野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2023年10月8日、東京大田区の蒲田で「10・8羽田闘争56周年集会」が開催された。
当日の様子はNo624「10・8羽田闘争56周年ドキュメント」として公開しているが、集会の第2部「行動し発信する学生たちから」が未公開だったので、今回その概要を掲載する。
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【56周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
「10・8羽田闘争56周年~半世紀を超えて戦争反対の思いは今~」
●第2部 行動し発信する学生たちから「沖縄、気候変動、入管問題」など
コーディネーター 小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
登壇者      中村眞大さん(明治学院大学)
         白坂リサさん(慶応義塾大学)
         降旗恵梨さん(立教大学:BOND外国人労働者・難民と共に歩む会)

小林哲夫
2020年代の若者の社会運動、今の『怒りを歌え』からちょうど54~5年経った、今の2020年代の学生が、社会とどう向き合い、どう考え、どう議論し、どうやって発信して、どのような行動をしているのかについて、話を進めたいと思います。
のちほど学生さんが3人登壇します。その前に、2020年代の若者の社会運動の動画を作りましたので、それをご覧になって、今の様子というのを観ていただければと思います。
この動画を作ったのが、明治学院大学3年生の中村さんです。
動画を時々止めて簡単な解説をしますけれども、できるだけ分かりやすく、今の学生さんの言葉を使いながら進めたいと思いますので、よろしくお願いします。

【「2020年代若者の社会運動ダイジェストムービー」上映】

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この画像が、2019年10月21日、東洋大学文学部の船橋秀人さんという学生さんが、竹中平蔵さんが当時東洋大学で授業を持っていまして、その授業反対の立て看板を白山キャンパスに掲げました。それに対して、大学の職員がすぐにやってきて、立看を撤去するという動画です。
今、船橋さんは、京都大学の大学院の文学研究科修士課程にいます。11月5日の関西集会で登壇を予定しています。

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(中村)
こちらは都立の北園高校というところで制作されましたドキュメンタリー映画「北園現代史」です。僕が北園高校の3年生の時に、頭髪規制だったり、見た目について教員が介入してくる、そういう規制が強化されて、元々「自由な校風」がウリだっただけに生徒がすごく反発して、僕と仲間がそれに問題提起するようなドキュメンタリ-映画を制作しました。

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「気候危機を止めろ!」

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今年の9月21日に、静岡の浜松にある浜松開誠館高校、今年の夏に甲子園に出た学校ですが、ほぼ全校生徒千人が温暖化防止対策を求めて市内でデモを行いました。

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(中村)
9月に北海道の帯広に行って、一人の若手の気候運動家に、どんな活動をしているのかを喋ってもらいました。
「みなさん、初めまして。私は北海道の十勝に住んでいる高校2年生です。私は現在Fridays For Future札幌に所属しています。これまでやってきた活動としては、中学3年生の時に、学校を休んでスクールストライキをしました。また、今回のCOPでは気候変動への具体的な解決策を求めて、ハンガーストライキもしました。
今後やっていきたいこととしては、もっといろんな人が気候変動について考える世界ができたらいいなと思っています。」

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(中村)
坂本龍一さんが連帯を表明したことでも知られている明治神宮外苑の再開発に反対する高校生が中心になって始めた運動の様子を紹介します。
「私たちが闇雲に再開発に反対しているという印象を持たれがちなんですけれど、私たちはそうではない。署名活動で積極的に言ったのは、再開発自体を行うことに反対なのではなく、今自然保護と言われているこの時代に、緑の価値とか、人々の心にとっても緑は大事だから、緑を保全して切らない形で再開発を進めて欲しいという思いで、企業にも東京都にも訴えているつもりなんですけれども、やっぱり一方的になってしまって、コミュニケーションが取れていない状態で、近隣住民の人たちも都民も私たちも10万筆の署名を6月に提出したんですけれども、それでもコミュニケーションを取る機会を与えてもらえてないので、もっと声を反映した再開発をして欲しいと私たちは日ごろから思っています」

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入管法改悪反対という横断幕があります。入管問題、難民問題に取り組んでいる学生さん、一昨年から街に出て、多くのことを訴えています。今日これから登壇していただく方もこの中に入っています。
「入管法改悪反対!」

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(中村)
こちらは被選選挙権を引き下げることを求める公共訴訟の運動です。現在、選挙権は18歳に引き下げられたんですけれども、立候補する年齢は衆議院で25歳、参議院や県知事は30歳ということで、それは不平等なんじゃないか、18歳から選挙に立候補できるようにしたい、政治家になって社会を変えたいという人たちが、公共訴訟という形で国に裁判を起こしました。その決起集会の様子です。

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昨日行われた、学生、高校生、大学院生を含めて若い方々が、運動をやろう、いろんな運動をやるにはどうしたらいいのか、それぞれ運動について自分たちの悩みを訴え、これからどうやって広げていくかというのを話し合う場がありました。
以上になります。どうもありがとうございました。

●自己紹介

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小林哲夫
今日は学生さん3人に来ていただきました。3人とも社会と深く向き合って、いろんなことを考え、いろんなことを発信し、行動されている方です。この方々が日々どのようなことを考えているのかについて、皆さんの前でお話できればと思います。
まず自己紹介ですが、私は小林哲夫と申します。社会問題関係、教育関係をフォローしているジャーナリストです。よろしくお願いします。

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中村眞大
明治学院大学3年生の中村眞大(まさひろ)と申します。きっかけとしては、さきほど自己紹介させていただいたんですけれども、都立の北園高校に在籍中に、学校の自由の問題、高校生の自由って何だと言う問題に直面して、そこからこういったことを始めました。
普段は学校の自由の問題を高校を卒業した後も取り組んでいるんですけれども、そのほかに、今回紹介したように、同世代の社会運動家、今でいうところのアクティビストという人たちを中心に取材をして、記事を書いたり映像で発信をしたりという活動を続けています。
あと、総合雑誌の『情況』の編集部として、雑誌制作の方にも関わっています。
今日はよろしくお願いします。

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白坂リサ
白坂リサと言います。さっき動画にあった、参議院選挙の投票方法を解説したポスターを学校に掲載したら、「校則で禁止されている政治的活動等にあたる」と言われてはがされたという経験があります。
それをツイッターで「これはおかしいんじゃないか」と発信したところ、結構バグって、5万「いいね」くらい来て、結果的には掲示は許可されたんですけれども、学校の政治に敏感な態度に対する現状と問題意識を発信できたかなと思っています。
私も中村さんと同じく総合誌『情況』の編集委員をしています。詳しいことは後ほど話したいと思います。

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降旗恵梨
立教大学4年の降旗恵梨(えり)と申します。私は、さきほどの映画の中にもあったんですが、入管問題に取り組む学生の一人です。所属してる団体としては「BOND外国人労働者・難民と共に歩む会」というところに所属していて、活動を始めて2年とちょっとくらいになりますので、よろしくお願いします。

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●若者の運動の特徴
小林哲夫
ありがとうございます。まず中村さん、今回いくつかの若者の運動を撮影する中で、特徴と言いますか、同じ学生としてどう受け止め、彼らがどのようなことを考えているのか、お話いただき、あと、アクティビズム、アクティビストという言葉、もしかしたら皆さんに馴染みが薄いかもしれません。その辺の言葉の定義についてもお願いします。

