野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

今回のブログは「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争記録さるべき記憶・知られざる記録」コーナーに寄稿された慶應義塾大学闘争の記事である。
1960年代後半の学園闘争の記録は多いが、1970年以降の学園闘争の記録は貴重である。
当時、慶応義塾大学日吉で闘った安田宏氏から寄稿していただいた。

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(「行け!不退転戦列へ 闘争の死滅か、血みどろの勝利か」73オリエンテーション実行委員会より転載

【慶應義塾大学学費闘争 1972~1973 日吉の闘い】
1.学費値上げ反対・自治会再建の動き
1972年は後々語られるようになる時代の転換期だった。世間が札幌オリンピックの話題で沸いている中、インフレは加速、一方投機熱が盛んになり、「素人への投資の勧め」までが頻繁におこなわれた。現在に続く、「自己責任」論、新自由主義への流れの始まりだったようだ。田中角栄首相は日中国交正常化の実績をもって総選挙に打って出た。まだ首相が人気絶頂だった頃だ。この内閣にあって、「列島改造」の名のもとに、税金は地方の「開発」に注ぎ込まれ、また、後に問題になる「年金基金の遣い込み」、「宿泊施設、マッサージ機からゴルフボールまで」、「年金はどんどん入ってくるから使ってしまえ」と空前の無駄遣いも行われるようになっている。今頃になって「年金基金が足りない」、「若者の数が減り、多数の高齢者を支え切れない」などというキャンペーンが行われている。
 
新左翼運動は、「あさま山荘事件」から「連合赤軍リンチ殺人事件」、さらには「テルアビブ空港乱射(無差別殺人)事件」に至って、それまで一定のシンパシーを抱いていた人々まで一切擁護などしないようになっていった。
 慶應大学ではこの連合赤軍メンバーだったOが処分されている。
この時代、「左翼」、「過激派」は疎まれ、パージされる対象だったのである。

 この状況下、相模原戦車補給廠前での、「ただの市民が戦車を止める会」の闘いは画期的だった。実際にベトナムの戦場と日本を往復する戦車を100日以上にわたって「止めた」のである。解放後ベトナム政府の要職につき、来日した元解放戦線戦士は、「あのニュース、日本の市民が戦車を止めたという情報は解放戦線の塹壕を飛び交い、私たちは本当に勇気づけられた」と語ったほどである。補給廠前のテント村は、社会党、共産党、中核派、革マル派、べ平連、都職労、法大全共闘、戦旗、叛旗、他ブント各派、など、支援のテントが並び、まさに「呉越同舟」の観を呈した。
僕は再建委のテントに出入りし、社学同の赤ヘルメットでデモに参加していた。一度、叛旗派の隊列と並行して16号線に出て機動隊とぶつかり、ドジで逃げ遅れてリンチにあい、肋骨を折られた。逮捕されなかったのはラッキーだった。
 
 そんな年、慶應大学では「学費値上げ」の噂がしきりだった。前年71年、早稲田大学では既に学費値上げが決定、発表されていた。1月には、国立大学授業料を3倍にする大蔵省原案を文部省、自民党が了承している。インフレの時代にも関わらず、僕たちは、1965年、第1次学費闘争の際に「値上げ」された学費のままで入学、在学していたのである。この年、私立大学106校で値上げがあり、国公私立120校で学費値上げ反対闘争が闘われる。

高校闘争後、受験しないで、1年遅れで入学した僕は、71年に入学して以来、遊び惚けていた。幼馴染の車で湘南に出かけたり、彼の自宅があった目白で毎晩のように遅くまで飲んでいたり、といった毎日だった。期待していた社会科学系の授業がまったく面白くなくて、サボってばかりいたのである。が、この「学費値上げ」については自分なりに闘おうと決心した。同クラス、そして同じ政治学科の仲間を集め始める。
 
 来るべき「学費闘争」を見据え、僕は周辺にいたノンセクトの仲間と、まず「自治会再建」の必要性を考え、その呼びかけ、クラス討論に取り組んでいった。待っていたのは、「左翼帰れ!」、「慶應が嫌なら出ていけ!」の声であった。また一方には「学費問題なんて矮小だ」、「ポツダム自治会はナンセンスだ」などという先験的な規定とともに「新左翼」を自称する少数の人たちの声であった。
 とはいえ、65年の第一次学費闘争では、「今後学費値上げの際は学生代表と協議して決める」という「事前協議制」が当時の高村塾長との間で合意されていたと言い伝えられていた以上、当局との窓口になる自治会がなければ話にならないと僕たちは考えた。1月に既にあったはずの「学費闘争を闘う」とまでうたった三田キャンパスの「全塾自治会(谷委員長)」は執行部の姿も消え、4月にはもうなくなっていた。「学費値上げ」を示唆した当局をして「正式な自治会とは認められない」と言わしめたほどだった。

 日吉キャンパスの僕たちは、5月25日、政治学科のクラス委員総会(14クラス、委任状4)を開催し、学費値上げ阻止を目指し、政治学会(政治学科自治会)の再建準備委員会を立ち上げた。だが、翌26日、民青系の「慶應民主化会議」はこの集会の無効を呼び掛けた。また「自治会など認めない」とするクラスもあった。僕たちは再度各クラスに戻り、また他のクラスにも討論を呼び掛け、さらに話し合った。
 とりあえず暫定執行部を選任、委員長に近森土雄、僕が副委員長に就いた。正式決定は次期総会に持ち越しとした。

 さて、6月1日、大学報には、「財政窮乏化」を訴え、また、文部省の提唱する「受益者負担の原則」を振りかざし、近いうちの学費値上げを示唆する内容が改めて掲載された。この「受益者負担」という言葉は当時の経済界の流行語で、あちこちで使われていた。「教育投資論」と結びつき、これもやはり今の「新自由主義」イデオロギーの先駆けであった。
 この「受益者負担」と「事前協議制」とは、慶大学費闘争にあってキーワードだった。
同日、政治学科クラス委員総会において、日吉政治学会は正式に発足した。委員長は近森土雄、僕が副委員長の臨時執行部と同じ布陣である。
この後、学費値上げ反対のいくつかのクラス決議があり、さらに学費値上げの方針についての「公開質問状」が1、2年のいくつかのクラスから出され、塾長、塾監局に郵送されている。
また、商学会(商学部自治会)の再建の動きも始まった。
生協も学費値上げ反対を決定した。

これらの日吉での活発な動きに比して、「三田の静けさは驚くばかり」と「慶應塾生新聞」は見出しに書いている。確かに、全塾自治会どころか各学部自治会の再建の話も聞こえてこなかった。結果論になるが、せめてこの時点で三田にあっても自治会再建の動きを始めていたらその後の展開も変わってきただろうと思う。


2.学費値上げ決定から無期限ストライキへ
この夏、すでに社学同に加盟していた僕は、三里塚現闘本部のあった農家に泊まり込んで、24時間交代の鉄塔防衛にあたったり、援農で働いたり、何より相模原戦車闘争に出かけたりと忙しい日々であった。
 
政治学会執行部は合宿を行い、秋の学費闘争の準備と意志一致をした。
 
僕は、その年、6.15政治集会での、共産主義者同盟(ブント)創設者で60年安保闘争を指導した島成郎の話に感動し、また、やはり60年安保ブントで、当時は共産主義者同盟再建準備委員会(情況派)の政治局員になっていた長崎浩の「党と同盟の分離」、「大衆政治同盟の形成」という組織・運動論に共感し、柄にもなく加盟を済ませていた。が、この学費闘争については、学対は一切の党派色を出さず、無党派の運動に徹底すべきという「大衆政治同盟」論からくる方針であり、僕は自由に、というより勝手に動いていた。僕にしてみれば当然のことと思えた。これは後にストライキ実行委員会を結成する際にも多くの支持を集めるのに非常に効果的だった。他の新左翼セクトも、民青も、党派色を出さずに参加せざるを得なかったからだ。つまり、ストライキ実行委員会はあくまでも無党派の大衆組織であり「党派間共闘」ではありえなかったのである。

 7月7日、日吉でちょっとした騒ぎがあった。日吉中庭で佐藤学生部長を見つけ、政治学会執行部と数名の学生が近くの教室に連れ込んで「公開質問状」への回答を迫った。数時間のやり取りの末、公開質問状への回答は8月1日に塾長から発表する、「協議」する自治会は「学生の動き」次第とする、と二つの内容を確認、佐藤学生部長はこれらを書いた書面にサインしたのである。
 果たして8月1日、大学報に「学費問題」についての大学側見解が発表される。「公開質問状」への回答であった。曰く。学費値上げは「検討中」である。値上げしたとしても在学生には適用しない。そして、「自治会は学生次第」とされた。

明けて9月、日吉商学会(商学部自治会・U委員長)が再建される。
 同月、「学費問題シンポジウム」も開かれている。

 実は、この学費値上げの動きとともに、当局は日吉中庭への「厚生棟」の着工計画を進め、すでに実施段階に入っていた。これは、食堂、サークル室、などを備えた施設と一方的に説明されていたが、当時日吉「3号館」校舎をサークル、「以前の」自治会執行部(セクトによる)などが勝手に「学館」のように使っていたのに対して、「管理強化」を狙った新施設であることが明らかだった。僕たちは相模原闘争にちなんで「ただの塾生が厚生棟着工を阻止する会」を結成。3号館横の空き地にテントを張って、寝袋を持ち込んで「実力阻止」の構えを見せていた。10月9日、着工が開始されるのだがこれは「阻止する会」によって文字通り阻止された。結局この「厚生棟」は学費闘争終結の2年後くらいに着工されたと聞いている。確かに「実力阻止」したわけだが、当局の優先順位も低かったのだろう。
 日吉政治学会、同商学会の再建が早かったのは、この「阻止する会」のメンバーがその2学部に多く、執行部をスムーズに構成できたことによる。

 10月23日、当局は学費値上げを発表した。その値上げ幅は驚くべきもので、また、なんの「事前協議」もない一方的な発表だった。さらに11月8日に「学費改訂説明会」を三田で開くとも発表された。
 
 この一方的な、「値上げを前提とした」説明会開催に怒った僕たちは、「説明会粉砕」を掲げて、三田の会場へ初めてヘルメットを被って向かった。説明会は流会となった。
 だが、発表以降の当局の動きは早く、同月15日の理事会、そして20日の評議員会での最終決定へと進んでいく。慶應義塾関係者なら知る通り、「評議員会」とはオール慶應義塾の最高意思決定機関である。
 
15日、「理事会粉砕」を叫んで、今度は路線バスを数台貸し切り、僕たちはまた三田に押し掛けた。この時は三田に「阻止共闘」も出来ていて、多人数が三田構内をデモ、塾監局に突入した。

 20日、機動隊を動員した警備の中、半蔵門のダイヤモンドホテルで評議員会が行われ、「学費値上げ」が最終決定される。
 僕たちは当初からデモ隊列を機動隊にサンドイッチ規制され、会場に近づけなかったが、夕刻になって、白衣を着た医学部の隊列とともに会場付近でデモ、500名以上の学生が規制する機動隊と衝突した。後ろからは牛乳瓶や小石が飛んできて混乱、日吉政治学科の1名が逮捕された。

 この後、日吉文学会(文学部自治会・K委員長)、理財学会(経済学部自治会・横山淳委員長)をはじめ、各学部自治会の再建が進み、日吉自治会も再建される。医学部予科自治会(医学部進学課程自治会・F委員長)も再建されていた。その経緯から日吉自治会執行部は近森土雄委員長、副委員長に僕が就くということで政治学会執行部がスライドした形になった。三田「全塾自治会・I委員長」は12月半ばにやっと再建される。

 12月1日、日吉の学生大会は感動的だった。記念館に3,000名以上が集まり、圧倒的多数で「学費値上げ白紙撤回」と無期限ストライキを決議。その会場に、11月20日に逮捕された政治学会の三野進政治学会委員長(僕たちが日吉自治会執行部にスライドしたので、この時点で彼は政治学会委員長になっている)が釈放されて駆け付け、拍手で迎えられた。
 この決議に基づき、12月7日から日吉は無期限ストライキに突入、僕がストライキ実行委員長に就く。

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(「行け!不退転戦列へ 闘争の死滅か、血みどろの勝利か」73オリエンテーション実行委員会より転載)

 12月半ばには、当局の意を受けたと思われる学生らの「慶應大学紛争事実調査委員会(Fact Finding Keio Commission)略称FKC」が結成されている。

年が明け、73年1月から文学部を皮切りに各学部長会見が行われる、が、やはり一方的なもので学生は収まらない。
 
1月14日、三田でもストを可決したと情報が来た。
 
1月23日、「慶應塾生新聞」に塾長会見が掲載された。(ストライキ中の)自治会執行部には会う用意がある、が、「白紙撤回」を前提とした話し合いには応じられない、「事前協議制」という高村提案は制度として確立したのではなく、あくまで大学側の真意を理解してもらうために努力するということである、との内容であった。
 
