野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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前回の連載で、1969年12月14日に東京・日比谷野外音楽堂で行われた糟谷君虐殺抗議「人民葬」の様子を紹介した。その連載を書いている時に、当日、日比谷公園で出会い、そして数年後、突然別れてしまったN君のことを想いだした。

当日、日比谷野外音楽堂の入り口付近で党派や各大学のデモの隊列を見ていると、ジグザグデモをしている中央大学の隊列の後ろの方にノンヘルでやけに目立つ奴がいる。
よく見ると、高校1年の時の同級生N君である。
すぐに隊列に駆け寄って、「おいNじゃないか」と声をかけた。N君は隊列を離れ、「おう、久しぶりだな」と言って握手をした。中大の法学部にいるとのこと。お互いに連絡先など教えあって、その場は別れた。

N君は高校1年の時、神奈川県でも有数の進学高から都立第○学区内でも最低レベルの我が都立○○○高校に転校してきた。
私とN君の座席が近かった所為もあり、一度N君の家に遊びに行き、N君からウイスキー入りの紅茶を飲まされて、3日くらい二日酔い(三日酔い)で学校を休んだ記憶がある。N君は2年生になる前に別の学校に転校していったが、チョイ悪で個性的な生徒だった。

さて、私は当時、明大全共闘と併行して高校時代の仲間を中心としたグループにも参加していたが、N君も日比谷公園での再会の後、1970年に入ると我々の高校グループに参加するようになった。
一緒にデモに行ったり、メンバーのアパートで議論したりする小サークルのようなものだったが、仲間でいろいろと話しているうちに、N君が高校1年の時に同級生だったS子さんへの強い想いがあり、S子さんと同じ中大に入学したという話になった。(S子さんが中大に入るのを何故知っていたかは不明)
N君からS子さんへの強い想いを聞いて、「そういえばS子さんは高校時代、T君が好きだったらしい」というと、「誰だ、そいつは!」と恐ろしい剣幕で聞き返す。
「ローリングストーンズのミックジャガーに似ていた男だが、知らないか?確かT君も中大に入って、民青と思うが・・」N君はS子さんが好きだったというT君が中大の民青と知ると、「民青恐るに足らず、やっつける!」といって、やけに息巻いている。気迫十分。

70年の5月頃、そのS子さんをウーマン・リブのN子が我々の高校グループに連れてきた。S子さんは色白・小柄であまり喋らず、クールな感じの女性であるが、話をすると理知的な女性という印象を受ける。N君はそんなところに惹かれたのか?
彼女は、その後もN子と一緒に我々の高校グループに時々顔を出すようになった。
グループの集まりではN君とS子さんが顔を合わせる機会もあり、N君はS子さんにそれとなく想いを伝えていたようだが、結局、我々高校グループも71年には解散状態となり、N君とS子さんの距離が近づくことはなかった。
そして、S子さんは、ひょんなことからN君ではなく高校グループに居た私の友人と同棲するようになる。

私が大学を卒業して間もない頃、連絡も途絶えていたN君から突然電話があった。私と私の友人(S子さんと同棲している)と3人で話がしたいということで、数日後、都内の私鉄沿線の飲み屋で待ち合わせすることになった。
私と私の友人が飲み屋で待っているとN君が現れた。N君はそれほど変わっていなかった。大学卒業後、「便利屋」をやっているらしい。「便利屋」の話をしばらくした後、N君が「実はS子さんの情報を知りたい。君達なら何か知っていると思って来てもらったのだが」と切り出した。N君は私の友人がS子さんと同棲していることを知らない。
N君はS子さんへの想いを切々と語るが、私と私の友人はN君に何を言ったらいいのか分からず、ただ相槌を打ちながら話を聞いているだけだった。
話が途切れ、N君がトイレで中座した時、私と私の友人は「どうしようか」と顔を見合わせた。私が「この際、話した方がいいんじゃないか」というと、私の友人も頷き、N君が戻ってくるのを待った。
N君が席について、彼にビールを注いだ後、私の友人が「S子は俺と一緒に暮らしているよ」とポツリと告げた。
N君は「冗談だろ・・」と半信半疑の様子で我々を見た。私の友人が黙っているので、私が「実はそうなんだ。S子さんが彼と暮らしているのは本当のことなんだ。」と改めてN君に告げた。
私の友人がS子さんとの同棲の経過を淡々と話し始めると、N君はビールのコップを握り締めながら聞いていたが、ついにこらえきれなくなったのか、肩を震わせて「うー」と言って店を飛び出していった。
私と私の友人は、もうN君が帰ってくることはないと分かりつつ、ビールが半分残っているN君の飲みかけのグラスと、空っぽの座席をしばらく黙って見つめていた。