中村眞大
そうですね。特徴というところなんですけれども、皆さま映像を観ていただいて「おや?」と思った方が多いと思うんですが、女性がすごく多いかなと思います。例えば2015年安保の時は、表に出ていたのはやはり男性がかなり目立っていたと思うんですけれども、2020年代以降、かなり女性が表に立っていろんな問題を訴えるということがすごく増えてきたかなと思います。
あとは、訴える社会課題が非常に多岐に渡っているということがあると思います。例えば気候危機、入管・難民問題、ジェンダー問題、いろいろとあると思うんですけれど、すごく多いですね。それに比べて平和を求める運動だとか反戦運動、それから沖縄を守る運動は、若干現在では若者の間では下火になっているんじゃないかと思います。
アクティビズムという言葉についてですが、これは活動家、運動家という言葉の英訳ですね。社会運動がアクティビズムで、運動家というのがアクティビストということになるんですけれども、この言葉も非常にやっかいでして、アクティビストと名乗っている当事者もいるし、運動家と名乗っている当事者もいて、その辺は統一されていないと感じています。
傾向として、アクティビズムとかアクティビストと名乗る方が何となく恰好良く見えるとか、昔の暴力的で怖いイメージがないと言われているとか、活動家と言われるとヘルメットを被っているイメージがあるから使わないという人もいれば、敢えてアクティビストみたいなのが意識が高くて、普通の学生よりも頭がいいんだみたいに感じられてすごく嫌だから、普通に気候運動家と言っている人もいて、本当にそこは個人のこだわりなのかなと思います。

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●入管問題への取り組み
小林哲夫 
ありがとうございました。
降旗さん、入管問題の取り組みについて、今何が起こっているのか、ご自身がどうしてこの問題に取り組むようになったのかについてお願いします。

降旗恵梨
入管問題については、すでにご存じの方もいらっしゃるかと思うんですが、簡単に言うと、日本の在留外国人、特に在留資格を持っていない外国人の方に対する入管であったり政府の非人道的な処遇のことを指します。
今現在起こっていることとしては、今年の上半期で一番大きかった出来事は入管法の改悪だと思います。その中身としては、難民申請3回以上の人は、今までは強制送還してはいけないという対象になっていたんですが、3回以上の方々は強制送還してもいいとしたりとか、退去に応じられない方は刑罰で罰することができるという、今までも非人道的な取扱いによって、入管施設内のウイシュマさん死亡事件に現れているように、死亡事件が起こったり、見えていないところでも数々の暴力事件があったり、在留資格がない外国人に対する命や健康をないがしろにした国家権力による横暴というものがあったんですが、それがより法的な力を持って強固に出来るようになったというのが、今年の春に起こったことです。
それに対して市民、学生が声を上げたというのが、すごく意味のある事だと思います。結果的に法改悪が成されてしまったんですけれど、そこまでの過程で入管がやっていることが社会的にもどんどん暴露されていって、その中で市民の反対の声というものがどんどん大きくなって、当事者と共に戦うという考えが作られていったというのはすごく大きな出来事だったと思います。
きっかけは、私は2021年の5月から(「BOND外国人労働者・難民と共に歩む会」に)参加しているんですが、当時はコロナ禍で、学生になったらこんなことがしてみたいと思っていたことが出来なくなっていたというところで、社会的な活動に目を向けてみようというところで、私自身は高校の時に留学をしていたので、それがインドネシアだったんですが、インドネシアからの技能実習生の問題とか、その当時からニュースになっていて、そこで自分事としてとらえたというか、自分を温かく迎えてくれた友達が日本に来たら、もしかしたらいじめられてしまうかもしれないと思った時に、これはやはり何かしなければいけないというところで在留外国人の問題に目を向け始めて、そこで入管問題を知って、収容所の存在も今まで知らなかったんですけれども、こんな毎年のように人が死んでいる国家機関があるのかということにすごく衝撃を受けて、自分でも何かしなければいけないというところで活動を始めました。

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●今の若者の政治批判や運動に対する見方
小林哲夫
ありがとうございます。
白坂さん、大学1年生なんですけれど、たぶんいろんな運動をこれまで見てこられたと思います。第1部の「怒りをうたえ」をご覧になったことも含めて、今の学生の運動や取り組みはどんな感じなんだろうか、白坂さん自身の受け止め方、どうしたらいいのか、その辺をお願いします。

白坂リサ
そうですね。私自身の話を最初にすると、仙台二高(宮城県仙台第二高等学校)という東北で一番の進学校と言われているところに所属していて、皆の価値観が勉強にすごくヴァリューが置かれていて、視野が狭まって不登校になったり、授業に行かなくなったり、そこにしか価値を感じられないみたいなことが起きていたので、学生指導要領を問おうということで、私たちが価値観を依存している学習指導要領を問うたら面白いんじゃないかということで、「この国の学校制度を考える会」という愛好会を1人で立ち上げました。
そうした中で参議院選挙のポスターの出来事があって、私に向けられた言葉としては、同じ高校の生徒からすごく非難されたわけです。特定の政治思想に誘導するような会なんじゃないかとか、すごくそういうことを疑われて、後々聞いた話だと、私は政治的に洗脳されたんだ、みたいなことを思われていたみたいで、SNSに投稿したことによって、自分のSNSアカウントも学校中にバレてしまったわけなんですけれども、そこで発信した内容が、政治批判というか、ニュースに対して「これはおかしいんじゃないの」という投稿が結構あったので、政治的に洗脳されて、学校でこういうことを言って、特定の政治思想に誘導するような目的なんじゃないかと言われて、SNSでは結構悪口を言われたんですが、実際に学校では何も言われなくて、皆黙っているわけです。親しい友達もこの話には全く触れてこなくて、そうなった時に、私は完全に「いじり」の対象か非難の対象として客体化されていたわけです。いわゆる政治的に洗脳された、今で言うと「思想が強い」という言葉、思想が強い人ということで、何を言ってもいい対象として見られていたというか、腫物をさわるように扱われることになったということです。
それを踏まえて、今「怒りをうたえ」の映画を観た感想を言いますと、1人が前に立て演説をしていたと思うんですけれども、演説をしている言葉だったりとかが、まさに「思想が強い」という言葉に表さられるような状態で、あれだけの賛同者が、賛同者というか連帯が生まれていったというのは、今では考えられないことではあるし、それに対してのリアリティの無さみたいなものは感じます。今の同世代の中で、政治批判だとかデモとか運動的なものというのは、ヘルメットを被ってゲバ棒というイメージがあるわけです。そのイメージがあまりにも強烈で強くて、運動の歴史とかが細分化されて理解されないまま、ただ政治批判的なことがヘルメットのイメージとすぐに直結して結びついてしまう、暴力的なイメージと直結して結びついてしまう現状があると思っています。教科書でもあまり習いませんし、今の若者の政治とか「思想が強い」という言葉が生まれる背景に、こういった運動の歴史というのが何となくぼんやりとしたイメージが土台にあるんじゃないかと思っています。

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●入管・難民問題の取り組みで考えていること
小林哲夫
ありがとうございました。
降旗さん、「怒りをうたえ」の中でも入管の問題がちょっと出てきましたよね。今、「思想が強い」という言葉が出たんですけれども、入管・難民問題に取り組んでいて、この辺は困ったなとか、うまく伝わらないなとか、思想の問題とか考え方、その辺りで考えるところ、悩むところがありましたらお願いします。

降旗恵梨
そうですね。その辺というのは多くの学生の仲間の様子を見ていても、広報を担当している仲間の様子を見ていても、うまく伝わらないんじゃないかとか、「BOND」はデモをやったりするので、デモに対してメンバーの中でも意見が分かれたりするところで、私自身もデモに参加する前はちょっと過激なイメージというか、思っていたんですね。
そういう周りからの「思想が強い」とか過激だとうところはあるんですけれども、私たちはそういう声に依拠するのではなく、当事者が何を求めているのかに依拠するべきではないのかというところが一番大事だと思います。なので、当事者が何を求めているのかということと共に、当事者と一緒に声を上げて闘ってくれることを一番に求めているわけなので、私たちがどちらの声を優先するのかというと、やはり当事者の声になるわけで、当事者の道理のある声に連帯して一緒に闘って行こうという組織の雰囲気が作られていった中で、発信内容が「思想が強い」ということでうまく伝わらないんじゃないかとか、私から見れば些細なことなんですけれども、そういう些細な悩み事というのは乗り越えられているところがあると思います。

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●多数派の若者の現状
小林哲夫
ありがとうございました。
今の2人の話を聴いて、中村さん感想をお願いします。