1月30日、日吉記念館に12,000名以上を集め、(のべ27,000名・塾生新聞発表)塾長・理事会見が開かれる。佐藤塾長は体調を理由に2分ほど発言(野次で聞き取れなかった)、20分弱で姿を消し、塾長代理として全権委任された生田代行はまず「値上げ決定前に話し合いをしたかったが、自治会が機能していなかった」ことを強調、暗に自治会批判を行った。先に書いたように、値上げ決定前に自治会再建がなされていればこんな居直りは出来なかったはずで、結局当局の学費値上げ決定のプロセスに一拍ずつ遅れて反対闘争が展開されたことになる。が、いずれにしても、「事前協議制」は制度ではなく、「大学側の真意を理解してもらうための努力」とされた塾長見解が出ている中、これは一面的なエクスキューズにすぎなかった。果たして、本日、自治会は塾生の総意を代表しているか?と会場に問いかけられ、参加者は大きな拍手で答えている。他にも、塾の財政状態について、「100億円の赤字は真実か?」、「決定過程において、各方面の意思を確認したのか?」などと質問がでたが、生田代行は答えられず、最終的には「今後、学生代表と理事との定例会見を設ける。また、48年度からの奨学金をさらに拡充する」とし、僕たちは「白紙撤回」を譲らず、3時間あまりの理事会見は次回に持ち越されることになった。「奨学金の拡充」については、過去、どの大学の「学費値上げ」にあっても「奨学金によって学生が救われた例はない」旨、僕はデータを出して反論したことを覚えている。また、生田代行は「医学部などでは独自に説明会を開き、了承を得た」と発言したが、四谷の医学部ではすでに「学費値上げ白紙撤回」を掲げてストライキに入っていて、当局の「説明会」が値上げを前提としたアリバイ的なものであることは明らかだった。
 
2月8日、再度の塾長・理事会見が開かれる。9,000名以上がまた日吉記念館を埋めたが、この時は初めから佐藤塾長は姿を見せず、議論、質問も前回と変わらず、既に発行された文書の読み直しに終始した生田理事も途中退席、逃亡する有様であった。なお、この時は会場に「卒業したい」、「春休みをください」などといったスト解除派のプラカードが登場している。終了後、スト実と、学費値上げに反対する学生が記念館前でデモを行ったが、この「スト解除」派の学生と小競り合いが起きている。
 
2月12日、三田、学生大会ではスト解除が決議され、14日より授業再開とされた。1か月に満たないストで終わり、自治会執行部はリコールされてしまった。ちなみに四谷の医学部では「6年生のみ」12日から授業が再開されている。ということは、四谷医学部でも下の学年はストを続行していたということだ。


3.ストライキ実行委員会の内実
 ここで日吉のストライキ実行委員会の内実に触れておきたい。先に書いたように、このスト実は、各クラスから有志が参加して構成された集団で、セクトが「セクトとして」参加することはなかった。が、当然ながら、セクトの活動家も加わってきていた。叛旗派は他大学から2名、関西の反戦共闘(L研)は京大から1名、それぞれ入り込んできた。解放派、中核派の慶大生もいたようだ。「ようだ」というのは誰が解放派なのか、中核派なのかは僕にはわからなかったからだ。理財学会委員長の横山が解放派なのは知っていたが、あとはわからなかった。(中核派はすでに革マルとの戦争状態に入っていたから、顔を知られたベテラン活動家は地下に潜り、それとわからない活動家をスト実に入れたのだと思われる) また、とりあえずそんな識別は不要だった。民青系の在学生も加わっていたが、彼らはわかりやすかった。そんな集団で、必要な時は全員黒のヘルメットをかぶった。
異様だったのは革マル派で、彼らはスト実にはまったく関わりなく、他大学の学生も含めていただろう集団で「革マルZメット」を被って時折中庭に登場した。11.8説明会粉砕闘争の時は強引に近づいてきて、三田での粉砕闘争に来ていた。同日、革マル派は早稲田大学で川口大三郎君を拉致、リンチの末虐殺している。翌日からは、20日の半蔵門での闘いにヘルメット部隊を登場させただけで、あとで書く5月の「襲撃」のときまで、一切姿を現さなくなった。
個別課題(川口君の場合は部落解放闘争)に取り組んだ学生を、それをもって「中核派だ」などと敵対するセクト活動家と決めつけてリンチし、殺害するなどというのはもう理屈も何もなく、左翼以前の問題、人として常軌を逸している。中核派が「川口君は中核派の活動家ではない。が、中核派だとして殺害されたのなら断固として反撃する」と声明を出したのは当然だった。

ともあれ、この50名前後のストライキ実行委員会を軸に、日吉での闘争は展開されることになる。慶應フロントの自壊後、おおきなセクト、中核派、解放派などは革マル派との戦争状態で、全組織を挙げてそれに集中、「大衆運動」、「学費闘争」どころではなかったようで、この空白の中に全学的な学費闘争がスタートしたともいえる。


4.スト続行とスト解除派の登場
 2月13日、日吉では再度の学生大会が開かれる。ここでもスト続行が決議される。
 
2月14日 この「スト続行」決議に対し、佐藤塾長は日吉への機動隊の出動を要請する。
18日~23日の入試を前にこの措置を学生側への「最後通告」としたのだ。15日朝、500名の機動隊を待機させ、日吉はロックアウトされる。16日、若干の右翼学生によるテロがある。
日吉自治会は「スト破壊を許さず、封鎖解除実力阻止」を宣言した。これ以降、自治会執行部への名指し、処分恫喝が始まる。

 この2月13日学生大会では椿事が起こる。事前に「スト続行」をスト実内で意志一致していた民青系諸君が、「慶應民主化会議」の名でスト中断の対案を出したのだ。それまで共に闘い、同じ黒ヘルメットを被り、評議員会粉砕闘争では機動隊とも衝突している。それが事前の意志一致を翻して対案を出し、結果として学生大会ではFKCのスト解除案とともにスト続行案に対立したのだから僕たちスト実メンバーは怒った。それでも学生大会ではスト続行が決議されたのだが、この「対案」によってスト解除派が多数になったかもしれなかったのだ。
 追及した僕たちに対して、返答はこうだった。大会前夜、彼らは「全学連」本部に行き、そこで、スト実案に乗ることを許されず、対案を出すように指示を受けたとのこと。現場の状況を見ようともせず、闘っている学生の話も聞こうとしない民青系全学連指導部もひどいものだと思ったが、そちらに従った彼らも、スト実の意志一致よりも本部の指示を優先させたのだからやはり許せなかった。彼らはスト実から追い出され、姿を見せなくなった。後に、授業、後期試験阻止の闘いには敵対して登場することになる。

 3月11日 理事会見。執行部、スト実メンバーとの討議が長時間に及んだが物別れになった。

3月12日 記念館にて塾長所信表明がある。発言を求めた日吉自治会近森委員長にガードマン、右翼が暴行、取り押さえる。
さらに授業強行に抗議したスト実の学生を機動隊が不当拘留する。

この日の前、塾長所信表明があるという情報を得た僕たちは、2月以来の経験から、当日、右翼、ガードマン、場合によっては機動隊まで、との激しい衝突を予想した。僕は、横山と相談して、旧知の明治大生Fに頼んで、農具の柄につける樫棒(鉄パイプに勝る武器はこれしかなかった)を30本ほど夜半に運んでもらい、スト実有志の武闘訓練までしていた。指揮は横山が執り、部隊は会場背後に待機した。が、当日の衝突は避けられた。ここで衝突していたら、当局はそれを口実に強力な弾圧に出て、次の学生大会など開けなかったはずだ。屈強とはいえ丸腰のガードマン、右翼に樫棒で殴りかかっていたら、事後も含め、逮捕者も出ただろうし、右翼の「仕返し」襲撃もあっただろう。横山の賢明な判断だった。

以降、授業強行ボイコット、各クラスでの活発な討論がなされる。

3月20日 3度目の学生大会(3,500名) 白紙撤回、スト続行を含む10項目が決議される。
3月26日 後期試験強行阻止闘争。ヘルメットを被ったスト実メンバーが、各試験場に乱入、一部は発煙筒を炊いた。この結果、後期試験は翌年度に持ち越しとなる。また、4月9日に予定されていた入学式も、「混乱を恐れ」、中止と発表される。慶應大学で入学式が中止されるのははじめてとのことだった。この後期試験阻止闘争にあって、あるスト実メンバーが「学生の反発」を心配しながら教室に乱入すると、学生は拍手と歓声で迎え、答案用紙を投げ捨てたという。一緒にいたセクトの学生は「一般学生って何考えてるのかわからないなあ」とつぶやいたという。いや、よくわかる、と思う。セクトの考え方と僕たちのような「大衆運動主義者」との違いだろう。


5.学費値上げ後の「差別告発運動」
だが、この頃から、スト実内部では議論が混乱し始める。スト続行は決議されたが、すでに入試と合格発表を終え、「値上げされた」学費を支払った新入生は4月の入学を待つばかりになっていた。在学生によるスト続行は可能だが、「学費値上げ白紙撤回」はもはや展望が見えなくなっていた。

各グループ、セクトによって、語られる方針が違ってくるのである。「大学解体」と言い出すものもいた。叛旗派は「慶大解体」のスローガンを掲げた。
当時猖獗を極めた「差別告発運動」も盛んに語られた。これには前提がある。前年12月、「韓国旅行の印象」という小文を当時の経済学部長・気賀健三が原理研(統一教会)発行の新聞「慶応キャンパス」に掲載、その中で数回にわたって「北鮮」と記述されていた。これを発見した活動家が「差別言辞だ」と糾弾闘争をスト実に提起し、先に書いた2月8日の塾長・理事会見で糾弾した。気賀学部長は「学費問題とは関係ない」と一蹴した。この糾弾は2月の学生大会議案にも盛り込まれる。結局、気賀学部長は3月には「差別語だとは知らなかった。他意はない。差別感を与えるとすればこの言葉の使用を慎む。」といった文書をもって謝罪するのだが、「それでは済まない(自己批判になっていない)」、「さらに徹底糾弾を」とされた。「現代朝鮮研究会・地域問題研究会」の活動家たちである。他に、やはり当時盛んになったリブ運動に入り、「女(おんな)解放戦線」も結成されている。

現在に至る、マイノリティの権利、人権を守り、差別を許さない、とする運動の嚆矢となったこの「差別告発運動」の意義は大きい。が、「差別言辞糾弾」は当時明らかに極めて未熟であり、些末な「言葉狩り」による代理糾弾であった。 
後日、「大学に自主講座を」と「自主講座」を勧めに講演に来た五十嵐良雄(横国大講師)も、講演中、「こういうこと(自主講座)は誰にでもできる、馬鹿でもちょんでもできる」と発言し、後ろに立って待ち構えていた活動家たちに、「差別発言だ!」と怒鳴られ、講演を中止させられた。これは、僕は気になって後で調べたが、「ちょん」という言葉は朝鮮人を指す蔑称でもあるが、もともとは江戸時代から、大名などの役職をつけるときに、「以下同じ」という意味で「ちょん」というマークを付けたことに由来し、だんだんと「誰でもいい」、「どうでもいい」ことの意味に使われるようになったとのことで、この場合、五十嵐講師が後者の意味で使ったことは明らかだった。(まさか「朝鮮人でもできる」などと言うはずがない。後に彼はこの顛末を雑誌「現代の眼」の「差別告発運動の陥穽」特集に一文を載せて書いている)

とはいえ、「差別糾弾運動」は大きな力を持っていた。慶應大学に限ったことではなかった。
解放派の横山はこれら「課題別」戦線に人力、資金を集中、「自治会」ではなく、その後の運動の拠点として各課題別戦線を残したい、と語るようになった。
要は、各セクト、各活動家グループの思惑が前面に出てきたということだった。それは自治会執行部の近森や僕とはだいぶ肌合いの違ったものだった。そもそも「差別糾弾運動」の活動家たちは、前年の自治会再建活動、あるいは11月の3回に及ぶ山場の闘争でも見かけたことはなかった。年が明けてから、「差別糾弾」を語りつつスト実に登場してきたのである。
革マル派に至っては、スト実にもいないのに、外部からビラを入れ、僕たちを「自治会執行部派」などと呼んで見当はずれの「批判」をした。彼らとしてはスト実の「分断」を計ったのだろう。

新入生の入ってきた4月になって、こうした混乱、対立は深まっていった。

少し整理すると、例えば「慶大解体」、「大学解体」という方針は別に学生大会で確認されたわけではない。1セクトの方針である。また、「学費値上げ反対」、「白紙撤回」の要求とはその背景が全く違う。「差別糾弾闘争」のグループも主張するように、学費値上げは「下層労働者の教育の断念」としてあり、これへの反対闘争は大学そのもの、高等教育そのものを、「解体」したり否定したりするものではない。