N君とは、それ以来会っていない。所在も分からない。
S子さんは、その後、イギリス人と結婚した。

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1969年12月14日、東京・日比谷野外音楽堂で、11月の佐藤訪米阻止闘争で亡くなった岡山大生、糟谷孝幸氏(プロ学同)の「人民葬」が行われた。
糟谷氏の死因については、67年の羽田闘争で亡くなった山崎博昭氏の時と同じように、デモ隊側と警察と主張が真っ向から対立した。弁護団は“糟谷君は逮捕時及び逮捕後の警棒の乱打によって虐殺された”と主張し、大阪府警は“警棒の傷と違う”として、学生の鉄パイプが当たったという説を主張した。
「週刊アンポ」にこの事件に関するドキュメント記事が掲載されているので見てみよう。

【糟谷孝幸はいかにして殺されたか アンポ・ドキュメント】
週刊アンポNo2 1969.12.1(引用)
『3万人が参加した11月13日、大阪扇町公園での「佐藤訪米阻止」行動のなかで、岡山大学法文学部2年、糟谷孝幸君(21)は逮捕され、その後に意識を失い死亡した。(中略)逮捕現場は扇町公園のむかい側、水道局前で、逮捕後、歩いて約1キロ先の曽根崎署に連行された。
曽根崎署では、指紋、写真、弁録書をとられたあとで、気分が悪いことを訴えた。警察の発表によると、午後7時に救急病院に指定されている行岡病院に連れていかれたことになっているが、病院側は8時50分と発表している。
行岡病院の院長は行岡忠雄氏で、現在、自民党の市会議員である。また、この病院には脳神経科はなく、その専門医もいない。
糟谷君は病院でしだいに意識を失っていき、14日午前1時にはほぼ完全に意識を失った。情報を知った関西救援連絡センターと樺嶋弁護士、葛岡医師が病院にかけつけたが、病院側は一切受け付けなかった。
この時点では、病院の看護婦の証言によると、脳内の血腫の有無を調べる血管撮影さえ行っていない。
午前2時20分、樺嶋弁護士と葛岡医師は、ようやく病室に入ることができたが、このときには糟谷君は麻酔注射はされていたが、血管撮影に必要な造影剤の注射はされていなかった。
手術が始められたのは午前4時。逮捕されてから実に10時間近くたってからであった。手術担当は行岡病院の松木康氏で、松木医師は整形外科専門医で脳神経科の専門ではない。
午前5時20分に、京大病院の佐藤耕造医師(脳神経科)が協力を申し入れたが病院によって拒否された。
この拒否の態度は、糟谷君が病院に運び込まれたときからのもので、病院の玄関にバケツや工事用テントをうちつけるなどして一切応対に出ないというものであった。
手術は6時20分に終了したが、この手術の際、カルテは書いていないことを8時45分の段階で、弁護士と佐藤氏は確認している。
手術後、糟谷君はほとんど意識を回復することがなかった。
糟谷君の身元は、14日午後7時までわからなかったが、救対センターの努力で判明することができた。
しかし、同日午後9時、糟谷孝幸君は死亡した。(中略)
解剖は午前1時30分から5時30分までかかり、その結果、死因は頭部打撲による脳機能障害と発表された。(中略)
当日のデモの目撃者の話では、逮捕の際に機動隊員によって火炎ビンの燃えさかる中を引きずられたり、警棒で乱打されたりする者がかなりいた。(後略)』

12月14日の「人民葬」当日の様子はホームページのエピソード1969に書いたが、まさに「合戦」という言葉がぴったりするような大規模なゲバルト(写真は朝日新聞から転載)であった。
【焼香代わり内ゲバ騒ぎ 岡大生の人民葬 1700人が衝突】
朝日新聞 1969.12.15(引用)
『全国全共闘連合は、先月13日、大阪・扇町公園で開かれた佐藤訪米抗議集会で機動隊に逮捕され、翌日死んだ岡山大生糟谷孝幸君の「人民葬」を14日午後2時半から東京・日比谷野外音楽堂で開いた。学生、反戦青年委、市民など約3300人(警視庁調べ)が集まったが、同3時半ごろこれに参加しようとした革マル派約700人と、会場外で待機していた中核派、ML派、反帝学評、フロントの学生など約1000人が衝突。公園内一帯で投石と旗ざおのなぐり合いがあった。革マル派と他派の“内ゲバ”は再三起こっているが、これほど大規模なのは始めて。同3時45分から機動隊が規制に入り、187人を凶器準備集合、暴力行為の現行犯で逮捕し、騒ぎは静まった。』

連載57のコメントに文理\(^o^)/学科さんが、当日の様子を書き込みしているが、この記事のように、1700人近くのヘルメット部隊があの広い日比谷公園内で激突。機動隊の乱入後は3者入り乱れての大乱戦となった。私の高校の友人もこの時逮捕されたが、私は何とか逃げ延びた。
明大では、生田で近くの大学の革マル派とドンパチやっていたようだが、和泉には革マル派がいなかった(公然と姿を現さなかった)ので、革マル派とのゲバルト経験は、これが最初で最後でした。