中村眞大
「思想が強い」とかいう話は本当に僕もよく聞く話だなと思っています。僕が映像の中で紹介したものだけを見ると、今の若者はすごくいろいろやっているんだと思うかもしれないんですけども、あれは2020年代の学生のほんの一握り、ほんのひとつまみの人たちでしかないわけです。ほとんどの人たちというのはノンポリというか全く政治に興味のない、もしくは選挙だけは行くけどあまり良く分からない、そういう人がほとんどの多数派なわけです。右翼と左翼の違いも良く分からないとか、そういう人たちがいっぱいいる中で、全員がそうではないんですけれども、アクティビストだったり社会運動をする同世代を少し嘲笑う対象として見ることが、残念ながらあるわけです。
その典型が、沖縄の座り込みに対する嘲笑いであったりとか、僕もデモの現場を取材するんですけれども、通行人とかがへらへら写真を撮りながら、「あとでネットで晒してやるからな」とか言って笑ったりしているわけです。そういう現状が今あるというのは事実としてあるし、それをどうやって変えていけるのかというのはすごく難しいんですけれども、伝え方というのは大事なのかも分からないし、ただ伝え方にこだわるあまりに僕たちの訴えていきたい信念というが曲がってしまってもいけないし、そこはすごく皆葛藤を抱えていると思います。

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●運動とSNSとの付き合い方
小林哲夫
ありがとうございます。
「怒りをうたえ」の時代と明らかに違うのが、SNSだと思うんです。ネット上の運動の展開及びネット上でのいろんな言われ方、それをうまく利用する、逆に非難される、その辺りの学生の取り組み、運動とインターネット、SNSというのはどう付き合っていったらいいのか、白坂さん、お考えがあったらお願いします。

白坂リサ
なかなか難しい問題で、自分が実際にSNSで話題になったということで、今ツイッターのフォロワーが4千人ちょっとくらいいるんですけれども、そういった中で自分の経験、高校での出来事を契機として、自分についてすごく語るとか、個人的ないわゆる若者の直接的な感情を文章化して発信したりすることを普段からやっているわけなんですけれども、やっぱり私の個人的な体験というよりも、肩書として消費されるというか、ある意味利用されるようなことも結構あって、例えば私は女子高生であったり、今は女子大生なんですけれども、女子大生として見られるわけですよね。
それでなんか、すごく自分が率直で個人的で心からの思いを書いても、実際にあったことなんですけれども、「是非お話を伺いたい」みたいな感じで「会いたい」みたいに言ってくる某議員の方とか、元大学教授の方とか、某有名大学の学生とかがいるんですよ。実際に会える機会があってお話しようとなった時に、私の話をすごく褒めてくれて、過剰に持ち上げられているような感じもあって、最終的に結びつくのが、何かセクハラみたいな感じの発言だったりとか、そういう感じになるんですよ。だから、自分の個人的な体験を、自分は率直に話しているのに、それをかえって利用されてしまうというか、そういう矛盾は感じていて、特にSNSだとそれがすごく顕著なんですよね。
私は高校生の時に、「政治系高校生〇〇〇」というユーザーネームでやっていたんですけれども、女子高校生としての発信ということで、すごく客体化して見られやすいんですよ。社会的なイメージに「らしさ」というのがはめられていて、それでフォロワーがすごく増えたりだとか、実際にダイレクトメッセージが来た例で言うと、女性の活動家が好きなのか分からないんですけれども、女子高生の活動だけでなくてアイドルばっかり「リツイート」していて、実際私にもその女子高生というイメージでダイレクトメッセージが来て、すごく長文のメッセージだったんですけれども、「あなたの言っていることにすごく共感します。分かります」と、めちゃめちゃ細かく見ているんですけど、ちょっとあまりにも消費されている感じがあるし、「女子高生」とか「女子大生」というネット上で客体化されやすい存在で発信していると、なかなか窮屈ではあるんですよね。
「らしさ」に過剰に当てはめられているという感じがあって、SNSというのはいろんな投稿が流れてくるわけじゃないですか。「女子高生ってこんな感じだよね」とか「女子大生ってこんな感じだよね」というがあって、自分はそれに当てはまっているとも思わないのに、それを勝手に妄信されて、勝手にイメージが作られて、コメントを寄せてくれる人たちがいるので、その人個人とうよりも、肩書として客体化されて消費されて、利用されやすいという面では、SNSってやりづらいなと、広まるのはすごくいいんですけれども、そういう面ではすごくやりづらさを感じています。私は、この問題をどうしたい、どうできるのかというのはまだ分からないです。

小林哲夫
ありがとうございました。
降旗さん、今の話を受けて、「BOND」でやっていてSNS上あるいは街頭で署名活動されている中で、これはどうなんだろうなと思う事、疑問に思った事があったらお願いします。

降旗恵梨
普段SNSの投稿にあまり関わっていないので、SNSに疎い、学生としてはかなりSNS音痴な方に入るので、答えにくいところもあると思うんですけれども、そうですね、やっぱりSNSって明らかに差別的な発言とか入ってくる時とか、それを見て気持ち的に落ち込む学生も結構多いし、私自身もショックを受けたことはあります。
こちらとしては信念を貫くというか、街頭署名をしていても、アンチみたいな人から「俺は絶対こんなこと反対だ」とか言ってくる人はいるんですけれど、こちらとしては理論的に説明を尽くすということに尽きるかなと思います。「こういうことが問題なんですよ」と説明して、相手がどういう風な反応をしてくるかによると思うんです。こちらとしては道理のあることを、ちゃんとした客観的なデータというものを取って伝えていくということが求められているし、それをやっていくことが大切かなと思います。

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●大学のキャンパスでの活動の現状
小林哲夫
ありがとうございます。
3人とも大学生なので、キャンパスの中ではどんな感じなのかなと、おそらく(会場恩)皆さんお考えだと思います。中村さん、全般的にどうでしょうか?

中村眞大
そうですね。僕が感じているのは、大学内での運動というのは、なかなか今の時代は少数派なのではないかと思っています。どちらかと言うと、さきほどご紹介したように、それぞれの社会課題に対してグループとして活動するというものが多いんですが、一つ例外としてあるのは、何年か前にあった「Voice Up Japan」というジェンダー平等を求める団体でして、それは日本中の大学に支部を作って、サークルという形で各大学で新入生を勧誘して活動をするということをやっていました。そういった例はあるんですが、どちらかと言うと大学外で活動をするということが多いと思います。
僕は明治学院大学なんですけれど、明治学院の中でも政治的なサークルというは、「Voice Up Japan」の明治学院大学支部というものがあったくらいで、あとはほとんど聞きません。ただ、東大とか京大とかは話は変わってくるのかなと思います。

小林哲夫
キャンパスの中で何かをやる場合、やれるのか。今の立教大学や慶応義塾大学の大学の体制って言論・表現に対してどんな感じなのか、その辺りをお願いします

降旗恵梨
私は立教大学なんですが、本当に今、その壁にぶち当たっている状況でして、やっぱり入管問題について、もっともっと多くの学生に知ってもらいたいし、これは私たちの社会の問題だから一緒に考えようということで、今年からサークルを立ち上げているんですけれど、蓋を開けてみると学内での活動というものが、大学側から制限されていることがあって、まずは大学の外部組織の支部を作ることが禁止されているということだったり、サークルが外部から当事者の方を呼びたいと思ってもそれが出来ない。あとはビラ配りは基本的にダメですし、ビラにハンコを押して承認されなければ貼ってはいけないというように、かなり言論の自由というものが奪われている状況だと思います。そんな中で道を模索している段階です。