また、自治会執行部に対する批判も、必ずしも自治会そのものを否定しているわけでもない。
ただ、横山ら、セクトの学生はよく「自治会運動の枠(制約)を突破する」と言ってはいた。僕たちは違う。自治会運動の枠(制約)そのものを拡大し、学生の自治、権利の範囲を広げていく運動を考えていたのだ。
実はこの違いはすでに前から「学生大会」の開催をめぐる討論にも現れていた。僕たちは「学園闘争のデッドロック」とも呼ばれる入試、後期試験を前にして、その都度学生大会を開き、学生多数の支持を得て闘うことを主張するが、彼らは「学生大会は開催すべきでない」、(「スト解除派が勝ってしまうから」)と言う。要するに一度学生大会でストを決議したら、そのまま学生多数の意思を確認せず、自分たちの主張だけでストを出来るだけ長く続行し、バリ撤去が強行されるまで「徹底抗戦」する、というわけだ。彼らはこれを「革命的敗北主義」と呼んだようだ。これは全く違う。
僕たちはこう考えていた。どんなに「正しく」見える方針でも、自治会の「学生大会」で否決、あるいは相手にされなかったらその方針は学内闘争では無効なのだ。それを、「闘うものだけが集結して」断行するというのは独善的であり、ひいては「自分のセクトだけが正しい」とするセクト主義を生む、と。
これは「全共闘運動」のとても皮相的なとらえ方だった。また、自治会も「ポツダム自治会」などとネガティブに語られるべきではない。

例えば、東大闘争は、体験者が語るように、クラス決議、また「学生大会に次ぐ学生大会」の連続によってあそこまでの高揚をみせたのであって、初めから東大全共闘が「闘うものだけの結集」でよしとしていたわけではない。日大にあっては、そもそも「自治会の結成」自体が「禁止」されていたのを、やはりクラス決議、学生大会を積み上げて9.30団交まで実現させたのだ。新左翼運動の高揚の契機となった10.8羽田闘争も、三派全学連の結成があってはじめて可能な闘いだった。
僕たちはそんなことを話し合っていた。が、学生大会開催のこと以外は正面から「論争」などしなかった。噛み合うはずもなかったからだ。ただ、僕の周辺に集まってきたメンバーたちにはこうした考えは当然のこととして共通して理解されていた。


6.自治会執行部、ストライキ実行委員会の辞任
 4月5日、三田で、生田理事、三雲理事らを取り囲んで「缶詰」団交、「学費値上げ白紙撤回」を主張、そのまま18時間、団交は深夜に及んだが、理事たちは沈黙を通した。長時間に及んだので、学外には機動隊が待機した。議論にもならず、埒が明かず、早暁、僕たちは理事たちを「解放」した。部隊で引き上げるとき、待機していた機動隊と小競り合いがあった。
4月10日、三田で東門を出ようとしていた生田理事を偶然発見したスト実メンバーが「会見」を求めて、止めようとする職員50人くらいと揉み合いになったが、こちらは100人くらいに膨れ上がり。そのまま教室へ連れてきた。理事・塾長代理が教室に閉じ込められたわけで、大学側は「退去命令」を出し、機動隊の出動も要請、機動隊員60名が三田署に待機した。僕たちは取り囲んで改めて「学費値上げ撤回」を主張、糾弾闘争になった。が、生田理事が一人で「撤回」を言えるはずもなく、この時は3時間で理事「釈放」となった。この日も「幻の門」(東門)から退出しようとするスト実の部隊と待ち構えていた警官隊とが鉢合わせ、抗議した学生から負傷者も出た。

その後、日吉でのスト実会議では、この「理事追及」が事前に漏れていた、「自治会執行部の近森、安田が情報を漏らしていた」と発言するものが現れた。これをきっかけに、僕たちの見えないところで「執行部が当局とつるんでいる(ボス交している)」というキャンペーンが始まった。あとで知ることになるのだが、同じような「執行部批判」のデマは様々な形で四谷など他のキャンパスでもなされていたようだ。必ずしも、セクト、活動家グループからというわけでもなく、一枚岩でなかった当局の一部からも意識的に語られたようだ。これらのデマの出所はいまだに不明である。
それでも十数名の僕たちに共感するメンバーがいたのだが、他のメンバーからは「情況派フラク」などと揶揄された。この時点で「情況派」に所属、どころか接触していたのも僕だけだから、近森委員長も含めてそれは「ためにする」言いがかりにすぎず、迷惑な話しだっただろう。

ともあれ、こうした動きの中で、4月のある晩、近森と僕は徹底的に話し合った。この2度にわたる「缶詰」団交の理事の反応を見て、また、値上げされた「新学費」を払い込んだ新入生が既に入学してきているこの段階で、もはや「学費値上げ白紙撤回」はあり得ないこと、各派、各グループの思惑の中で、これ以上自治会執行部として全学でスト続行を貫徹していくことが極めて困難なこと、その他もろもろである。僕自身は情けないことだが、精神的にも肉体的にも疲れてきていた。僕の自宅は台東区にあり、日吉とは1時間半以上の距離がある。その近所で家庭教師のアルバイトを週2~3回のペースで続けていたから、夜、日吉からバイト先の家庭に行き、自宅には寄らずに終電で日吉に戻る、時には日吉までの終電も逃し、元住吉までで下車して歩くといった生活が続いていた。学生大会で多くの学生から支持され、闘争が高揚しているときは張り合いがあって何でもないことだったが、二桁の小集団の中で、対立し、当局とつるんでいるなどといわれない批判を受けるのにも辟易していた。こんな諍いのために自治会再建からここまで闘ってきたわけではなかった。
二人の結論は「執行部の辞任」、僕は「スト実委員長も辞任」だった。
翌日、スト実の会議で申し出たが、対立していた面々はなかなか「辞任」を認めようとしなかった。要は、現執行部の批判、揶揄はするが、自分が執行部として前面に出て当局の矢面に立つのは嫌だというわけだった。そのころになると、近森や僕の自宅には、あるいは三野、横山など他の自治会役員の一部には、「施設破損の責任」を問い「損害賠償を請求する」という内容証明付きの封書が大学当局から何度も郵送されてきていた。僕たちはスト実でそれをたびたび読み上げてもいた。そういうことは嫌だというわけだろう。また、僕たちより「過激」と見なされた、横山、三野は館内放送では名指しで恫喝されていた。
無党派の数人が、「彼らが当局と繋がっているという噂は僕も聞いた。そんなことまで言われて執行部を続けさせるのは気の毒だ」といった内容の発言をして、何とか「辞任」は認められた。が、そんなわけで後任候補はすぐには出ず、とりあえず、三野進をストライキ実行委員長代行とした。その後、5月には、各学部執行部が集まって、近森、安田が辞めたとなれば、残るのは当初から日吉自治会を立ち上げた商学会のU、あるいは三野がやるしかないと話し合われ、また、少数ながらクラス委員総会も開かれ、日吉自治会委員長は三野進に決まったようだ。

それにしても、この「噂政治」はひどいもので、「安田が自治会費100万円を横領し、持ち逃げした」などとも言われていたそうだ。要するに、自分たちのグループ、セクトの人集めのために「わかりやすい敵」として執行部を批判し始めたのだろう。

その前後、「スト実」の役割分担が提案され、政治学会メンバーからは「救援対策班(救対)」が出る。このグループは後日、医学部のTが逮捕、起訴されたのに対し、「T君裁判を闘う会」の中心になっていく。
叛旗の二人は「弾圧対策班(弾対)」を買って出た。彼らは「外人部隊」だったので、スト実に軸足をつくりたかったようだ。

それ以降、かなりジグザグ、混乱した方針でスト実は動いていく、が、「辞任」した僕たちは詳しくは知らない。
よってこの先の一部は主に現場にいた人間への聞き書きをもとに書いていく。文章の責任は僕にある。


7.ストライキ解除とその後
3月の学生大会でスト続行が決議されていたから、授業再開阻止、後期試験粉砕といった闘争は続いていたのだが、だんだんと、スト実の会合などは人数が減っていき、僕たちの軸だった政治学会のフラクションも人が集まらなくなっていったようだ。前年5月からの「阻止する会」の運動や自治会再建、11月の学費闘争の山場にいた者たちが疲れて離れていく者も出たのに対し、逆に、後から加わってきた「課題別」の者たちは元気があったようで、スト実の中心メンバーが入れ替わっていった。もちろん僕たちの「辞任」の責任もある。

「差別告発運動」とともに、早稲田大学での川口君虐殺抗議、「早稲田解放」闘争と連帯しようという機運も高まったようだ。革マル派が文字通り大学当局と一体化し、無党派を含めた学生運動そのものを抑圧する体制に対する当然の闘争であった。革マル派が「当局公認」で作っていた自治会に代わり、新自治会、臨時執行部を立ち上げて彼らは闘っていた。

そんな中、5月12日 「早慶連帯集会」に向かうため、日吉3号館の中にいた学生30名を革マル派が襲撃、テロ。3名が負傷する。中庭には50名近くスト実メンバーがいたようだ。 

やがて、僕たちと代わったスト実、自治会の中心メンバーも一般学生や右翼FKCの圧力などに持ちこたえられなくなったのか、学生大会開催に踏み切る。

 6月11日 日吉学生大会。スト解除が可決される。決議後、右翼学生が鉄パイプ、ゴルフクラブなどをもって壇上の執行部を襲撃、その後、深夜まで執拗にスト実メンバーを追跡して襲う。この時も、やはり、スト実有志は先に書いた2月に準備したゲバ棒を持って、記念館裏の部屋に部隊で待機したようだが、いた者の記憶では「雪隠詰め」状態になって出られなかったそうだ。
 前年12月からの、実に日本の学生運動史上最長と言われた185日に及ぶストライキが終結し、慶大学費闘争は敗北とされる。

 スト実は四散し、運動をやめるものも多かったが、活動家の一部はそれぞれ「課題別」戦線へ、あるいはセクトへと活動の場を移していった。
 僕の周り、つまり「情況派フラク」には10名くらいの活動家が集まっていた。中心は法律学科のS、文学部のY、経済学部のH(彼は理財学会横山委員長の副委員長だった)、そしてその後現在に至るまで長い友情を育む政治学科の五十嵐功だった。

僕たちは、明大生田共闘、中大共産研他、他大学の「情況派」系、そして無党派の学生たちと都内のデモ、川崎の労働運動支援、あるいは三里塚現闘への泊まり込みなどに参加していたが、ゆるい結束だったのですぐに散ってしまった。
まもなく「情況派」そのものが分裂、実質的に解体してしまう。僕は、路線・思想的には旧政治局を中心とした「遠方から」の人たちと近かったが、日常の交流は学生の部隊としていたから、政治局から飛び出した古賀(雑誌「情況」編集長)の「遊撃」グループへと色分けされた。ところが、こちらは機関誌「ボルシェビキ」の名の通り、いわば「純レーニン主義」で、さらに分裂していた第二次ブントの中共派まで含めた様々なグループと「合体」して行くに及んで、僕の考えとは全く相いれないセクトになっていった。到底「一緒に闘う」気になどなれなかった。で、それこそ「日和って」ゴロゴロ自宅で休んでいた。そんなところへ古賀から電話がかかり、雑誌「情況」の編集部に来いという話が来た。僕は五十嵐を誘ってその編集の仕事をすることになる。
同じ時期、大学では、五十嵐から誘われてソ連研究の中澤精次郎教授のゼミに参加する。日吉での授業はつまらないもので出てもいなかったが、このゼミは自由で面白かった。教授も目をかけてくれて、いろいろな本を僕に薦めてくれた。新しい視野が開けるようだった。

こうして僕の「学生運動」は終わった。

ちなみに、一時は行動方針を巡って対立したこともあった横山淳とは、彼が解放派を抜け、進学塾を始める頃から、2008年に突然亡くなるまでよく付き合って飲んだものだ。息子の進学相談にも乗ってもらった。やはり解放派を抜け、その後精神科医になる三野進には、2015年、僕の「こころの相談」に乗ってもらった。

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(慶応大学日吉校舎のバリケード 1968年7月 :ネットより転載)
 
8.1960年代の慶大闘争を振り返る
 ここで、簡単に、以前の慶大で闘われた闘争に触れておきたい。特に、その「収束」の過程は、学園闘争の在り方を僕たちに突き付けていて、新左翼諸党派と僕たちの考えの違いも浮かび上がってくるようにみえる。

 まずは、65年学費闘争である。昔の話で、情報も限られているので、わかる範囲のことだけ書いておきたい。このときも新左翼セクトはすでにあったが、この学費闘争には関与していない。自治会を掌握していたのは構造改革派系の「共青」だったようだ。詳しくはわからない。また「構改派」といっても後のフロントなどとは関係がない。いずれにせよ彼らは執行部にあっていかなる党派色も出してはいない。
 1月、評議員会で次年度からの学費値上げ、塾債の発行が発表される。初年度入学金には「施設拡充費」を新設、最低10万円の塾債購入を義務としたから、初年度の納入金は従来の3倍になったという。
 全塾自治会(寺尾方孝委員長)は直ちに三田で抗議集会を開き、学生大会開催、ストライキ決議を提案、ビラ巻きなどを行っている。高村塾長は入院した。
 1月27日、日吉で授業放棄、28日には学生大会で決議、慶應義塾始まって以来と言われた全学ストライキに突入した。
このあたりの情報は三田図書館であたった「三田評論」に掲載された教授の「回想」に書かれていたことによっている。
 ストライキにあっては、明治大、早稲田大などの活動家から机の組み方まで「教えられ」、日吉、三田で「バリケード封鎖」が行われた。が、このバリケードは「シンボル」に過ぎず、毎日朝組んで夕方には全部撤去したそうだ。それでも、三田南門、幻の門(東門)、日吉並木道入り口を封鎖したので、授業に入る学生、教員は止められたようだ。
 自治会側要求は3項目。値上げ一時撤回・停止、大学と学生代表の協議機関を作る、値上げでなく、大学、学生一体の国庫助成の要求、で、交渉が続く。
 2月になり、4年生の卒業、2月初めの中等部の入試などの問題が討議されるようになる。特に、中等部入試は大学の問題ではなく、これを妨害したら刑事問題だ、と当局側は脅してきたという。
 
