしい問題をふくんでいる。
尋問はワイセツ云々ではなく、京大全共闘、ベ平連、反戦青年委などとの関連を追及することに集中した。
逮捕者の1人によると、ある担当検事は「万博を前にして国辱的なアングラとかいうシロモノを一掃しろ」と、自民党筋からの圧力があることをもらしたという。
その後、「ビタミン・アート」の3人がさらに逮捕され、これらの関係者の自宅やたまり場、万博批判の特集をやった某映画雑誌社には、電話盗聴器や張りこみがついている模様で、家宅捜索にきた若い刑事の中には「たかが裸になったぐらいで、なぜ上の方が大さわぎするのかわからない」と首をかしげているものもいるそうだ。

<“反博”運動への弾圧?>
(中略)それは「国民不在の祭典」とよばれる万国博への高まる批判を、国家権力によって封じこめようとするものであり、万国博が70年安保のカモフラージュ装置であることを、権力者みずから立証するものだからである。
この事件を無視できないと考える数人の芸術家は、7月19日、突然「通路」と書きかえられた新宿西口広場で、機動隊にかこまれながら、事実経過を知らせるビラをくばったし、美術評論家ヨシダ・ヨシエは、個人の資格で、万国博に参加している芸術家たちに、即刻協力を中止し、千里丘陵ストを実現するよう、よびかける手紙を送った。(後略)』

「万博破壊共闘派」は逮捕にも屈せず、8月に開催された「反戦のための万国博」会場で再び「儀式」を行った。

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連載No85の続きです。
1969年4月14日、明治大学の新学期の始まりの日は、4.12本校学生会館への機動隊乱入、不当逮捕に抗議する異例の全学ストとなった。

東京・杉並区の明大和泉校舎では「全学ストライキ突入」の立看板が並び、新入生は初日から「休講」という事態に直面してキャンパスをウロウロ。私もウロウロしていた新入生の1人だった。
全学ストとはいっても構内に緊張感は感じられず、多くのサークルが出店を出して、しきりに新入生を勧誘している。天気も良く春らしい陽気なので、いたってのんびりした雰囲気だった。
正門付近で行なわれた抗議集会には社学同の赤ヘルを中心に300人近い学生が集まっていたが、私も集会を取り囲む学生の人垣の後ろで、集会の様子を見ていた。
午後、駿河台の本校で「大衆団交」が行われるということで、帰宅する道を選ばず、団交に参加することにした。
この体験が、その後の学生生活を決定づけた。

団交の様子を報じた新聞記事を見てみよう。(写真は朝日新聞から転載)
【“抗議休校だけではダメ”ホコ先、大学側に】朝日新聞 1969.4.15(引用)
『「警官隊の乱入を弾がいする」「不当逮捕に抗議、全学ストを」。
騒ぎの続く東京・神田の学生街でこれまで平静を保っていた明治大学も14日、大学側が異例の臨時休校に踏切り、各種の立看板がたち、学長との「大衆団交」まで始まった。
12日夕、日大全共闘のデモ規制に当った機動隊が学生の逃げ込んだ同大学の新旧両学館に独自の判断で立入り、サークル活動中などの明治大学学生まで多数逮捕したことがきっかけ。
大学側は新学年初日の4日14日を「全学部臨時休講」として抗議の姿勢を示したが、おさまらない学生たちは以前からくすぶっていた学生部廃止などの要求を持出し、15日にも学長との団交を開くなど“飛ばっちりスト”にはいりかねない勢いだ。

明大学生部学生課が14日夜までに調べたところによると、12日夕逮捕された同大学生のほとんどは学館内でサークル活動をしたり、喫茶店で話込んでいる最中だった。
新館地下で練習中の演劇同好会「現世代」の13人(男子7人、女子6人)、旧学館5階で新入部員歓迎会の準備をしていた2部山岳部員2人、新館ロビーにいた女子学生3人など。
また、2部の法律研究会、音楽研、雄弁部などの部室でも、それぞれ部員数人が逮捕されたという。
「現世代」の練習場では、一度機動隊員がのぞいたが、練習中とわかり、引揚げた。
だが、約30分後の12日午後5時40分すぎ、別の数人の機動隊員が「ここにもいた」となだれ込み、学生を連行した、という。
この13人は同夜釈放されたが、「全員の証言が同じだったので、誤りとわかったのでしょう。1人、2人なら、どうなったか」と学生課は驚くばかり。

同学館は周辺の日大、中大を追われた各セクトや日大全共闘が寝泊りしており、12日も多くの日大生が学館内に逃げ込んだため、巻添え逮捕が起ったらしい。(中略)
同大学では、事件後警視庁と神田署に抗議する一方、逮捕学生の即時釈放を要求、職員が実情調査に当っているが「調べ中だといって警察ではなかなか教えてくれないので」と、事実をつかむのに苦労している。

14日午後、同大学記念講堂で開かれた学生集会には約千五百人の学生が集り、中川富弥学長も参加、大学当局の抗議方針を説明した。
だが、学生たちは「警察が公衆便所にでもはいるように何のこだわりもなく大学構内に立入るようでは、自治もなにもない。」と怒り、逆に大学側の追及をはじめ、学生部の廃止、寮、学館の学生管理を要求、「全学封鎖」の声まで出始めている。(後略)』