小林哲夫
ありがとうございました。
白坂さん、お願いします。

白坂リサ
私は大学に入学してから半年、春学期が終わって秋学期ですが、すごく印象的だった出来事があって、それは私が政治系の授業を受けていて、それで仲良くなった子がいたんですよ。その人と話していくうちに、うっかり自分のツイッターアカウントを教えてしまったんですよ。「よかったらフォローして」「じゃあフォローするわ」みたないな感じで、いい感じだったんですけど、後日、その人から「実は私は湘南自治会という大学の自治会に所属していて、こういう左派系のアカウントはフォローしてはダメなんだ」と言われて、「御免、フォローはずすわ」と言われて、「え!」みたいな自分のアカウントを勝手に左派系と決めつけられたことも腹立たしいですし、「自治会ってそもそもみんな入っているものじゃないの」と思ったんですよ。
そこから考えた時に、思い当たる出来事があって、自分の妄想かもしれないんですけれども、慶応の塾生情報局という、慶応の2万人くらいのフォロワーがいて、慶応義塾生だったら全員フォローアップするみたいなアカウントがあるんですけど、それをフォローしてもフォロワーされなかったんですよ。私はそこまでフォロワーに執着しているわけではないので、「あーっ」と思ったんですけど、サークルのアカウントとか、いくらフォローしてもフォローアップされないという、何かちょっとおかしいなと思ったんですよ。それでその話を聴いたときに、すごく辻褄が合って、「えーっ左派系のアカウントだからフォロワーされないの」みたいな、「そもそも慶応の大きいアカウントって、塾生であることの承認みたいな相互フォローなんじゃないの」と思って、慶応の組織から拒絶されているような感じを受けたんですよ。それがショックで。そういった中で、慶応は立看も設置できなかったりとか、完全に塾生代表の組織が体制側になびいていったりということがあって、慶応はいわゆる有名大学と言われている中でも一番ひどいんじゃないかなと思っています。
いきなり政治というよりも、大学の組織の構造から変えていかないといけないんじゃないかなと思って、塾生代表の選挙みたいなものがあるんですけど、いずれ立候補したいと思っています。

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小林哲夫
ありがとうございました。
今日、会場に学生さんが何人かいます。もっと学生さんの声を聴きたいと思いますので、中央大大学1年生のSさん。「怒りをうたえ」で中央大学が結構出てきますが、その感想を含めてお願いします。

Sさん
これは僕が趣味で書いている「ゲバ文字」です。中央大学はサークル棟というのがあって、当時の「ゲバ文字」とか落書きが書いてあって、僕が入学した時にそれを見て、元からフォントとか字体が好きだったから、それで魅了されて「書こう」と思って書き始めました。
当時「ゲバ文字」を書いていた人とお話したいと思います。
(「怒りをうたえ」を観て)中大って学費値上げを阻止した大学で有名らしくて、本当に学生運動が強かったんだな、と思いました。
今の中大は駿台から多摩キャンパスに行って、いわゆる「筑波化」なんですけれども、それもあって、学生運動みたいなものはないですね。

小林哲夫
趣味とは言え、いろいろ教えてあげてください。
中村さん、先ほどの話の続きなんですが、お2人の話を聴いてどうですか。

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中村眞大
明治学院の話でちょっと思い出したんですけれども、大学は全般的に不寛容だなと僕はすごく思っていて、うちの大学でも印象的な出来事があって、明治学院大学は数年前に寄川先生の授業を大学職員が盗聴して、教科書を不正に検閲して、「大学の方針と違う」とか言って解雇したんですね。それでずっと裁判をやっていているんですが、うちの大学はその事件のことをどうとらえているんだろうと思って、明治学院大学図書館に寄川先生が明治学院大学事件についてまとめた本2冊を、購入希望でリクエストを出したんです。そうしたら数日後に「購入希望を却下します」というメールが届きまして、「えーっ」と思って何って説明してくるのかなと思ったら、「事実と異なる内容のため購入しません」みたいなことが書かれていて、「別に買ってもいいのに」と思ったんですけど、そういう感じで自分たちと異なる主張、もしくは自分たちの身が脅かされると思ったものは、過剰にバリアーを張って阻止してしまうという、それが学生に対してもそうだし、元教員に対してもそうだし、そのように感じています。
SNSなんですけれども、さっき白坂さんがSNSのどちらかと言うと負の側面についてお話をされていたと思うので、僕の方から便利な面での話もすると、今SNSで主に学生が使っているのはインスタグラムになります。インスタグラムとツイッターとティックトックですね。その3つが主流です。それぞれ役割というのがあって、インスタグラムは写真とか日常の様子を投稿するものとして使われています。広く拡散するというより、友達同士で広めるという機能が強いものです。「今日こういうところに行ったよ」みたいなことを投稿するんですけれども、そういう時に、僕は時々政治的なイベントの映像とかを入れて、友達にも伝えたりするとか、あとは政治的な活動をしている学生団体も、積極的にインスタグラムのアカウントを使って、おしゃれな投稿で使っていることが多いですね。ツイッターは文章で投稿することが多くて、政治的なこと思っていることを投稿することが多くて、あとは拡散する機能がすごく強いので、何か問題提起したものが日本中にばらまかれるというとこがあります。すごく便利です。あとはティックトックは短い動画が次々に流れてくるもので、例えば政治的な解説をしている人の動画がたくさん拡散されたりしていて、どちらかと言うと偏った投稿も混じっているので、それで影響を受けて差別主義者になってしまったり、そういうリスクもあるかなと思います。
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●会場からの質問に答える
小林哲夫
そろそろ時間が近づいてきましたので、会場の皆さんから学生さんに聞いてみたいことがありましたら質問を受けたいと思います。

質問者
皆さんの思いを実現に向かわせるためのロードマップみたいなものがあれば、教えてもらいたい。

白坂リサ
私が今、構想している、自分がやりたいと思っていることは2つあって、一つ目は、今若者とか子供が意見を発信する場として、例えば「子ども家庭庁」の子供会議だとか、与えられた場で、選ばれた人だけが議論して政府に意見を届けるとこがあると思うんですけれども、会議に出席している方は16歳とか17歳とか18歳で、もはや主権者の方もいるわけですよね。そうなった時に、あまりにも子供扱いしすぎというか、飼い慣らし過ぎなんじゃないかという思いがあって、大学生のうちに自分のメディアみたいなものを土台として、自分から政治家に質問しに行ったりとか、政治家に要望を出しに行ったりとか、記者会見に質問に行ったりとか、与えられた場があって、その中で意見をするんじゃなくて、大学生とか高校生とか中学生という肩書なしに、自分自身がその人自体として意見を言ったり届けたり質問できるんだということを自分で体験していきたいと思っています。
二つ目としては、「思想が強い」ということが話題になったと思うんですけれども、その土台というか背景には、やっぱり政治に何か意見するとなると、ヘルメットだったり力でとか、そういうイメージが漠然とあるわけですよ。無い人はいないと思っていて、実際に学生運動というのを知らない中高生が一定数いて、その人たちの中にもヘルメットのイメージ、力でというイメージがあって、それに対するタブー感とか敬遠する感じがあるんですよ。なので、この運動の歴史というのを、より細分化して、分かりやすく子供たちにも理解してもらって、デモという行為自体がそんなに危ないものじゃないんだということを広めたくって、運動の歴史的なものを、本当に野望なんですけれども、岩波ジュニア文庫あたりでまとめて、子どもたちに分かりやすく広めるみたいなことを、いずれはやっていけたらいいんじゃないかなと思っています。

降旗恵梨
そうですね。究極的には権力関係を変えていくということが、どんな問題でも必要だと思っていて、入管問題もそうですけれど、抑圧されている当事者の方々と、それに連帯する市民の声というものが今は全く耳を傾けられていない状態で、そこには国家権力というものが、本来は市民とか抑圧されている側に立って政治を行っていくべき人たちが、逆に排外主義的で自分たちの既得権益を守ろうとするという風に政治が行われているので、そうした問題というか、そこにある明らかな権力関係というものを、実際の具体的問題の中から解決していくということが大事で、ただ単に今の政治に対して「反対」とやっていても、結局届かなくて、今現在政治によって抑圧されている人たちは何を求めているのか、何を訴えてるのかというその声に依拠して、そこからその人たちと共に声を上げていく、そうした中で、具体的な入管問題については、在留資格がない人たちに対して適切に在留資格が与えられて、日本で安心して暮らせるようにするとか、難民認定を国際基準に基づいて行われる、ウイシュマさん問題から入管収容所のあり方自体を変えていくということ、そうした具体的目標を持って変えて行って、それが権力の構造を変えていくことに繋がっていくと思います。