2月4日深夜、三田会OBを通じて「妥協条件」の提案があると聞き、闘争本部が塾長の入院している慶應病院に向かう。妥協条件は、①塾債は強制を撤回、任意とする。②値上げはそのままやる。③今後、塾長と学生代表の協議の場を設ける。との3点だった。
 闘争本部はこの条件案をたたき台としてそのまま直接学生大会に提案する。これが「今まで積み上げてきた『下からのイシュー』としての闘争を壊してしまった」と当時の闘争本部リーダーは述懐している。ともあれ、2月5日、三田南門前広場において、全塾学生大会が開催される。日吉、小金井からも加わり、投票数は12,000を超えたという。
 自治会執行部でも闘争本部でもなく、今泉塾長代理が「塾債義務化撤回」など塾長提案を読み上げ、日吉からは反対意見が出たが、1時間以上の議論の結果、この妥協案は可決され、この時点で闘争は終結、バリケードは掃除して撤去される。10日間ほどのストライキであった。
 
 これが、一般塾生が主体の「自治会的民主主義」による、文連も含めた全学総ぐるみの闘いの結末だった。
 
次に書く、68年、69年のセクト主体の闘争とはまったく様相が異なっていたようだ。

 68年、6月3日の朝日新聞は「米陸軍の資金による研究が日本の大学医学部でも行われており、慶應大医学部も含まれる」と報道した。ベトナム戦争中でもあり当然学生は反発、日吉では学生大会が開かれ、「米軍資金拒否宣言」を採択した。こうして「米軍資金導入」反対闘争が沸き起こり日吉は7月、「1日ストライキ」を行い、同月、全学バリケードストライキに入った。のち、複数回の理事会見、3度の永沢塾長会見が行われている。三田では数回「反対集会」が開かれている。

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(7月1日全塾総決起集会)
   (「フォト・アンガージュ」―全共闘運動私史― 撮影/川上照代 より転載)

当局は米軍資金を「もう受け取らない」ことを宣言する。これは「米資導入」があったことを認めたことだ。だが結成された「全学闘」は「過去10年間に及ぶ米軍資金導入が自己批判されていない」とこの宣言を認めず、ストライキ闘争を続行する。
この全学ストライキは11月まで5ヵ月の長期に及ぶが、その間、一回も学生大会は開かれていない。フロント、中核派、ブント・マル戦派、戦旗派の共闘による慶應「全学闘」が闘争主体で、自治会主体の闘争ではなかったようだ。(ただ、「共闘」とはいっても実際は各派ばらばらに行動、例えば中核派は10名ほどの部隊で医学部事務局を占拠、すぐ追い出されたりしている。ブント中心の他党派は塾監局を占拠、これも一般学生によってすぐ追い出されている。)右翼、一般学生は「スト反対」の潮流を形成、全学闘と対立した。右翼はさらに「話し合いを守る会」を結成し、ネーミングとは裏腹に全学闘の活動家へのテロを続けたそうだ。
 また、10.21国際反戦デーには、ブント系活動家は防衛庁に、中核派他は新宿に、それぞれの闘争に出撃している。
 
先の「守る会」が署名を集め、その要求により、11月2日、日吉で学生大会が開かれる。日吉自治会、理財学会執行部を握っていたフロントは、この大会に、全学闘に諮らず、独自に「スト解除」案を提出、可決されてしまう。直ちに一般学生によってバリケードは撤去され、4日には授業再開となる。
 当然ながら他セクトは離反、全学闘は解体。「米資」闘争は終焉を迎えた。フロントは失速、中核派が伸張することになったようだ。
 
一般学生と乖離した運動のそれが結末だった。だが、この「米資」の問題はとても深い問題だった。もともとこの米軍資金は「脳病を起こす寄生虫の研究」に出ている。これは細菌戦を見据えた「軍事研究」であり、戦前の731部隊(石井部隊)の人体実験を含めた研究からの歴史的継続性を持っていた。米資は新聞発表のとおり、「慶応大学を含む」大学に導入されていて、他には京大の名も出ていた。石井は京大出身であり、この人体実験のデータを戦後米軍に提供することによって追及を免れている。メディアも含め、これらをさらに解明、暴露すれば歴史的な闘争として記録され、なお勝利したと思われる。
 だが、当時を知るOBが語るには、一般学生は「米資導入は悪いことで反対」であっても、運動としては各党派が色々単独で動いているだけで、参加する余地がなかった、とのことであった。

 69年、大学立法反対闘争は5月末の日吉学生大会でストライキを可決して始まる。スト賛成約2,400、反対約1,400とかなりの差をつけての全学バリストだったが、その後、やはり学生大会は開かれていない。つまり、初めにストライキを学生大会で可決したにもかかわらず、以後「学生大会」はなかったのだ。
 
ちなみに「大学立法」とは、国公立大学では「紛争解決」のために1か月以内、学部、研究室を閉鎖することができる。文部大臣は紛争が9か月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校処置)ができる。閉校後3か月が経過しても収拾が困難な場合は廃校処置をとる。臨時大学問題審議会を設ける。休校中の職員給与は70%以内とする。というもので、もちろん、その年の1月18、19日の東大安田講堂攻防、入試中止を受けての、弾圧であった。
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(69年6・15統一集会に向けての慶大全共闘総決起集会 三田校舎)
(「フォト・アンガージュ」―全共闘運動私史― 撮影/川上照代 より転載)

スト期間中、8月には日吉、三田の研究室も占拠され、9月8日には三田の決起集会に機動隊が導入され、数十名が隣接するイタリア大使館に塀を越えて侵入、逃げようとしたが、機動隊は速攻で大使館敷地に入り、全員が逮捕されている。大学立法は8月17日に発効しているから、大学立法発効後はじめての機動隊導入であった。
 
その後、各党派活動家はそれぞれ、10、11月「決戦」に投入され、キャンパスを空けてしまう。その隙を突いて、10月13日、機動隊を待機させた中で、教職員がバリケード撤去をはじめ、11月には右翼が勝手に(学生大会でなく)スト解除を宣言、闘争は「自然消滅」している。党派活動家にとっては「政治闘争」が優先であり、学園闘争は放棄してしまったようだ。

 68年、69年の闘争は、65年のように自治会、多数の一般学生によって支えられることはなく、党派活動家の「突出した」闘争だったようだ。また、長期にわたって学生大会も開かず、一般学生の支持をとりつける努力もなされていない。東大闘争、日大闘争との大きな違いである。
 これは、68年、69年にあっては、先に述べた「全共闘運動」の皮相な解釈によって、「闘うものだけの結集」を、また、各セクトが前面に出てきて、「党派間共闘」を学園闘争の闘争主体にしたということで、一般学生との討論、その説得、闘争への動員などをはじめから問題にしていなかったように見える。一般学生は右翼体育会学生とともに闘争破壊に奔走している。当時の言葉で言えば「大衆運動」ではなかったようだ。「党派間共闘」内部で討議すれば、より「過激な」方針に方向が流れ、要求貫徹よりも「国家権力を引き出す(引き出してしまう)」方針が通っていくことは当時を知るものなら見当がつく。65年の「一般学生まで含めた」全学総ぐるみの闘争とは決定的に違う。
 どちらにしても「敗北」は敗北であることに変わりはない。だが、65年にあっては、評議員会で最終決定された内容を変更させ、「塾債の義務化撤回」と「事前協議制」というわずかながらでも「闘争の成果」を残している。(ちなみに塾債は1口10万円だったから、10万円の「値下げ」になる。結果、早稲田大など他の私大より慶應大は初年度納入金が安くなった。)対して、68年、69年の闘いは「敗北」という結果だけが残っている。大学立法粉砕、中教審答申粉砕などという方針が一大学のストライキによって勝利するはずもないが、「米資」闘争は、少なくとも「米資を今後導入しない」という宣言を当局から引き出しているのだから、そのあと「全学バリスト」だけでなく、長く続いていた医学部の根深い問題を暴露し、社会問題、社会運動としての「勝利」に結べたように思う。
僕は当事者でないので事情も知らず勝手なことを書いているだけかもしれないが。
 
これらの議論は、闘った活動家を批判しているのではもちろんない。誤解があるといけないので強調したいが、僕は68年、69年の学園闘争、また政治闘争を闘い抜いた活動家たちを深く尊敬している。半端な決意では闘争参加など出来ない時代だった。大衆運動などといっても、まずは一個人としての自身が権力と対峙する覚悟がなければ闘争参加、まして「大衆」を説得することなど出来ない。だが、彼ら活動家を「指導」し、方針を出した各党派の指導者は評価することが出来ない。世界観、社会観、情勢の分析、また、彼らの「革命論」、組織・運動論の根本が間違っていた、と今なら僕でも言える。
 先にも書いたが、学園闘争にあって、党派間共闘で闘えば、常に「戦闘的」、「非妥協的」な意見、方針が通る。「突出した」闘いは出来るが全学的な支持は得られない。結果、必ず「負ける」ことになるが、彼らはこれを「革命的敗北主義」と呼んで学園闘争の「正しい」指導としたのだった。
 最近読んだ「時をこえて語る―大学闘争50周年回想集」に掲載された当時の慶應活動家の座談会ではこんな発言もあった。「慶應の授業料値上げ反対闘争は65年だが、その翌年に早稲田でもあった。授業料値上げ反対闘争が全学的に。学費値上げ反対闘争は65慶應、66早稲田、67明治、68中央と続き、中央大学では勝利します。学費闘争は基本的には条件闘争だけれど、最終的に突っ張って行ったら大衆が離れちゃうのは当たり前だと思っている。そういう意味で、68年にブントの主流となっていた塩見たちブント関西派の革命的敗北主義は誤りだね。中大闘争の最終局面で闘争の阻害物となった。」僕には、実に、我が意を得たり、である。学費・学館闘争に「勝利」した中大生に対して、関西ブント(後の赤軍派)は、「70年までの無期限バリスト」を主張、ブント他グループ、一般学生の厳しい批判と失笑を浴びた。
 
 勝手ついでに、少しだけ、日大闘争、東大闘争についても触れたい。68年6月に結成された日大全共闘の要求は、経理全面公開(不正経理発覚によって始まった闘いだから当然だった)、理事総退陣、検閲の撤廃、集会の自由、不当処分撤回であった。周知のように、9.30団交により、古田総長はこれら全要求を認め、広い会場を埋め尽くした学生たちによって拍手喝采が起こり、場内には紙吹雪が舞った。当事者の語りでは、ここで日大全共闘は解散してよかった。だが、これも有名な話しだが、佐藤首相の指示によってこの決定は翌日反故にされてしまう。要求はすべて認められないということになったのだ。全共闘は当然ここからいわば再スタート、バリケードを強化、「国家権力との闘い」としてさらに長い闘争を組む。

 対照的だったのが東大闘争で、大河内に代わって登場した加藤代表代行は、東大全共闘の7項目要求を(文学部処分を除いて)「実質的に」すべて飲んだ。医学部処分撤回、機動隊導入についての謝罪、他、さらに「今まで大学の自治とは『教授会自治』としてきたが今後は教授会、学生、職員全員の自治とする」とまで宣言した。首相といえども、この加藤代表代行に物申すことなど出来なかった。学生多数の支持を得ていた全共闘だったが、どんな方針、支持があったのか、この加藤提案を「全共闘の7項目要求を飲む」と「言っていない」と拒否、民青のイニシアティブのもとに、1.10妥結を一般学生まで入れてなされてしまう。周知のとおり、以後、全共闘は「党派間共闘」により安田講堂攻防戦を闘い、入試中止に至る。
結果、国家権力が前面に登場し、「大学立法」まで成立させてしまう。これを「権力を引き出した」などと言っていたらそれは自己満足にすぎないだろう。


以上、72~73慶応大学学費闘争について書いてみた。今だから言える、ということも多いが、僕自身の考え方は基本的に変わっていない。
(文中の敬称は略した)

 僕の知らなかったことについては、72~73学費闘争のことは数名の同世代OB、友人から聞いた。また、当時の「慶應塾生新聞」に負っているところも大きい。
65年学費闘争、68、69年の米資、大学立法闘争については、椎野礼仁氏(1969年文学部中退)に、(また、椎野氏は現在日吉文学部の学生運動についての書籍を準備中の金井広秋氏に事実関係の確認をされている) そして、2018年発行の「時をこえて語る―大学闘争50周年回想集」(置文21)に多くを負っている。
 図書館で、当時の新聞をあたり、また三田の図書館にも行って調べたが、とにかく学園闘争、特に慶應義塾大学については資料と呼べるようなものはほとんど残されていない。
 