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2008年11月22日土曜日、快晴。
1968年11月22日に東大安田講堂前で開催された「11・22東大日大闘争勝利全国学生総決起大会」から40年。東大近くの某ホテルで日大930の会の「拡大同窓会」が開催された。私にも日大930の会から案内状が届いたので、参加させていただくことにした。

日大930の会の同窓会なので、面識のない方が殆どということで、多少の不安を抱えながらホテルに入ると、1階のソファーに座っている秋田議長の顔が見えた。
その横を通りすぎ地下に降りると、受付周辺にはすでに大勢の方が来ている。「他大学全共闘」の受付のところでウロウロしていると、930の会世話人のS氏から「Yさん、来てくれてありがとう」と声をかけられ、ホットする。S氏とは2回顔を合わせているので、よかった。
会場の隅の椅子に腰掛けていると、「おー、Y君!」といって農獣医のS氏が近づいてきた。39年ぶりの再会である(ホームページのエピソード1969「レポ」に出てくるS氏)。「今日はN君も来るんだって?」と言われ、「N君が来るとは聞いてないけど」と言って特製名刺を渡すと、「ホームページはN君ではなくて君がやっていたのか。じゃあN君は来ないのか。」
S氏は明大全共闘ホームページの管理人が参加すると聞いて、管理人がN君だと思っていたらしい。確かに414B統一戦線のリーダーはN君だったので、間違えるのも無理はない。「君とはアルバイトの帰りに田町駅で別れたのが最後だったな。」と言われたが、殆ど記憶にない。S氏は抜群の記憶力と聞いていたが、そのとおりでした。

この会に参加した目的の1つ目が、私のホームページに書き込みをしていただいている方々に直接会ってみたいということだった。
50代の後半になって一念発起して「明大全共闘・学館闘争・文連」というマイナーでマニアックなホームページを作り、インターネット上で公開している訳だが、やはり読者の反響というか書き込みがあるとうれしい。会場ではホームページに書き込みいただいている何人かの方々と直接会って話すことができた。ネット上の書き込みを見ている所為か、初めて会ったような気がしない。
ネットはヴァーチャルな世界ではあるが、現実の私たちを繋ぐ大きな手段であることを実感した。

私の知り合いに文理学部社会学科闘争委員会で銀ヘルを被っていたN氏という人がいる。
昨年の11月22日にN氏からメールをもらったが、その中でN氏は「ところで、今日は何の日かご存知ですか?(イイ 夫婦の日?)11.22こそ、輝く68年のT大・N大闘争連帯大集会の記念すべき日であります。あの時、安田講堂前広場に全国から結集した学生とともに、民青の武装部隊と教育学部前で激突した記憶が鮮明に残っています。地方から出てきてまだ2年目の19歳でした。それにしても、あの夜は・・・寒かった!」とあった。
そんなこともあり、N氏にも今回の会に一緒に行こうと誘ったのだが、残念ながら都合がつかないという。N氏からは「会に行けないので、文理の大先輩であるK氏に私のことを聞いてみてくれ。多分知っていると思う。」と言われ、K氏にN氏のことを聞いてみることにした。N氏からは「日大全共闘は他大学の全共闘とは違って、上下関係が厳しいところなんだ。」と言われていたので、69年組の私としては「あのーNさん知ってますか。私の知り合いですが、今日は来られないのでKさんに聞いてみてくれといわれたもので。」と丁寧に尋ねたところ、「Nは知っているよ。彼は途中で色付きに(青)なったが、俺は最後まで色付きにならなかった。」という返事。
そこで、あらかじめ用意しておいたN氏の連絡先を書いたメモをK氏に手渡し、N氏とK氏を繋ぐことができた。これで、この会に参加した目的の2つ目を達成。

そして、3つ目の最も重要な目的は何か?
今、私の立っている「場所」を確認すること。全国学園闘争・70年安保闘争から40年近くが経ち、皆、それぞれの場所でそれぞれの生活を送っている。この40年近い歳月はあまりにも長い。時の流れの中で、今、私が留まっている場所はどこなのか、どこまで流されてしまったのか確認したかった。
この日、「こだわり」を持った多くの人たちの報告などを聞き、当時の「志」が生きていることを再確認できた。「志」を忘れず、時の流れに抗して私も何とか今の場所に踏みとどまっていなければ。

家庭の事情で二次会開始のシュプレヒコールを聞いた後、退席させていただいたが、皆さんあれだけ元気なら10年後の50周年も可能じゃないでしょうか。

※ yamamotoさんにネットで知り合った人たちということで、aaghさんや藪さんと一緒に前に呼ばれて挨拶をした。人前で喋るのは余り上手ではないので焦りました・・・。

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