小林哲夫
どうもありがとうございました。
もっともっといろいろ話を聴きたいのですが、時間が来ましたのでこれで最後にしたいと思います。

中村眞大
最後簡単にお話しをさせていただきます。さきほどお2人がお話されていた政治をどうやって変えていくかということにも繋がっていくんですけれども、僕は学校教育から変えていきたとすごく思っていて、今回それに関連する団体を立ち上げました。
「School Liberty Network」という団体です。簡単に言うと、日本の学校を草の根でどんどん自由にしていく、学校に民主主義を根付かせていくということです。学校に民主主義が当たり前になっていくことで、将来卒業した時も、社会に対して批判的な目で主権者として関わって行くことができるということで、学校を自由化したいという団体を立ち上げました。相談事業とかイベント事業とか、いろいろ考えていて、中高生からお金を取るわけにはいかないので、もしよろしければ皆様の支援をいただければということで、賛助会員募集のチラシを持って来ましたので、よろしくお願いします。

小林哲夫
ありがとうございます。
第2部はこれで幕を閉じたいと思います。今日の3人、学生さんがなかなかこういう場で登壇することが難しい中で、本当にありがとうございました。(拍手)

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佐々木幹郎(司会)
どうもありがとうございました。面白かった。SNSの問題とか、いろんな問題は現代的な課題ですが、さっきの女性の方の問題意識は、全然時代が変わっていない。我々の時代と全く同じだ。女性が活動した時に、すぐ「いいね、いいね」を付けて寄ってきて、完璧にセクハラと同じような形でしつこく勧誘しようとするというのは、我々の時代だってそういう奴はいたじゃないですか。時代は全然変わっていないなと思いましたし、入管問題についていろいろやっておられる方の考え方も、本当に時代は変わっていないと思って、本当に逞しく思いました。
これで終わります。
(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=5611

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【『ヤタニ・ケース』の紹介】(鹿砦社サイトより転載)
『ヤタニ・ケース アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』

yatani

矢谷暢一郎=著
鹿砦社 2023.11.20発売
定価:本体2700円+税

望月(上史。旧友。故人)の死を無駄にしないために、生き残った僕らは彼の死を無駄にしない生き方をしなければならないと思うが、それは「明日」を生き残った誇りでもう一つ次の「明日」を準備することかもしれない。 (本文より)
1960年代後半、ヴェトナム反戦運動が盛り上がる中、その渦中に身を投じながら、仲間の死、運動の解体、闘病を経て、70年代後半、再起を期して渡米――しかし、そこでもプロファイリングは海を越え当局に回っていた……。
70年代渡米以降、研究に没頭し過ごしていたが、突然逮捕され、「ヤタニ・ケース」といわれる、全米を揺るがす大事件に発展。闘いは続いた――それはどう決着したのか? その意味は?
伝説のヴェトナム反戦活動家(当時の同志社大学学友会委員長)が激動の人生を総括、渾身の書き下ろし!

[著者略歴]
矢谷暢一郎(やたに・ちょういちろう)
1945年、島根県隠岐の島生まれ。
1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指導。同大中退。
77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得、85年以降、ニューヨーク州立大学、セント・ジョセフ大学、ニュージャージー・ラマポ大学等で教鞭を執る。
86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。現在、現在アルフレド州立大学(ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校)心理学名誉教授。
著書に、『アメリカを訴えた日本人――自由社会の裂け目に落ちて』(1992年、毎日新聞社)、『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年、鹿砦社)がある。

鹿砦社サイトはこちらから。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月22日(金)に更新予定です。

今回のブログは、今年の7月1日(土)に北区王子の「北とぴあ」6階ドームホールで開催された、伊達判決64周年記念集会での土屋源太郎さんの講演である。
2時間20分ほどにわたり、戦時下での生活や砂川闘争、伊達判決、最高裁判決、そして国家賠償裁判へと至る経過などを熱く語られた。
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(集会チラシ)

【戦時体制から砂川闘争、伊達判決、最高裁判決、そして国家賠償裁判へ】
講師:土屋源太郎
伊達判決を生かす会共同代表
砂川事件裁判国家賠償請求訴訟原告

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こんにちは。どうも。
私は昭和9年、東京の東十条、(この会場の)すぐ隣で生まれました。88歳です。だいぶボケてきたので、話があっちに行ったりこっちに行ったりするかもしれないし、正確でないかもしれない、それは勘弁して欲しい。
この王子あたりは飛鳥山があって遊びに行ったので、懐かしいですよ。