勝手なことを書いてしまったが、書き残しておくこと自体が大切、という思いだけで書いたものである。
(終)

【重要なお知らせ 「野次馬雑記」の今後の運用について】
ブログ「野次馬雑記」は、2024年6月1日より、若手の大学研究者との共同管理に移行します。
ブログ管理人もそろそろ後期高齢者の仲間入りをするということもありますが、若い世代の方にブログ記事を「記録」として引き継ぎ残していくことが重要ということから、今回の共同管理という判断に至りました。
ブログ「野次馬雑記」は、2007年にヤフー・ブログに開設し、その後ヤフー・ブログの廃止によりライブドア・ブログに引っ越しをしましたが、今までの17年間で総計45万を超えるアクセスをいただいています。
多くの方から、このブログの記事は貴重なものなので、持続的にネット上に残して欲しいという声をいただき、大変ありがたく思っております。
今回の若手研究者との共同管理への移行により、こうしたご要望に応えられるかと思います。
このブログでは、1970年前後の新聞記事や雑誌などを題材に「あの時代」の記憶を記録するとともに、「明大土曜会」の活動紹介の記事などを掲載してきました。その基本方針は今後も維持しますが、若手研究者の新たな視点での記事が加わることによって、多様性のある内容になると思います。
今後ともブログ「野次馬雑記」、よろしくお願いいたします。

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『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は5月17日(金)に更新予定です。

最近、手元にある本や雑誌の整理を始めた。「終活」というほどのことでもないが、そんな中で、当時の雑誌『現代の眼』や『構造』などに掲載された記事を改めて読む機会があった。
大変興味深い記事も多数あるので、「雑誌で読むあの時代」というシリーズでブログに掲載することにした。
第2回目は、『朝日ジャーナル』1969年9月14日号に掲載された「青学大に劫火(ごうか)よおこれ 教授会の少数意見」という記事である。1969年の青山学院大学闘争について、全共闘側からではなく、教員側から見た闘争の記事である。
※文中の写真は管理人が補足として付け加えている。なお、写真は当時の青学大全共闘Y氏からの提供による。

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【青学大に劫火よおこれ 教授会の少数意見 大賀 正喜】
モデル大学第 I 号
8月21日早朝、大平善梧学長は全共闘学生が全学無期限バリケード封鎖でたたかっている青山キャンパスにはじめて大学の手で機動隊を導入した。これと同時に某建設会社の作業員が入り、ロックアウト用の金属塀がまたたくまに大学のまわりに構築された。大学法施行の17日からわずか4日目、青山学院大学は全国にさきがけて「自主解決」のモデル大学=機動隊大学になったわけだ。
六学部のうち、学生との話合いを主張してきた四学部(文・二文・法・経)の学部長はただちに辞表を提出した。機動隊導入という重要事項に関して学部長は一切つんぼさじきに置かれていたのである。3日後の24日、連合教授会において大平学長はつぎのような発言をした。
「私はただ機密を守りたかっただけだ。機動隊導入を教授会にはかれば反対されるおそれがあった」、「今のような異常事態においては、非民主的なやり方もやむをえない。民主主義というのは議論に時間をかけるばかりで、重要な決定を先へ先へとのばすだけだ」、「マージャンでも、うしろに鏡をおいて相手に自分の手の内を見せるバカはいないだろう」、「学部長会ではある程度手の内を見せたはずだが、法学者はともかく文学者にはピンとこなかったようだ。文学者はなぐられないと気がつかないらしい」。このほか、大学立法に関して「悪法も法。どうしても反対したい教師は教師をやめて街頭で政治活動をやればよい」等々、教員を愚弄した大平語録にはこと欠かぬ。それはまさしくファシズムの論理にほかならない。学生の問いかけを正面から受けとめて、ともに解決の道を模索するか、それとも学生を力で排除するか、教育の死活にかかわるこの重大な選択において、大平学長は教授会の意思を一切無視したのである。
機動隊壻入の3日前、全共闘学生と会見した大平学長は、「9月に全学集会をひらいてほしい」との要求にたいし、「学部長会にはかる」と答えている。これを信じて学生は会見を定刻通りに切上げたのである。学部長会ではこの件は継続審議になっていた。機動隊導入は教授会ばかりでなく、学生諸君にたいしても重大な背信行為である。力によって教室・校舎を取戻せても、無残に打ちくだかれた信頼関係はもう取返せないだろう。あとに見えるのは教育と研究の荒廃のみである。
大学法が参議院本会議で強行採決された翌日、関東地区大学教員連絡会議の有志のひとりとして私は、首相官邸前で国家権力の味を肉体的に思い知った。代表を立てて首相との面会を申込んだ私たち素手の大学教員(年配の方もおられた)に完全武装の機動隊がいきなり襲いかかってきたのだ。終始説得をつづけられた東大の西村秀夫助教授は私の目の前で突倒された。腹をけられて人事不省におちいり病院に運ばれた教員もいる。私の同僚のひとりは向うズネをけられていまだに色が変っている。私も、のどわでせめられ、石垣におしつけられて右腕をすりむき、右手首と右足首を捻挫した。私はそのとき、学生諸君がどんな目にあっているか、私の肉体を通しておぼろげながらわかるような気がした。「機動隊と衝突することだけがたたかいではない」と安全な場所にいて小ざかしい口をきく人たちがいるが、正当な権利を主張する者に警察力のほうが好んで挑みかかってくるのだ。門の前に立ちどまっただけでかみついてくる権力の番犬ども。そのような機動隊によって「解放」された大学とはいったい何か?そのような大学で行われる正常化=授業再開とはいったい何か?正常な神経を持った教師ならば、こんな状況のもとでは、とうてい教壇に立つことはできないはずである。
7月19日、あらたに選出された大平善梧学長は、9月までにバリケード封鎖を排除することを「至上命令」と信じ、教授会・学部長会を無視して、理事長、院長・学長からなる「執行部三位一体」論をとなえ、ひたすらに物理的正常化の道を邁進してきたのであった。その大平学長が、8月1日には「大学立法に反対する全国大学学長の会」の声明―「『大学の運営に関する臨時措置法案』は大学が本来あるべきすがたに到達する道を阻むものである。よってわれわれはこの立法に強く反対し、立法阻止の行動をとる」―に署名した101人の大学学長のひとりであったことを付記しておこう。

1

「三公示体制」に抗して
さて、青山学院大学闘争の発端は「学長三公示」にさかのぼる。
1.本大学学生は全学連への加入は禁止する。
1.学内における政治的実践は許されない。学園は各種の政党からは中立でなければならない。
1.学生は授業に出席する学生を妨害したり、欠席を強要する如何なる手段もとってはならない。
1960年6月17日、安保闘争が最高潮に達した、まさにその瞬間にこの「学長三公示」は出されたのである。穏健をもって知られていた青学大の学生と教職員であったが、その一部は高まりゆく国会周辺のデモにやむにやまれず参加したという。「三公示」がこうした動きを弾圧する意図をもって出されたことは何人も否定できまい。
この「三公示」を出したのは当時の大木金次郎学長であるが、かれは今春、この三公示に関して何の反省の意思表示もないまま学長を辞任し、兼任していた学院長の地位に今日なおとどまり三位一体執行部の一翼を担った。
6年前、1963年に私が青学大に赴任してまず感じたことは、自治会さえ持たぬ学生のおとなしさであるが、そのわけはすぐにわかった。ある年の入学式の訓示の中で、大木学長はマルクス主義がいかにまちがったものであり、本学院のキリスト教主義といかに相いれないものであるかを声を大にして叫んだ。別の年の入学式ではまた「学生騒動が起ったら、半年ぐらいは学園を閉鎖することも辞さぬ」と恫喝した。まさに大学立法の先取りである。コレハタィへンナ学長ダワイと私は内心あきれかえった。「三公示体制」が真綿のようにじわじわと学園全体をしめつけていたのだ。
1966年に「三公示体制」を象徴する芝田事件が起った。法政大学助教授芝田進午氏の学生主催による講演会「大学の危機と授業料値上げ問題」が大木学長の裁断で不許可にされたが、学生側はこれを強行し、14人の学生が停学処分をうけたのである。
私はたいへんな大学だと思ったが、自分の研究・教育の自由さえ保障されるならば体制にさからわず、たいていのことはガマンしよう、民主化はなしくずしにやってゆけばよい、という心の構えをとっており、その日その日の安泰を願っていたことを白状しなければならない。
昨年春、三公示体制はそのような微温的・日和見的な私個人に対していきなり凶器をふるってきた。大木学長が学部長を通じて私に「君は共産党員として積極的な政治活動をやっているだろう。こちらには確たる証拠があるのだ」とたずねてきたのである。私はあいた口がふさがらなかった。路上でいきなりヤクザにインネンをつけられたのと同じである。私はそのような事実が全くないことを学部長を通じて学長に返答した。しかしこれはどう考えても不当な仕打ちであり、翌日、学部長に相談して直接学長に会おうとしたが、なだめられて思いとどまった。私は直接学長に抗議すべきであった。そして真相を学内に公表すべきであった。だが私にはそれをする勇気がなかった。
まだ終っていない青学大闘争は私にとっては何よりもまず人権回復の場であり、自己改革の場である。沈黙とエゴイズムによって「三公示体制」を教員の一人として裏から支えてきた自己を否定し、闘う自己をきたえあげる場である。

欺瞞的な教授会
教授会において私が罪ぶかい沈黙を破ったのは昨年の10月17日の公示によって三公示が廃止された前後である。すでに咋年6月ごろから三公示撤廃と自治会設立を目標の二本の柱に立てた学生の運動が高まってきていた。このような闘争の高まりを前にして、当局はついに10・17学長公示をもって三公示撤廃にふみきったのである。
以後のすべての学園内の混乱は、この10・17公示の欺瞞性から発していると私は考える。当局はあくまで学生対策として三公示をおろしたのである。教授会での議論をきいていると、関心はもっぱら、いかに学生を欺き、なだめるかに向けられていた。「ノンポリの一般学生でさえも三公示を高圧的であると感じはじめているようだから、このさい三公示はおろして一般学生が活動家学生の扇動にのらないようにしたほうが得策である」という発想である。そこには三公示を支えてきた教員としての反省はひとかけらもなかった。公の席で発言することが病的なほどきらいな私であったが、ここで黙っていてはならないと思い、ついに清水の舞台からとびおりるような気持で、教授会ではじめて発言したのである。「対策のみに明け暮れるのは教育者としてのあり方ではない。三公示の精神を是とするか非とするかの根本的な問題を議論すべきだ」というのが、それ以後たびたび教授会で発言するようになった私の論旨であった。
当然のこととして学生は10・17公示の欺瞞性をすぐに見破り、全学闘争委員会(全学闘、のちの全共闘)はこの公示の明確化を当局に迫ってきた。しかし当局は全学闘を学生の正式の代表として認めずこれを拒否しつづけ、11月26?27日全学闘による八号館(私の研究室を含む)の第一次バリケード封鎖が行われる。11月30日にようやく全学集会が行われたが、ここで大木学長は「青山学院のキリスト教建学精神に反対するイデオロギ-をもつようなマルキスト、トロツキスト学生は学園から出ていけ」とあられもない暴言をはき、集会はヤジと怒号のうちに幕を閉じた。かくて12月12日ふたたび全学闘は八号館をバリケード封鎖する。全学闘はやがて全学共闘会議(全共闘)と改称し、明けて1月5日付で六項目要求(注)を出してきた。

(注)1.昭和43年10月17日付公示(筆者注=三公示廃止の公示)の明確化と三公示体制の自己批判。2.昭和41年芝田事件における14名大量処分白紙撤回。3.自治権の確立。4.一切の表現の自由の獲得。5.昭和43年12月20日夜半の理工学部(筆者注=世田谷区廻沢キャンパス)への官憲機動隊導入(筆者注=全共鬪が攻めてくるとの虚報により理工学部長が機動隊に出動を要請した事実)の自己批判と、今後一切導入しないことの確約。6.今回の一切の事態に関して処分しない。以上六項目を大衆団交(全共闘主催)の場でもって確約し、学長、全理事は総退陣せよ。