明大記念館で行なわれた14.15日の「大衆団交」には、明大新聞によると延べ5,000人もの学生が参加した。
学生側は学館乱入・不当逮捕問題が全学的なものであるのに何故学生と教職員一体の抗議集会が開けないのかと迫ったが、平和的に文書・口頭で権力に抗議するという大学側と、権力には受身でなく積極的に行動し、大学側も学生と共に闘えとする学生側の意見は平行線でかみあわず、結論は出なかった。
また、学生部廃止問題や、67年の学費値上げ反対闘争時の諸問題も取上げられたが、意見は対立したまま「団交」は終わった。

学生会中執は4月25日、「4.28沖縄デー」に向けて駿河台記念館に約2千人の学生を集めて「臨時学生大会」を開き、出席代議員の過半数の賛成を得て、26日から3日間の全学ストに入った。
全学ストが可決された後、明大前通りを約500名がデモを行い、記念館正門にバリケードが築かれた。
4.28ストに入った大学は、東大、九大、北海道大、法政、同志社など全国37大学。
4.28当日は、明大、東京医科歯科大に集結した社学同、中核派、日大全共闘、ML派などが御茶の水駅を中心に市街戦を繰り広げ、“カルチェラタン”が再現された。
(つづく)

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1994年に全共闘白書(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)が刊行された。
「プロジェクト猪」(1947年生まれの猪年にちなむ)が事務局となって、当時、全共闘に関わった人たちにアンケート調査を行い、その回答と事務局の呼掛け人座談会、大学当局者・教員のコメントなどを編集してまとめた本である。
このブログを見ている方の多くは、すでに読んでいると思うが、私は最近まで読んでいなかった。
ブログを書くには読んでおく必要がある文献と考え、図書館で借りて読んでみた。

全国81大学・高校の250人近い方々のアンケート回答が掲載されている。
アンケート項目は以下のような46項目に及ぶ細かいものである。
運動参加の理由、自己評価、あの時代に戻れたら、革命、社会主義の有効性、運動と人生観、印象的な闘い・事件、元活動家の沈黙、運動を離れた主因、運動は人生に役立ったか、運動による損害、過去を家族に話しているか、運動の歴史的役割、現在の学生運動の停滞、子供が学生運動に参加したら、当面の最重要課題、10年後の最大関心事、現状、年収、女性と家庭、家事・育児の男女分担、子供と塾・予備校、外国人労働者、自主的活動、労働組合、倫理に反したこと、嫌いな文化人・言論人、憲法、安保条約、自衛隊、自衛隊のPKO参加、日の丸、君が代、国連の安全保障機能、日本の安保常任理事国入り、選挙、支持政党、最も嫌いな政治家、最も好きな政治家、政界再編成のあり方、ぜひ発言したいこと。

明大も19人が登場するが、414B統一戦線の仲間であったK氏が実名で回答を寄せているのを発見した。
【全共闘白書】(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)(引用)
『1.運動参加の理由
  自らの信念で。歴史を変えたいと思い、その原動力は学生しかないと思って参加した。
 2.自己評価
  誇りに思っている。歴史は変わらなかったかもしれないが、社会は変わったと思っている。その中で行動できたことは意義のあることであったと思っている。
 3.「あの時代」に戻れたら
  また運動に参加。人間はそう簡単には変わらないと思う。あの時代の“炎”は完全には消えているわけではない。
 4.革命
  信じていなかった。
(中略)
7.印象的な闘い・事件
 4.28沖縄デー。大学に入って初めての街頭闘争であった。10.21国際反戦デー。学園闘争(1969年)
8.元活動家の沈黙
特に何も思わない。各自生活があり、妻がいて子供がいて・・・。“政治的”な意味がわからないが、社会的な地位の中で沈黙を守っている仲間は少ないが・・。
9.運動は人生に役立ったか
少なくとも“闘うこと”のみは持続。それが経済的な目的のみであっても、また他の世の中を相対的に見ていられることは何にもまして役立つことである。
(中略)
54.安保条約
堅持
55.自衛隊
合憲
57.日の丸
認める。赤ヘルがブントであり、青ヘルが社青同であり、白ヘルが中核であるように日の丸は日本の国旗である。
58.君が代
認める。インターナショナルが労働者の歌であるように、日本の歌はとりあえず君が代である。
64.支持政党
新政党
65.最も好きな政治家
小沢一郎 
(後略)      』

革命は私も信じていなかった。あの時代に戻ったら私も再度、闘争に参加すると思う。それが敗北と分かっていても。
「日の丸」と「君が代」に関する例えはK氏らしいが、強引だなあ。
白書を読んでいて、好きな政治家に小沢一郎を挙げる人が多かったが、K氏もその1人か。

この本を見て、「全共闘白書」のアンケートが私のところへも送られてきたことを思い出した。
当時、私的には「沈黙の時代」。アンケートの何も書かれていない回答欄を見ながら、書こうと思っても「ことば」が何も出てこなかった。
結局、白紙回答で名前だけ書いて返送した記憶がある。
アンケートでは「今こそ語り始めよう全共闘世代」と呼びかけていたが、私にとって、語るべき時代はまだ先だったのだ。

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