戦時体制下での生活と敗戦
小学校は当時、僕が入った時は国民学校なんだよ。王子第4国民学校。1年坊主が入った年の12月の8日、学校に行ったら「全員校庭集合」ということで校庭に行ったら、校長先生が「今朝、日本軍はアメリカのハワイの真珠湾というところで攻撃をかけて大成果をあげた。そして米英、アメリカ、イギリスと戦争状態に入った。わが日本の国は、天皇を神とする国で神国だ。だから鬼畜米英に負けるわけがないんだ」というような話をした。それで全員皇居に向かって整列して「天皇陛下万歳」。一生懸命やりましたよ。
それでそれからじゃないかな、毎月全校朝礼があるんだよ。校長が訓話の前に恭しく黒いお盆に乗せたものを持ってくるわけ。それを出して読み上げる。それが皆さんも聞いたことはあると思うけれど、教育勅語というやつなんだよ。内容は「汝臣民」から始まる文言で、要は父母に孝行しろ、兄弟とは仲良くやれ、隣人とは共に暮らせというような話。それで肝は、一旦事があった時は天皇陛下のために命を捧げろと。それを毎月校長が読み上げ、それで訓話をする。結局、天皇は神だという話から神話の教育が始まるわけ。要するに、天上に高天原という場所があって、そこに天照大神という神様がいて、その神様のひ孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)というのが天照大神の命によって日本の地上に降りてくる。天孫降臨という。そして日本の国を開くことから始まった。そしてその孫の神武が東征というか、当時の説だと九州に降臨したという話なんだよね。それで東へ攻めて国を平らげた。それで日本という国を作って、それが初代の神武天皇。今の天皇はそれの子孫だ、正に神の子なんだという教育ですよね。「日本って大変なものなんだ」と思うわけですよね。それと同時に、当時の日露戦争で日本が勝利した。あの大国ロシアを日本がやっつけた。その時の東郷元帥とかいろんな人たちの活躍(の話)を教育の中に入れて教え込んで、日本は強い国であり、軍国主義が国として大事なんだという教育をしていくわけです。
当然そういう形ですり込まれるから、我々としては将来は職業軍人になるということに大変憧れるわけです。そういう状況の中で昭和17年くらいまでは比較的南方攻撃だとか、中国の戦線での効果が出てきて、毎朝と昼と夕方に大本営発表というがラジオであって、景気のいい話がずっと出る。ところがほとんどが嘘だったんだよね。それと先ほどの教育の中で、「この戦争はアジアの人民を解放する戦いで、大東亜共栄圏というものをつくるためなんだ。まさに正義の戦争なんだ」ということも教えるわけです。それと同時に、「国家総動員令」が出されるわけです。(注:「国家総動員法」は昭和13年公布)「国家総動員令」というのは、天皇、政府、ここから出た命令は文句なしに聞け、従え、そして戦時国家として国民は軍に全面的に協力しろ、ということなんですよね。
と同時に、もう一つは、要するに公安を維持するという意味で、特高警察がその法律の下で活躍をした。それで隣組が作られて、はっきり言うと管理と監視の社会ですよ。徹底した管理と監視をする。と同時に、一方的に徴兵が起こるわけです。赤紙で徴兵の通知が来れば、否応なしに兵隊に行く。僕が小学校2年の時に、担任の先生も出征していきました。ですから、常時、隣近所のお兄さん小父さんが出征していくんだよね。それをよく駅で行列を作って、軍歌を歌いながら送っていった。そういうような事があった。
と同時に、いろんなものが規制される。娯楽なんかもちろん無理。それこそ、着るものは男は国民服というカーキ色の作業服のちょっと洒落たようなもの、それで統一する。背広は着ちゃいかん。それから女子は、白い上着にモンペというズボンの膨らんだようなやつをはいて、割烹着。スカートなんかもちろん駄目。そういう規制がどんどんされていく。
昭和18年の秋くらいかな、レイテ沖の海戦という大海戦があって、そこで日本軍の艦隊が米軍の機動部隊によって壊滅的にやられてしまう。そんな放送はもちろん無いよ。結局やられてしまって、それに伴ってグアムだとか硫黄島だとか、あの近辺の島々がどんどん(米軍に)占領されていくわけ。結局グアムが米軍基地になって、そこから(日本への)空爆が始まるわけ。一番最初に東京で空襲があったのは昭和18年の暮れ。19年に入ると空襲がどんどん激しくなってくる。何しろ昼も夜もウーウー空襲警報が鳴るんだよ。そうするとB29
の編隊が、グワーッとすごい音で来るんだよ。飛行機は結構上を飛んでいる。高射砲を打ったって届かない。それから日本の戦闘機はやられるだけという状況で空襲が始まった。昭和19年の4月には、小学校4年生から6年生までは学童疎開。東京に居たら危ないからというので地方に疎開。僕らは宮城県の白石というところに疎開したわけですけれども、空襲は学童疎開の前からも激しい状況でした。
それで何しろ東京だけじゃないんだよね。日本全国、主要都市はほとんど空襲に遭う。それで彼ら(米軍)が考えたのは、日本の家屋というのは木造がいっぱいでしょ。木造だから、一番いいのは燃やしてしまうこと、火災を起こさせる。奴らが考えたのは、筒に油のようなものを詰め込んで、それを束にしたものを作って、それを爆撃機から落とすわけよ。そうすると途中でタガがはずれて筒に火が付いて、それが落ちてくる、何百本も何千本も。それがバラバラ落ちるから、当然火災が起こる。言ってみれば「人間バーベキュー」だよね。要するに奴らにしてみれば人間じゃないんだよな。ひどい話で、そんな事が本当に人道上許されていいのかと問うほどの空襲が何回も何回もあった。それが東京だけじゃない。ほとんどの主要都市が(空襲に)逢っているわけね。静岡市でも、聞いたところによると空襲で2千人死んだというんだから。そういう事が現実の問題として、やっぱり戦争というのは人間がほとんど無視される。そして自由も無きゃ、人権も無きゃ、その上日本の場合は天皇陛下のために何しろ命を捧げろということになってくるわけです。
そういう状況の中で、最後は広島、長崎に原爆がああいう形で投下された。これだって人道上絶対許されるような事じゃないですよね。実際は、それ自身もほとんど報道がない。だから戦後だいぶ経ってから我々は初めて知るという状況でしたからね。それが言ってみれば戦争なんですよね。
それで当時の食糧事情にちょっと触れると、何しろさっき言ったように徴兵で働き手が戦争に駆り出されるんだから、農家の人手が全然足りないから、農作物だとか家畜だとか作るものがどんどん減ってくるから、食料が当然無くなるわけだよね。そうすると昭和19年あたりから配給制になるわけ。米、味噌、醤油を始めとする主要食糧が全部配給制。だいたい飯は米が7か6、麦3か4の割合で混じったものが、ひと月のうち半分食えるか食えないか。あと何を食っているかと言うと、かぼちゃとかじゃが芋、さつま芋、トウモロコシ。それともう一つは「すいとん」と言って、醤油のタレにうどん粉をこねてダンゴにしたやつが入っているわけ、野菜が若干入っているくらいで、むしろかぼちゃよりはご馳走なんだろうな。それが時々食える。今食ったらとても食えるような代物じゃないと思うけどね。そういう食生活、これが敗戦になった昭和21年くらいまで続きましたね。何しろ魚とか肉類はお目にかかれないから、タンパク質とかそういうものはどうしたかと言うと、田んぼの脇に川がある。当時は農薬なんか使わないから、どじょうとか雑魚の魚がいる。それを捕ってきて、それを食う。秋になるとイナゴが多く出てくるので、イナゴを捕ってきてイナゴを食べる。それがタンパク質の補給なんだよね。肉とか魚なんか、なかなか食ったことがないという状況ですよ。
話がちょっと戻りますけれど、焼夷弾による大空襲、ここの王子というのは王子製紙があったり、軍需工場も結構あったということもあるんだけれども、4月18日の大空襲で焼け野原。私の家も18日の日に焼けた。それで私は疎開で居なかったんだけれど、後で妹が言うには、お袋と親父と4つ違いの妹で、火の中を追われて追われて逃げるに逃げた。それで水を被ったりしてようやっと逃げた。「もう死ぬと思ったよ」と泣きながら言うんだよね。こっちも一緒に泣く。それで妹が「お兄ちゃん、居なくてよかった」と言う。それくらいの思いをした人たちが、本当にいたるところにいたというのが実態ですよね。だから絶対戦争なんてやってはいけないんですよ。
昭和20年の8月15日、敗戦の日が来ました。ラジオから天皇が何か喋っているんだよな。ガーガー言ってよく分からない。大人が「負けた、負けた」と言っているので、やっぱり負けたかとその時思った。
さっきちょっと言い忘れたけれど、親父の田舎が長野県の軽井沢だったので、そこに疎開するために1回東十条に戻って1週間くらい居たことがある。そうすると、王子の一帯までが見渡せるような瓦礫の山だよ。木造が焼けた跡だから瓦礫になっちゃうわけだよ。もう本当にひどかった。
そういう状況だったから、8月15日に軽井沢で敗戦を迎えた。(ラジオで)何を言っているのか分からないけれど、負けた。非常に印象深かったのは、その日の夕方、町中に街灯が付いて明るい、家中の明かりが付く。その前の日までは灯火管制があって、常時空襲があるから家を暗くしておかなければいけないから、灯が洩れないようにする。灯が洩れるようにすると、消防団なんかが来てうるさい、徹底的にやられちゃう。そういう中で暮らしましたから、8月15日の夜、子どもなっがらに「これはすごい、やっぱり平和というのはいいな、戦争は駄目だ」と身体中に思ったよね。言ってみれば、戦中の体験と敗戦のあの日のことが、現在の私の活動の原点だね。

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明治大学入学から砂川闘争へ(1956年)
昭和28年、明治大学法学部に入学した。当時、明治大学はひどい学校だったんだな。丁度、民主化闘争と学園闘争があった。たまたまそれがあったので、そこへ僕は参加した。それが自治会に参加する一つのきっかけになって、学生運動に入っていった。
実際6年間、僕は一応大学に居たんですよね。卒業も一応したんです。けれど、まともに授業を受けたのは2年間くらいかな。だからいいとこ学生運動学部卒業じゃないかな。
55年(昭和30年)になって、当時、立川米軍基地の拡張計画が持ち上がってくるわけです。規模にして5万坪。農地、宅地、墓地、それから町の街道を分断するまでの内容の買収計画が町に通達される。
さっき話に出たように、町会では反対決議をして反対同盟が出来るという状況になってくるわけです。55年の時は予備測量だったわけですよ。と言うのは、5万坪の土地の所有者がどうなっているのか、どこがどうなのかということを確認しなくちゃいけないから、予備測量をしなければいけない。9月に予備測量が行われた。当時はまだ地元の反対同盟の町民の方たちと、三多摩労協の労働組合の人たち、千人ちょっとくらいだったんじゃないかな。
測量地に座り込んで反対をしたけれど、機動隊が圧倒的多数で測量隊を守って、測量に強権的に入ったから、ほとんど杭を打たれちゃったんだよね。その時に「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」という有名な闘いの標語がそこで謳われたわけだけど、当然地主が活動しますから、調達庁(現防衛施設庁)は、猛烈な勢いで土地買収にかかるわけです。その結果、半数くらいの人が買収に応じてしまうわけね、全員一致で反対決議をしたんだけれど。そういうことになると、翌年本測量があるということが分かっていますから、戦えないと青木さん(反対同盟行動隊長)を含めて町の人たちが考えたでしょう。