いっぽう教授会は独自の立場から学部ごとに6~9人の学部代表委員を選び(私も12月末にこれに加わった)、これが学部代表委員連絡会議をつくり、年末年始の休みを返上して連日深更に及ぶまで会合をかさね問題の解決策を模索した。その結果、1・5全学教授会声明が出たのである。この声明は三公示が「学生をもっぱら強制的な管理・統制の対象とみなす考え方に立ち」、「学生の自治を圧迫し学問研究の自由を侵害する結果をもたらした」としてその誤りをみとめ、反省の意志を表明したものであったが、芝田事件の処分の白紙撤回を出ししぶり、バリケード封鎖を「是認できない」とするなど、私にとってははなはだ不満なものであった。私は、全共闘の要求の正しさと、これに対する当局の不誠実な態度からみて、バリケード封鎖は学生に本来与えられてしかるべき抵抗権の行使として全く正当であると考え、これを支持することを教授会でもはっきり言明していた。
1月初旬、大木学長は病気の理由で3月末までに学長を辞任することを理事会で承認され、田島文学部長・桜井経営学部長が学長代理をつとめることになった。ふたりの学長代理はただちに全共闘を相手に交渉するハラをかため、1月18日大衆団交が開かれ、大木学長の正式の委任状を桜井学長代理(田島学長代理は病気欠席)が白石全共闘議長と六項目にわたる確約書を取交わしたのである。その内容は、学長・全理事総退陣の件を除き、六項目要求をほぼ全面的に受入れるものであった。翌1月19日、ほぼ1カ月ぶりに全共闘は八号館のバリケード封鎖を自主的にといたのである。
学年末試験、入学試験は予定通り実施され、3月に学長はじめ学部長などが入れかわり、新しい執行部が生れた。村上新学長は全共闘との間に交わされた六項目確約書を尊重する路線をとり、大学立法についても全共闘主催の大衆団交に応じて、いちはやく反対声明を出した。いっぽう教授会でも大学立法反対実行委員を選出し、その企画によって他大学にさきがけて国会請願デモを行なった。また教授会レベルで大学問題研究委員会をつくり、大学改革に着手した。

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装われた民主主義
しかし、反動勢力のまき返しは1・18団交直後にはじまる。全共闘に敵対する一部右翼系学生(青学大では民青の勢力は弱い)は1・18団交が大多数の学生の意見を反映しておらず、六項目確約書もその成立過程において手続き上民主主義のルールを満たしていないという形式論で反撃してきた。この運動の特色は内容を論ずるのではなく、手続きと形式を死活の要とし、多数決原理を絶対視する誤った民主主義を標榜して全共闘を排除しようとするところにある。運動はやがてタカ派教授をバックにして民主化連合と名乗り、六項目確約書とは別に七項目確認書を出してきて、この2つのいずれを選ぶか全学投票にかけようとしたのである。そして豊富な資金源を予想させるような新聞やパンフレットを矢つぎばやに出して、その中で進歩派と目される教授たちにたいする卑劣きわまる個人中傷を公然と行いはじめた。私は、民主主義の装いをとったこのような動きにたいし、はげしい憤りを感じ、私が、一貫した論理をもってたたかってきた全共闘の運動を高く評価していることを明らかにするとともに、反動勢力の策略にのらないように訴える内容の声明文を私個人の署名でタテカンにして出した。
私はすでに教授会のワク内でのみ発言する限界を感じ、教員ひとりひとりが自分の責任において、自分のコトバであらゆる機会をつかんで発言するときがきたと考えたのである。見せかけの統一を求めるのはもうたくさんだ、学院全体が体質改善のためのルツボの中に投入れられなければならないと思ったのである。
いっぽう、学長をやめて学院長の職にとどまった大木氏は表面上「大学のことは学長にまかせてあるから干渉しない」というタテマエをとりながら、事実上、大学の自治にたいし、かずかずの侵害を行なった。その顕著なものは4月21日の文部次官通達(警察の判断を大学の判断に優先させる)について、翌22日の『朝日新聞』紙上に大木院長の賛成意見が公表されたことである。こうした動きについて文学部・法学部教授会はそれぞれ抗議文・要望書を院長あてに出した。それではなまぬるいと感じた私は、私自身が行なった調査結果をふまえて、同志のふたりの教授とともにつぎのような闘争宣言をタテカンにして出したのであ
る。
<教授闘争宣言>
三公示によって学生のみならず教員をも管理統制の対象として思想調査を行ない、あらゆるものに対して批判的であるべき知的営為=学問を圧殺せんとしてきた大木院長は何ら自己批判することなく、いまだに院長の職に居すわっている。しかも表面上は「大学のことは大学にまかせる」といいながら、合法性を楯にとって私立大学連盟においては、いぜんとして青山学院大学の代表としての地位を保持しつつ同連盟の常務理事の地位にとどまっている。(中略)
大木院長は、法人の代表者としての地位を利用して、青山学院大学にいまだに君臨していることをここではっきり確認しなければならない。
このように見てくるとき、去る4月22日の朝日新聞紙上で院長が、大学の事柄に属する文部次官通達にたいし双手をあげて賛成の意を表したことは、むしろ自然の成りゆきといえよう。しかもその意志表明の内容は、警察の判断を大学の判断に優先させるというもので、ひたすら反体制運動の圧殺をはかる性質のものである。(中略)
大学内において権力の弾圧政策を代行せんとする、このような院長を弾劾し追及することなくして、三公示廃止は実体化されないのであり、大学立法反対は空ろなかけ声におわるであろう。
また、われわれ教員のひとりひとりが三公示に対して積極的反抗を示さなかったことによりこれを支えてきたまさに加害者であったこと、また三公示廃止後も大木氏の院長への居すわりに対し、一貫した論理による追及を怠ってきたことを真に自己批判し、学内に陰に陽にはびこる反動勢力に対し、断固たる闘争を遂行しないかぎり、一切の大学革新の企ては始まらないことを確認しなければならない。

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恐るべき管理者感覚
大学立法に反対して、また「大木派」追放をとなえて、全共闘は6月19日から今回の機動隊導入にいたるまで、無期限バリケード封鎖をもって闘ってきた。この間多くの自主講座、ティーチインがひらかれ、私たち一部の教員は積極的にこれに参加し、ともに大学を語り、学問のあり方を考えてきた。ところが6月25日、体育系の一部の学生が中心になって記念館で「バリ・ストに反対する学生集会」を開き、これに対抗して記念館わきの広場で全共闘が集会を開いた。
事前に交渉委員会(教員)のあっせんで双方とも自重することを確認しあっていたことでもあり、だれが見ても双方の衝突が目前に迫っている状況ではなかったにもかかわらず、突如として機動隊が乱入し、千人をこえる一般学生と教職員の見ている前で全共闘学生が暴行を受け、61人の学生が検挙された。学校当局の要請なく一方的に行われたこの警察力の暴挙に、一般学生の怒りは爆発し、「カエレ、カエレ」のシュプレヒコールと投石をもって機動隊を門外に押返した。私も座視するにたえず警察力に物理的にぶつかってはみたものの、簡単にはねとばされ、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とおどされた。あのとき教員は成否をかえりみず、スクラムを組んで「公務執行妨害」を行うべきだったと思う。これはまさに文部次官通達による警察力介入方式の先例をなすものであり、通達に賛成した学院長のいる大学が、まずその実験対象に選ばれたと見るのは果してうがち過ぎであろうか?
しかし、この事件を契機にして教員の一部に、警察の暴力を責めるよりも、むしろ「あれはたしかに凶器準備集合罪を構成する。全共闘に対して執行部はもっと毅然たる態度をとれ」と、見当はずれの法万能主義的・管理者的発想に貫かれた声がおこり、これがもとで執行部の中が割れ、7月上旬ついに村上執行部は総退陣に追いこまれた。そして今回の機動隊導入を行なった大平善梧学長が選出されたのである。
「学生ストは営業妨害であるから不法である」という恐るべき感覚の持主である大平学長のもとで、1・5教授会声明の延長線上にある六項目確約書は一片の反古にされようとしており、「三公示体制」も顔負けの超反動体制が構築されつつある。たたかいはますます困難になってきた。それは敵が死ぬか味方が死ぬかの妥協を許さぬたたかいであり、したがって絶対に負けてはならないたたかいである。「力及ばずに倒れることを辞さないが」とは言っておられぬたたかいである。
一切の古く悪しきものを劫火の中に焼きつくさずにはおかないたたかいである。
(おおが まさよし・青山学院大助教授)

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【4・28反戦シンポジウム 直ちに戦争をやめろ! のお知らせ】

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日時:4月28日(日)13時10分~16時50分
会場::銀座ブロッサム・中央会館集会室「マーガレット」
東京メトロ有楽町線新富町駅徒歩1分 東京メトロ日比谷線・都営地下鉄浅草線柬銀座駅徒歩6分
入場料:無料(皆さまのカンパによって運営されます)
主催:反戦シンポジウム実行委員会【mail] kim.kwangji.azabugakuen@gmail.com
●シンポジウム
高橋順一(早稲田大学名誉教授)
鵜飼哲(一橋大学名誉教授)
三宅千晶(弁護士)
ファビアン・カルパントラ(横浜国立大学准教授)
キ厶・ソン八(韓国徴兵拒否者らの亡命立案者)
●ディスカツション
白坂リサ(慶應義塾大学)
田中駿介(東京大学大学院)
山本大貴(慶應義塾大学)
三上治(思想家)
前田和男(ノンフィクション作家)
二木啓孝(ジャーナリスト)ほか 順不同

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき重版決定!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)

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「模索舎」のリンクはこちらです。
  
なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は4月26日(金)に更新予定です。

最近、手元にある本や雑誌の整理を始めた。「終活」というほどのことでもないが、そんな中で、当時の雑誌『現代の眼』や『構造』などに掲載された記事を改めて読む機会があった。
大変興味深い記事も多数あるので、「雑誌で読むあの時代」というシリーズでブログに掲載することにした。
第1回目は、前々回で代島監督が語る新作映画『ゲバルトの杜』について掲載したということもあり、早稲田大学での革マル派による川口大三郎君虐殺事件を受けて、雑誌『現代の眼』1973年3月号に掲載された早大文学部有志による「早大闘の新しい地平 ―全共闘運動の彼方へー」を転載する。
※文中の(注)と写真は管理人が補足として付け加えている。

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早大闘の新しい地平 ―全共闘運動の彼方へー
早大 文学部有志
何が問われているのか
われわれの生きた <近い過去> について、様々な事々が語られ、言葉の累積の上に"語られた事々“としての早大闘争が、今われわれの前にある。この早大闘争の前で(あるいは中で?)われわれがどのように在ったかについて語るために、そしてわれわれの未知の<歴史> について語るために、何かが欠けている。それは、何よりもわれわれが今、11・8(注:川口君が虐殺された日)という一日を生きていることによっている。また、<歴史> の自己認織にかかわる命題にわれわれの闘いがどれだけ答え得るのか、闘争主体としてのわれわれの全体性は如何にして展開され実現されるのか?何事かを語る前に克服すべき課題が山積しているからばかりでなく、われわれ自身の存在がただそれだけで川口大三郎の死を準備して来たという事実への、自己責任の追及の過程にあることが、われわれの現在の"生”の意味を規定している重要なモメントとして 切実に認織されざるを得ないからでもある。現在の"生“を総体として語ることの困難さは、いつ如何なる時においても変わらない。川口は、自らの"死"を睹して彼の”生"を語った。われわれは求められているのだ、彼の"死“を生き抜くことを!だから、われわれが真に語り得るとすれば、それは闘いを通じて、闘いの中からでしかないといぅ搆造は、川口の"死"を睹した問いかけそのものの中にある。彼の問いかけが、われわれにとって共有のものとして把握されるとき、われわれは自らの闘いと、自らへの闘いとを語るための視点を獲得するだろう。しかし、われわれは知っている、川口は依然としてわれわれの前をひとりひた走っているのだ、ということを。われわれの出発は、常にそこからなのである。

革マル=Ⅰ文自治会執行部による川口虐殺は、早大におけるかつてない大衆的決起をもたらした。この不定形のエネルギーの噴出の中で、誰もが自問した。“この広大なエネルギー、「怒り」は一体何なのか?"
確かに革マルのテロ・リンチ支配は、日常的な経験としてわれわれにあった。言葉として <早大管理抑圧体制>=当局・自治会による二重支配体制は、自明なものとしてあった。だが、それでもなお、この広汎な決起は、われわれの経験を越えて文字どおり圧倒的なものであった。当初聞かれた「またか」、「どうせ民青に利用されるだけだ」といった声、自己の体験の範囲を一歩も出ない認識は、大衆的な立ち上がりそのものの具体性によって覆されて行った。混沌とした流動が、「革マル糾弾」を軸に渦巻いていた。その中で、「この広汎な立ち上がりの根拠は何なのか?」という問いがわれわれの間にまさに必然的に立ち現われて来たのである。
われわれは、川口の“死”の向うにもうひとつの"死“、梁政明の”死“が再び重くわれわれにつきつけられているのを知らされた。革マル、民青双方によるあまりにも政治主義的な歪曲によっておとしめられて来た日本名・山村政明の"死"が、その真の意味をわれわれに直接問いかけて来たのである。(注:早大Ⅱ文の学生だった1970年10月6日、革マルの学園暴力支配に抗議して焼身自殺。遺稿集『いのち燃えつきるとも』)なぜ、あの時、われわれは立ち上がることができなかったのか?それは、「何故、これだけの立ち上がりが川口の”死“によって起こったのか?」という自問と表裏一体を成している。そしてまた、川口の残した屈折した軌跡が、その最後にたどりついた <差別> 問題へと、梁政明の投げかけた問いに通底していることを、われわれは見出さねばならない。川口の問題意識の最も尖鋭な部分としてあったであろう、「狭山差別裁判」と、革マルによる「川口=中核派スパイ断罪」との同質性の認織は、革マルに対する一切の妥協を拒否するわれわれの姿勢の根拠である。とはいえ、われわれは今ここですべての解答を提示することは出来ない。われわれは、われわれ自身の軌跡を省みる中から、幾度も11・8へと立ち帰りつつ、川口の ”死“を賭した問いかけに答えるために闘い続けるだろう、と言う以外にはないように思われる。

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早大全共闘の破産を超えて
文学部においては、1月24日からストに突入した。23日の学生大会において、圧倒的多数のもとで可決された議案書の最初の章は次のようにのべている。

「早大解放・自治会再建の斗いの本質とは何か?
革マルによる川口大三郎『なぶり殺し』は、当初においては予想もつかなかった巨大な激動を招来せしめている。我々はこの大衆的運動の爆発の必然性をはっきりと見定めておく必要がある。
立上った学友は、川口君虐殺をまのあたりにして、それをいわゆる <無関係な死>としてではなく自らもわが身を置くワセダの日常性の中に深く根をおろした本質に起因するものであることを把えたが故にあのような大衆的決起による大結集が実現したのである。
川口君虐殺をひきおこした <ワセダの日常>とは何か!我々の怒りと悲しみがこの斗いの過程で見出した<敵>とは何か!
それは荒廃した<自由の学府>幻想のもとでの抑圧の日常性であり、この抑圧の構造を我々は<当局ー自治会革マル>ー<学生>の関係においてまず一点見ておかねばならぬ。
学生の自立的、自主的諸活動を産学協同路線をはじめとする管理政策下につなぎとめておくことを至上と心得る学校当局。そして自治会の私物化と、それを基盤とした組織的延命という党派的利益と引き換えに、否むしろ本質的に大衆巡動とはいかなる意味においても無縁であるという運動構造の故に、立ち上ろうとする学生内部からの分断抑圧者の役目を果たす革マル。この二人三脚的連繁を支配構造の内実とし、それを存在条件として川口に孤立した斗いを強いてしまった我々の側の責任をはっきりと見つめなくてはならない。この抑圧構造こそが他でもない、川口君虐殺をひきおこし抑圧の主犯として顕現した木質であり、我々の斗いがその一歩一歩の過程で見定めていった本質であった。
我々の斗いは、再び自治圧殺を許さぬ斗いとして革マル放逐、当局糾弾、自治会再建―早大管理支配体制否定という目的意識性を持っていた。それ故、我々の運動を『勝共』(注:原理研・国際勝共連合)と軌を一にした単なる『反暴力』運動として矮小化することは我々は許すことはできない。そもそもセクト主義の私的暴力性が、川口君虐殺に明らかなように学生全体に敵対的、犯罪的なものであるのに対し、我々の側の抵抗権をそれと同列のものと見ることは、管理支配体制ー <当局=革マル> に反撃せんとする我々の斗いを否定するものであるが故に、きわめて危険なものであると言わねばならない。早大管理支配体制のもと、川口君虐殺はけだし必然のものであった。この暴圧を断ち切るものは我々の斗いをおいて他にない。
虐殺によって引き起こされた状況を、単に自派の危機としてしか見ることができず、自治会私物化=延命のための自己防衛に狂奔する革マル。また管理支配体制の動揺を、自治会処分、機動隊導人(1・7告示)etc、で歯止めせんとすることに汲々とする当局。彼らはこの「事件」を姑息に乗り切ることをしか考えることができない。唯一我々だけが革マルの暴力装置、当局の『仮構の秩序』政策の敵対に抗し、11・8川口君虐殺事件の木質的解決―早大管理支配体制の打破の斗いを担い得るし、また担っているのである。
彼ら革マルが、我々の斗いに対し「内部に巣食う民青ー悪質ノンセクト」といかに強弁、罵倒しようとも、彼ら革マルが早大の圧倒的学生全体に敵対している事実は否めないのだ。我々の怒りを <物知りくらベ> に解消しようとしても駄目だ。
さらに、「 <べトナム反戦> を語ることが自治会活動の展望だ。そして、それを語っているのは革マルだけだ」という彼らの言辞のもつ意味はさることながら、そもそも展望を語る主体がどこなのかを革マルー11月会は知らねばならない。ましてや、今ベトナム反戦を語らぬから現在の大衆運勤の昂揚を自治会再建運動とは認めず、粉砕の対象とするとあっては論外というしかないであろう。
そもそも早大管理支配体制の一翼として、我々の自治会再建の斗いの粉砕の対象でしかない革マルと、その一文における今日的姿の「11月会」の御都合主義的スローガンなど我々の自沿会には無縁である。
わが自治会の第一の方向性は以下のものだ。すなわち第二学館閉鎖、第一学館=文連・早稲田祭実行委員会・早大新聞会の私物化、二重自治会策動、自治会費凍結、10・27、11・17告示etcの自治圧殺の一切の否定物を否定し、ワセダ解放の雄図を実現すべく、革マルの敵対から一切の論議=自主的、自立的活動を保障しぬき、再建された自治会を断固防衛することである。

われわれの闘争は、まさに爆発的な起ち上りをもって開始された。この起ち上りを支えていたのは、何らかの思想や理論ではなく、一歩たりとも妥協することのできない、<死>を前にしたある種の厳粛さであり、<造反有理> とも言い換え得る前提ならぬ前提の共有であった。この<正義>の闘いの戦線は、実に様々な傾向をはらみつつも、未分化なままで“反革マル"統一戦線を形成していたのであって、逆にいえば、この不徹底さこそ圧倒的起ち上りを持続させる条件となっていたのである。しかしながら、各学部において学生大会がかちとられ、全学的な支援のもとに革マル執行部をリコールし、臨時執行部体制を樹立するとともに、広汎な起ち上り故のわれわれの内的な弱さが顕在化し、”反革マル"といぅ形をとって何と闘っているのか、これだけの力量がありながら何故これまで起ち上れなかったのか、という根底的な問題を回避しては、この大多数の早大生の<魂>に触れ得た闘争を持続させ、発展させることはできない。
われわれにとって何が勝利なのか?革マルとの闘いが単に彼らを早稲田から放逐するということに限定されるならば、それは明らかに革マルによって設定された戦線における闘いである。われわれは、彼らの動員力、組織力に対して"敗れる"こともありうる。そのとき、次の闘いの条件を作りうる仕方で後退しうるのか、ということが最も重要な問題となる。すなわち、条件に応じて、革マルが早稲田に介入できない状況、革マルとわれわれの間に一定の緊張関係が持続する情況、革マルが再び早稲田を制圧する情況が想定され、それらが闕争の展開にとって決定的な意味をもつとしても、にもかかわらず、われわれの闘争の勝利?敗北が決定される<環> は、やはりそこにはないということを確認する必要があるであろう。
革マル派のわれわれの運動に対する対応は、全国動員までしておきながら徹底的にツブシに来るのでもなく、いさぎよく退却するのでもなく、極めてあいまいなものであった。これは革マル内部の動揺―とりわけ下部活勤家の動揺によるところが大きいと思われる。革マルは早稲田においては、ここ数年来他党派経験がないため、彼らの組織としての結束も<他者>の契機を欠いた、すなわち同質性を欠いた同一性としての結束であり、こうして下からの広汎な起ち上りという<異質なもの>に出会ったとき、その内的な脆弱性が暴露されるのである。われわれは、革マル内部の矛盾―上部と下部、幹部間、各大学間、労―学間の矛盾を激化させる方向で闘争を展開させる必要があるとともに、組織としての革マルに対抗すべく、われわれ自身の分断され去勢化された意識、日常性を解体し、全く新たな人間関係―交通形態、生活様式を創出し、能動的に闘争を提起し、敵を引きずりこむことができるような戦線を構築しなければならない。
闘争は、戦線と戦練の闘いである。一つの戦線―たとえば武装闘争における強弱の問題ではなく、どちらの設定した戦線が優位を占めるかという問題であり、敵の勝利が昧方の敗北にはならないような重層的な戦線を構築し得るか、という問題なのである。
革マル内部の動揺は、われわれの運動が明確な方針、路線、組織的な保証をもっていないにもかかわらず、われわれ一人一人が誰にも依存することなく、自分の問題を自分で解決すべく立ち上ったという質の問題であって、決して"四千名のデモ"という量の問?だけではない。革マルは、“四千名のデモ"が民青の外人部隊だというレッテルを貼る以外に、これに敵対する"正当な”理由を見出し得ないし、また、動揺しているあわれな下部活動家を闘争圧殺の隊列に加えることができなかったのである。
もちろん、われわれの運動も、対革マル、対当局、対民青の曲折した闘争を経る過程で、様々な限界に直面せざるを得なかった。その限界を突破するためには、以下の点に留意しなければならないであろぅ。
受動的な闘争から能動的な闘争への転化。われわれ自身の日常性との闘争、自治会 <建設> の闘争への転化のための、明確な戦略、計画性を獲得すること。
闘争の自然発生性をのりこえるために、単に目的意識性を対置するのではなく、広汎な起ち上りの内部における問題意織、諸矛盾、諸傾向を緻密に分析し、その分化の形態を明確に把握すること。単なる革マル糾弾の闘いを次の段階へ飛躍させるために、われわれの敵は何なのか、敵はどのような戦略をもってわれわれに攻撃を行ってくるのかを明確に把握すること、等々。
これらの諸条件―主体的諸条件の成熟なしには、やがて起るであろう革マルとの直接対決において、われわれの軍事が高度な政治的質をもつことは不可能であろう。
われわれのこれまでの当局、革マルとの対応が戦術レベルに限定されてきたということは、これだけの闘争エネルギーがあるという積極面と、にもかかわらずこれまでに広汎に起ち上れず、“反革マル"という形でしか闘争を開始し得なかったという消極面との矛盾の外化に他ならない。
現在の“反革マル”統一戦線内部の諸契機は、概略的には次のように把握することができる。
① 殺人者だから→刑法上の問題→管理強化。
② 自治会執行部による自治会員の虐殺=学園内殺人→リコール→われわれの“人殺しをしない自治会”再建。
③ 革マル派は"革マル派“だからいけない→個別革マル派の否定(組織、イデオロギー、"存在“の否定)
④ 党派闘争の"ゆきすぎ"→殺さない程度にやればよい。
⑤ 党派闘争そのものへの批判―党派の“党派"たるゆえんは何か→新左翼並びに既成左翼も含む左翼総体の問題。

革マル糾弾として始まったわれわれの闘いは、まず、革マル執行部リコールを決定する学生大会開催へと有形化された。われわれ内部の矛盾は当初未分化の一体をなしていたが、当局の弾圧―処分、告示、機動隊導入、ロックアウトーと、革マルの学内実力阻止行動―集会開催、個人的恫喝、全国集会へむけた全国動員―とに対決していく過程で、その矛盾が外化していった。
それは主として、革マル執行部をリコールした後で、早急に自治員選挙をやり、新執行部を樹立しようとする路線と、当局団交などの闘争を貫徹していく中でわれわれの問題―川口君虐殺の提起した問題を深化させ、自治とは何かを追求し、新規約制定の後にはじめて新執行部選挙が可能であるとする路練の対立であった。これは、自治会再建を規約レベル、制度的=形式的保証レベルで問題にし得る情況、あるいはそういう形でしか問題にし得ない情況を克服していくのか、否か、われわれの内部矛盾を展開させるのか、おしとどめるのか、という意味で、まさに路線上の対立としてあった。われわれが確立した臨時執行部?協議会態勢は、決して強力なものではなかったが、それは、われわれ自身の弱さ、主体的矛盾の未展開の外化なのであって、それを「当局に認めてもらう云々・・・」の名目のもとに、当局との「交渉」レベルで自治再建を考えるなら、それは闘争ー闘争の主体的条件の確立ーの収拾以外の何ものでもないのである。
民青諸君は、川口君虐殺をはじめ、革マルー中核の「トロツキスト同士の殺し合い」と規定して、一挙に早大民主化=民青化を実現しようとしたが、闘争自身の展開ー広汎な起ち上がりが、そうした問題のたて方をのりこえて、民青の依拠する基盤がなくなるとみるや、急遽方向転換し、新自冶会建設へ向けられた闘争エネルギーを、根本的な問題を一切回避して、自治委員選挙→新執行部樹立へ集約しようとした。確かに、この戦術が表面的な成功をおさめた学部もある。しかし、逆に、民青の最大拠点であった法学部において、かつてない反執行部闘争が展開されており、川口君虐殺の提起した課題が単なる革マル批判でないことを物語っている。
こうした情況において、冬休みあけの 1・8集会における“黒へル部隊"の登場は、闘争の新しい段階をきり開くものであった。すなわち、全国動員によって敵対してくる革マルに対し、はじめて組織的・計画的に対峙し得たのであった。単なる"反暴力"をこえたこの新しい質は、自治委員選挙実施を決定した文学部において、選挙場確保のために革マルと直接衝突し、ノンへルのスクラムが革マルのヘルメットのピケ隊を突破するという、まさに画期的な闘争へと発展していくことになる。
この二重性―自治委員選挙でさえ直接対決を内包せざるを得ない・直接対決もあくまで自治会再建運動レベルにおいてであるという二重性こそ、闘争のへゲモニーがいわゆる活動家集団にも、また民青、秩序派にも掌握されず、いまだに未分化な統一戦線を形成している根拠となっている。中核派が早大キャンパスに登場しても、早大闘争総体への影響力はほとんどなく、三年前、早大全共闘の運動が"党派関争"ヘと矮小化されていった経験を知っている者にとってはむしろ批判的にうけとめられ、他方、文学部の自治委員選挙においてはその道のプロであるはずの民青諸君が多数落選するという奇妙な事態が生じているのである。革マルも、運動のへゲモニーがどこにあるのか理解しがたいとみえ、時に応じて臨執は民青だといってみたり、反代々木セクトの生き残りといってみたり、その動揺をかくすことができないかに見える。
いわゆる“先進的"な部分が結集して”左派"を形成することは容易なことである。しかし、現在の闘争に求められているのは、“左派"でなく "左”である。この未分化な、民青とも明確に分化できずにいて、しかも、活動家を内包しているこの統一戦線において、何らかの主観的な基準で左右を判定してしまうのでなく、”左"の「機能」を持続的に果たしていける新しいスタィルの“左"が求められているのである。これは、やりたい奴だけがやり、何らかの意志一致をあらかじめしておいてからやるという"新左翼"的スタィルが身についている人間にとっては、非常に困難な試練の場である。どんなに、革命的言辞をはこうと、革マルとカッコよくぶつかろうと、自治会のあり方や、試験への対応を問題にしているクラス討論の積極性と結合することなくしては、"左"としての機能を果たし得ない。統一戦線とは、矛盾の展開の場であって自己(自派)に他者(他派)を同化させることでもなく自己(自派)が他春(他派)に同化することでもなく徹底した「異化」を通じて、相互の質を転換していく、相互=自己教育の場なのである。革マルのいうような”戦闘的"自治会の建設も、民青のいうような、"民主的"自治会の建設もこの教育の弁証法を欠落させるという意味で(あるべき大衆=あるがままの大衆の固定化に依拠するという意味で )、その破産が宣告せられたといえよう。もはや大衆の"総意"を"反映"する自治会の幻想は打ち砕かれた。総意とは各個人の多様性そのものであり、反映ではなく、自分自身で自分の運動を創出するのだ、という"常職"が取り戻されつつある。
この、他の何ものにも依拠せず、自分で起ち上るという質こそ、あの“全共闘"運動の根源性だったのではないだろうか。