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55年の時は総評も参加していない、我々全学連、都学連も参加していなかったんですよ。と言うのは知らなかった。そこで青木さんたちが、当時の総評の事務局長だった高野実とか、基地問題を扱っていた文化人の清水幾太郎が仲介になって、全学連にも支援の申し入れがあった。(全学連の)共闘部長の森田が窓口でその話を受けて、我々も55年に全く知らない状態でいたことに強く反省もあったし、このままにしておけないという気持ちもあったから、当時僕は、たまたま明治大学の中央執行委員会の委員長をやっていたものですから、全学のいろんなところに「こういう事情で砂川の基地反対闘争があって、その闘争に参加することになった。ついては現地を見に行こう」ということでいろんな呼びかけをして、現地に行きました。
当時立川駅は木造の駅で、駅の前は砂利道で、50~60メートルも行かないうちにアメリカ軍のゲートがあるんだよ。そういう状況でした。それで砂川へ通った。全国の全学連の自治会にも動員をかけていますから、東京だけじゃなくていろんなところから来る。それで反対同盟の人たちが、砂川中学校の講堂を、今じゃ考えられないけど、全面的に開放して、我々全学連の学生が泊まれるようにしてくれた。そこにムシロを敷いたり毛布を敷いて寝泊まりをする。それで自炊で米を炊いてムスビにして、味噌汁とタクアンをリヤカーに乗せてそれを配った、というような生活をする。一方で、いろんな学生がいますから、農業ができる奴は農家の手伝いをする、教育系の学生は子供たちの勉強を見る、我々みたいに何の脳もない者は子供たちとキャッチボールをやったりする、それで町の人たちとの信頼関係を築く。当時、原水爆禁止運動なんかで全学連はけっこう有名だったんですよ、暴れん坊で。だからある意味で全学連が応援に入るというのは、逆に迷惑じゃないかという声もなきにしもあらずだった。そういうこともあったんで、何しろ町の人たちとも交流をする。それと、一番印象的だったのはお母さんたちの話。お母さんたちが言うのには、「私たちは戦前、陸軍によって強制的に土地を取られた。そして今度は敗戦になったら、米軍が来て、ブルトーザーと銃剣の下で否応なしに土地を取られた。今度また3回目ですよ。それもどうも軍拡をするために基地を拡張するんじゃないか。そんなことに私たちは協力はできない。平和が大事なんだ」。お母さんたちは戦争中の体験がいっぱいありますからね。「何も反対をやって土地の値段を上げろとか、そういう問題じゃないんだ。あくまでもこれは平和の闘いなんだ」これは感動しました。それを持ち帰って学内で話をすると、みんな反響が出てくる。
それで56年の10月の12、13日に本測量になる。12日は、総評から地評、全学連、都学連、それから全国のいろんな市民団体、基地反対の運動をやっている人たちも応援に来るということで、3~4千人は居たと思いますよ。

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そういう中で12日に座り込んで、スクラムを組んで、それで労働歌を歌って、反戦歌だとか校歌を歌ったり、そうすると機動隊の指揮官が指揮棒で「かかれ」と命令をかけると、一斉にゴボウ抜きになるわけ。それと同時に、鉄カブトのようなもので頭をガンガンやられ、警棒で突っついてくる、それで軍靴で蹴とばす。それに耐えながら、奴らは公務員のせいで5時になると引き上げるんだよ。だから5時までが勝負。5時まで何しろ「頑張れ頑張れ」なんだよ。12日の日は一応そういうことで、1本も杭を打たれないで引き上げた。
13日にまた来る。13日は、12日のことがあったので、これは防がなければいかんということで、一番やったのは、お腹のところに週刊誌を挟んだんです。そうすると、突かれても結構防御できた。これは結構効果があったね。13日はショボショボ雨が降っていたんだよ。だけどしょうがねえ、そこに座り込んでスクラム組んで、「基地拡張反対」とか「機動隊帰れ」とかシュプレヒコールして歌を歌ったりしているんだけれど、それが終わると、指揮官が「かかれ」と一斉にゴボウ抜きにされる。お巡りがトンネルみたいなものを作って、そこにぶち込まれる。だけど我々はそこをすり抜けてはまた後ろに回る。当時僕は明大の中執の委員長だったものですから、明大の軍団が結構いて、そこで彼らと一緒に戦ったわけですけれど、それで、実際は13日の日は何しろ向こうも必死で物凄い勢いで来るから、結果的には千人以上の負傷者が出た。それが有名な「流血の砂川闘争」ということになるわけですけれど、その日が終わって、一斉にマスコミ、テレビ、新聞を始めあらゆるところで放送がされて、多くの国民が知る。それと同時に負傷者が千人以上も出た。我々は駅頭で募金活動をやって訴えた。そうしたら何と、千円札が驚くくらいどんどん入ったからね。そういう形で56年の闘争をやったわけです。
杭を1本も打てないんだから、14日の日の夕方になって、あまりにもひどい状況だったものだから、国民からのいろんな声が出てくる、批判も出てくる。結局政府が中止する声明を発表したんですね。
その日の夜はすごかった。町中が「勝った、勝った」でデモ。それから神社で集会をやって、あの時の雰囲気は何とも言えない雰囲気でしたね。実際にそれで基地の拡張計画は終わったわけですよ。

砂川闘争で基地内に入る(1957年)
ところが57年に再度闘争があった。何でか?実は55年56年の闘争の問題があったために、青木さんたち地主が基地の(占領軍によって強制収用された)土地の返還請求の訴訟を起こしたんですね。そうなると、それに対抗して、国、調達庁は、土地収用法に基づいて強制収用するということになって、基地内の土地を測量するという通達が来た。ですから、当然それに反対するという闘いでした。
57年の時は、私が丁度都学連委員長になっていまして、現場の指揮責任者ですから、私としては(基地の)中に土地があって、それに対する返還請求をして、測量があるんだから、当然(基地の)中に入るのは当り前、中に入って反対闘争をする、基地内に侵入して反対するというのは当然だという考え方だった。ただ、総評なんて大人の考えですから、もし仮に基地に入れば相当大量の逮捕者が出るだろうという予測もあったんでしょう、こっちはそこまで考えねえから。総評の幹部から、前の日の作戦会議の会合で「明日は学連は中に入らないでしょうね?」って言われるわけですよ。こっちは入るのは決まっているから、そこで「入る」なんて言ったらまた大変だから、「まあ明日の状況を見てですね」ということにしておいた。今だからバラしてもと思うんだけれども、実はその日に30人くらいだったかな。都学連の執行委員を工作隊長にして工作隊を編成した。境界線の柵なんて木の棒が打ってあって鉄線が張ってあるようなやつなんですよ、しっかりは打ち込んでいるんだけどね。それで夜中に行って、すぐに倒れるように(柵の)下を全部掘っておいた。それともう一つは、田んぼがあるので、肥溜めがいっぱいある。肥溜めからくさいウンコを汲んで、それに麦わらをきざんだやつを混ぜて、粘った泥でウンコ爆弾を作る。それも考えてみれば素手でやったんだからね。だけどウンコ爆弾は駄目。何しろ後ろから投げると(機動隊に)届かねえんだから。だたら、これは途中で止めようとなった。