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セクト政治は終焉した
全共闘運動とは何であったのか?
これまで幾度となく問われてきたこの問いを問い返すことなくして、われわれの問題を明確にすることはできない。
全共闘運動の提起した、日常生活の全領域における総反乱は、新しい型の搾取=抑圧に対抗する、新しい型の闘争スタィルであった。
ブルジョアジーは、資本として機能しえない資本=過剰資本を管理通貨制度のもとに強引に機能させることによって生活の原則を解体させ、もはや解決しがたい矛盾を克服する路線=戦略を持てずに全く行きあたりばったりの盲目的な対応しかできなくなっている。したがって階級的矛盾は日常生活の全領域において多面的に外化している。事実、全共闘運動によって提起された根源的な、しかし抽象的であった諸課題は、日常生活の様々なレベルにおいて入管闘争、狭山差別裁判闘争、公害問題をめぐる“科学"、"官僚"、"工業生産”に対する闘争等々として具体的に展開されてきている。これに対してそれを一つ政治課題に一面化したり、一つの戦線を設定するといった古い指導は、もはや指導として機能し得なくなったのである。解体された日常生活に対して、また解体した指導に対する反発はそれにふさわしい型をもつことができず、無形な激しい反発となって外化した。したがって闘争課題も、大学解体、ブルジョア的“教育"及び"科学”の解体、差別の解体等々の <最大限綱傾> としてしか提起しえなかったのであり、組織も組織ならぬ組織としての"全共闘“という形をとったのである。そのこと故にアナーキーだというならば逆にその根拠たる組織論やマルクス主義の「常識」こそ、まさに問題にされていたのではなかったろうか?全共闘運動は既成左翼、とくに日共に対してはその代行主義、組織万能主義を根底的に批判し、それらが抑圧構造の一環をなしていることを暴露するとともに理論的な正当性が先進的革命的であるような時代は終焉したことを宣告したのであった。しかしながら組織ならぬ組織としての”全共闘"は、能動的に解体される以前に、闘争の全国化による必然的帰結としての"全国全共闘"へ再編され、上から解体されるとともに全共闘のもっていた質は、武装闘争へと一面化され、戦線は"街頭"に設定され、“11月決戦"、"安保決戦"を経るにしたがって、先進性は<唯武器主義>へと転倒され、ついに、あの悲劇的(喜劇的)な連合赤軍車件を招来したのであった。
この過程において、諸セクト間の対立は激化し、その <党派性> は権力と大衆の間の階級的矛盾とは無関係に闘われる"内ゲバ"、"理論闘争"として外化し、それは党派性というよりは宗派性、論争といぅよりは教義問答の観を呈するものであった。
革マル派は、民青とともに全共闘運動によって全的に否定されたはずのものであるが、それにもかかわらず組織として残存し得ているのは、階級闘争においてではなく、宗教戦争においてこそ革マルの革マルたる所以があるからに他ならない。したがって、他党(宗)派が没落すれば革マルも没落する。川口君の虐殺は、決して革マル派だけの資任ではない。大衆集会の前にスパイ警戒のパトロールをせねばならぬほど矮小なものと化した宗教戦争―それこそ、川口君虐殺を生み出した根拠なのである。もちろん、われわれは革マルを擁護する一片の思想も持ち合せていない。しかし、単に革マル派に対する糾弾におわるならば、この危機的情況を打開することは決してできないということを銘記しなければならない。

問われている根源的な課題
今や、何が先進的であり、革命的であるのか?それはスローガンの問題でもなく、明確なプログラムをもったものが純粋に分離されて組織されることでもなく、機動隊と徹底抗戦することでもない。真の先進性、革命性とは、大衆をいかに起ち上がらせ、その内在するエネルギーにふさわしい形態を与えうるかということにかかっているのである。現在、具体的に展開されている個別闘争を一つの戦線に一面化することなく、また個別課題スローガンを外的に結合しただけの統一戦線でもなく、いかにして戦略的課題にまで高めていくか、そのための組織、指導がいかなるものかが、今問われているのである。
これまでの指導は、早大において内在していたエネルギーにふさわしい形態を与えることができなかったし、いまだにこのエネルギーを自派に吸収しようとすることによってしかその「指導性」を示しえないでいる。早大生が「一般学生」として自己を規定しているのも、かつてのような闘いを拒否するという否定的な自己限定ではなく、そのようなもはや指導たりえない指導を拒否したうえでの闘う主体としての自己限定にほかならない。この広汎な起ち上りが自然発生的であり、組織論や運動論や自治会論をもたないとしても、現実にわれわれは自治会再建にむけての組織化をすすめているのであって、今必要とされているのは、単に自治会解体を叫んだり、学園闘争を街頭闘争へと短絡させるのでもなく「自治とは何か」という学園闘争に初めて提起されたこの根源的な課題をあくまで問い続けることである。また、あらかじめ設定されたプログラムのないことをもって「限界」があるとか「展望」がないとか批判するのではなく、いかにしてこの運動を持続させ、闘争の展開にふさわしい形態を与えうるかという建設的な思想が必要とされているのである。そしてこれは個別早大闘争にとどまることなく、全国学園闘争、ひいては階級闘争総体において問われている課題なのであるといえよう。

学生戦線の新しい段階を
われわれの運動は、全共闘運動が到達した高みから出発することはできなかった。むしろ、その限界から出発したのである。そして、その限界を突破する萌芽もいくつか現象してきている。
たとえば、自治会を「ポツダム自治会解体」のレベルでとらえるのではなく、自立(律)的運動体の結合として把えようとする動きがでてきている。すなわち、自治をクラスのレベルでクラス自治として把握したり、あるいは、クラスを行動委員会として、惰性的な人問関係から、能動的人間関係へと再編するという動きである。そのとき、自冶会は、それらの小自治体の運動を制約するものとしてではなく、それらの多様性・独自性を保証する組織性として現われてくるのである。あるクラスのビラは次のように主張している。

「これまでの革マル自治会支配体制下において、我々自身の手による独自な運動、文化運動は全て圧殺されてきた。これを根源的に打ち破っていくためには各個人が運動の主体となること以外にはない。即ち、いかに"民主的“であろうと個人の運動はいかなる者によっても代行されるべきものではない。我々はこうした自治会再建運動の第一歩を、まずは自分で自分の運動を創り出すこと、"革マルのやらなかった全てのことをやる"、"やりたいことをやる"ことから踏み出さねばならない。独自な課題をもった実行委、行動委がすでに誕生しているし、今後も無数に誕生する可能性を現在の情況は充分にもっていると思う。こうした観点から、我々は各運動体の自主的、自立的運動を促進し、精神的、経済的、空間的な保証を与える機関としての自治会建設を考えるものである。」

また、この間の文学部における運動の中から、こうした質を保証するための"行動原則"がかちとられた。
このような自治会の組織を、制度的・形式的なものとして把握するのでなく、自立した組織の連合体として、また、自治会規約も運動の中から生まれる自己規律・内部規律として、すなわち、桎梏と化せばいつでも解体しうる組織規律として再編していく動きは、全共闘運動の限界を"自治"のレベルでのりこえていく萌芽として指摘しうると思う。
さらに、いまだ全く不十分にしか試みられてはいないとはいえ、経済戦線として、また生活様式の変革という意味では文化戦線としての「土方組合」の組織が提起されている。これは、学園闘争の後方基地として、また学園闘争が学園闘争にとどまる限界を突破するものとして無限の可能性を孕んでいよう。すでに、教育の、学問の虚構性は、全共闘=反大学運動において、あますところなく暴露された。教育は、教育以外のもの、単位・試験・出席などに依拠せずには機能しえない。すでに解体しているのである。すでに解体しているものが、その支配を維持しようとすることの中にこそ、川口君虐殺はあったと言わねばならない。この解体した<学>を本当の意味で解体するためには、われわれ学生の力だけでは決定的に不十分なのである。街頭闘争における、政治課?をめぐる労ー学提携という外的な結合ではなく、まさに生産力と生産関係の矛盾、頭脳労働と肉体労働の矛盾を止揚する主体としての労ー学提携が求められ、しかもその条件があるのである。この緊急にして、巨大な課題は、山谷における闘いとの出会いの中から徐々に模索されていくであろう。

われわれの闘いは、当局=革マルの<早大管理支配体制> 解体の闘いであると同時に、建設の闘いであった。何か一つの課題・戦線に限定することはできず、多面的な闘争を展開せねばならなかった。その意味で、これまでの学園闘争、学費問題などの個別課題を軸にした学園闘争とは異質なものをもっていた。持続性もあった。逆に言えば、焦点が明確に定まらず、他の闘争、他の学園闘争との結合が困難にならざるを得ない。しかし、現在では、安保粉砕や大学立法粉砕など一面化された戦線における"全国学園闘争"の展開とは全く別な連帯の質が問われているのかも知れない。確かに、大管法による攻勢とは断固闘わねばならない。しかし、三年前、全国の大学で大学立法に起ち上ったが故に足元をすくわれ、早大でも、それ以後、自治を守れというレベルの鬪争、あるいは諸党派が前面に出る闘争へと堕落していった経緯を忘れてはならない。われわれは、大管法をもこちらの戦線に引き込めるような闘争を今から準備せねばならない。それにはおそらく、現在早大で模索されているような、独自な課題をもった、自立的な運動体の形成が条件となるであろう。早大闘争は、あの全共闘運動の圧殺者としてあった革マル、民青と闘いぬく中で、全共闘“以後"の新しい闘争スタィルを提示するものとして、機能しえなくなっているばかりか、すでに桎梏と化している”党派的指導"をのりこえ、自力で闘争を創出していくものとして、また、これまで停滞と混迷のただ中にあるとされていた学生戦線の新しい段階をきり拓くものとしての重大な任務を担っていかねばならないといえよう。
(終)

【映画「ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだー」宣伝のクラウドファンディングのお知らせ】

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新作ドキュメンタリー映画「ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだー」公開に向けて、宣伝費の応援をお願いするクラウドファンディングをスタートさせました。

●-Gallery「ゲバルトの杜」クラウドファディング・ページ
http://motion-gallery.net/projects/GEWALTnoMORI

「全国共通前売券」「監督サイン入りプレスブック」「ロゴ入り特製手ぬぐい」「監督が育てた新米(2024年度埼玉県産キヌヒカリ)」「宣伝美術のための元活動家が復元したヘルメット・セット」など、さまざまな特典(リターン)を用意しています。
クラウドファンディングページをご一読いただき、ご支援をご検討くださいますよう、心よりお願い申し上げます。

●映画ナタリー「ゲバルトの杜」紹介ページ

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新作『ゲバルトの杜』5/25公開!
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【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)
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「模索舎」のリンクはこちらです。
  
なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は4月19日(金)に更新予定です。

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