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当日の朝、もちろん簡単に倒れるから(基地内に)入った。余談だけど、ずっと後になって、「伊達判決を生かす会」を作るようになった時に、坂田さんから「源ちゃんよう、あの柵は簡単に倒れたんだよな。何で簡単に倒れたのかな」と言うから、「実はこれこれこういうことをしておいた」と言ったら、「あんたらしいな」と坂田さんに言われたんだよ。考えてみれば坂田さんなんかに大変迷惑をかけたんだよね。17年間もそのために裁判をやらなければならなかったということもあるわけですからね。
結局、中に入るのは2~3名。向こうも鉄条網みたいな2~3メートルも巻いたようなやつがダーッと並んでガッチリ固定してある、奴らも夜中にやったんだろうな。だからムシロを持って押そうが、手袋をして押そうがビクともしないんだよ。それでその向こう側に機動隊がいて、更に測量隊がいるんだから。睨み合いだから。それでシュプレヒコールと歌を歌ったりして、それで対峙していた。そういたら、後ろに兵舎があるんだけれど、その兵舎の間から軍用ジープが2台出てきて鉄条網のすぐそこまで来る。重機関銃が軍用ジープに積んであるんだよ。それを我々に向けるわけだよ。当然、威嚇する。少々ビビリましたよ。だけど、撃ったらこれは国際問題になるという気持ちもあるから、何しろ俺は「引くな、我慢しろ」ということで頑張ったわけだよ。ところが後で聞いてみると、軍司令官は当日、「基地内に侵入者があった場合には射殺してもよろしい」という命令を出していたというんだよね。だから何かの暴発があったら、今こうやって話をすることは出来なかったかもしれない。
という経過を踏んで、昼まで粘りに粘ったけれど、結局奴らも何も出来ないということで、結局「測量はしない。双方が同時に引き上げる」ということが代表者同士で話し合いで決まって、それで逮捕者も出さないという方向だった。それで我々は「勝った、勝った」という気持ちで引き上げて来た。

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突然の逮捕、そして伊達判決で無罪に
ところが、9月22日、朝の5時過ぎくらい、僕は阿佐ヶ谷の下宿に部屋を借りてそこに住んでいたんだけれども、そこにトントントントンとドアを叩くので開けてみると、刑事5~6人と制服の警察官が10人以上いたかな。それで令状を見せて私が米軍基地に侵入したということで逮捕するというので逮捕された。逮捕されて玄関を出たら、報道陣が結構いました。それと同時に、乗った車がヒルマンという英国製の外車。あの時は逮捕が漏れないようにするために、国産車が使えなかった。ところがもう漏れていたし、警視庁までは乗り心地が良かったな。
留置所で約1週間。もちろん完全黙秘。拘留されている時に、日本鋼管の組合の坂田さんを始め組合員3人、それと学生は私と、当時医学連の副委員長をやっていた江田君と、東京農工大の武藤君の3人が起訴された。それと国労の新橋の青年部長だった椎野さんの7人が逮捕された。というのは、結構狙い撃ちもあったと思いますよ。当時労働組合の中で非常に勢力があったのが鉄鋼労連だった。その中核が日本鋼管の川崎製鉄所だった。その執行委員が坂田さんだった。それと当時の国労。国労の中でも青年部が強かったから、国労の青年部長の椎野さん、それと我々学生が逮捕された。砂川事件裁判になっていくわけです。
弁護団は当時の総評弁護団が中心となって、私の大学の先輩であった内藤功先生が弁護団の事務局長という構成で裁判に関わった。
起訴内容が、「安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」ということですから、これは駐留米軍が違憲かどうかということに対する裁判ということで、憲法裁判として臨んだ。だから私なんか裁判闘争だと思っているから、あとで弁論書も出て来たんだけど、何しろすごいんだよ。「アメリカ帝国主義打倒」から始まる、要するにアジ演説だよね。ところが坂田さんはさすが大人、全然段違い。理路整然として、いかに違法なことを奴らがやって逮捕したかということで、ずっと述べているんだよね。そんなことがあって、当時の裁判なんて「司法は信用できない」「三権分立なんて、こんなもの単なるは謳い文句だ」という思いがあった。それで裁判をやった。
1959年の3月30日、砂川事件裁判の結審の日になる。そして伊達裁判長が最初に言った言葉が「主文、被告人全員無罪」。これはビックリこいた。それこそガーンという感じだよね。それで理由、これがまたすごい。「駐留米軍は日米の政府の合意に基づいて、日本側が施設、区域を提供している」「指揮権、管理権の有無にかかわらず、米軍は明らかにその状況から見て戦力と言わざるを得ない」「いったん事があれば日本はその紛争に巻き込まれる危険性がある」「駐留米軍は、そういうことから見れば、憲法9条に違反するものである」米軍駐留の存在はあってはならないものなんだ、ということまで言い切った。
あとで聞いた話、陪席の松本判事に会う機会があって聞いたんだけれど、伊達さんは、その判決を出した時に、そこの所長に対して辞表を懐に入れて(裁判後に)提出したそうです。大変なご迷惑をかけることになると思ったんでしょうね。ところが所長は大物だったんだろうな。それを受け取らなかったということ。だから伊達さんもそのくらいの思いで判決を出したんでしょうね。

7

最高裁への跳躍上告 無罪から一転有罪に
それが1959年の3月30日。実は58年くらいから日米軍事同盟を強化する必要が更にあるということで、安保条約の改定交渉が進んでいたんですね。59年の春には、できれば法案を国会に提出したいという状況があったから、日米両政府にとっては、伊達判決は跳躍上告するということで、弁護団も全国に呼び掛け、何と千人ですよ、支援弁護団が出来たのは。それで裁判が始まった。
本来なら結構日数がかかるんですけど、最高裁の判決は59年の12月16日に出た。それで内容は「1審判決を破棄。差し戻す」。そして「駐留米軍は日本に指揮権、管理権がない外国の軍隊であるから、戦力ではない」「安保条約のごとき高度の政治性の問題について、司法が介入すべきでない」という統治行為論。こんなバカな話はないね。日本の最高裁は憲法審査権を持っているわけですから、あえて憲法審査権を放棄してまで無茶苦茶な判決を出したわけです。
当時は「ひでえ判決だ」と思っていました。最終的にやり直し(裁判)の判決で、無罪から一転して罰金2千円の有罪判決。2千円払うのはいろいろあったんだけれど、最終的にかみさんが払った。何日に払ったのか、ほとんど記憶がないね。だけど払ったことは払ったんだよ。払わないと、内藤先生曰く、「とっ捕まって牢屋行きになる」と言うわけよ。「だから払うしかねえぞ」と言われたんで、俺も納得したんだけどね。

解禁アメリカ公文書で明らかになった日米の密議
砂川事件裁判も、最終62年で有罪が確定して終わったわけね。そうしたところ、2008年4月29日、電話が掛かってきた。出たら毎日新聞の記者だった。「どういう話ですか」と聞いた。「土屋さんは砂川事件の被告ですよね」と言うから「そうです」。「実は国際ジャーナリストで研究している新原昭治さんという方がいて、アメリカ国立公文書館で当時の砂川裁判の最高裁の裁判の時に、日米間で密約があって、それの情報公開があって、その資料を新原さんが発表をすることになったので、土屋さんに一言それに対しての感想を聞きたい」と言う。それを聞いてビックリした。「当然、そんなことは絶対に許せない。容認できることではない」というようなことを言って、翌日の30日の新聞に結構大きく記事が出ました。
それで早速僕は新原さんに「お会いしたい」と電話して、新原さんが「会いましょう」ということでお会いすることになった。そうしたら新原さんが電報14通の原文の写しと、日本語に翻訳したものを持ってきてくださって話を聴いた。
聴いたら、新原さんは公文書館には砂川事件の調査で行ったのではなく、ベトナムの問題で調査に行って、最終日の夕方に帰ろうかなと思って、確認のためにもう一回りしてみようと思ったら、たまたま「SNAKAWA」という文字が目に入った。何だろうと思ってみたら、どうも砂川事件の裁判の件らしい。時間がないのでコピーをして宿舎に帰って、読んでビックリしたということだった。最高裁での裁判中に、田中耕太郎(最高裁長官)とマッカーサー大使が、要するに密談密約をして、それも30日に(伊達)判決があって、31日の朝、マッカーサー大使が藤山外相を呼んで、「日本には最高裁に直接上告できるという跳躍上告という制度がある。これを使ったらどうか」と。それに対して藤山が「早朝9時からの閣議にかけて、その方向を決定したい」と返事があった。
それで15人の最高裁の判事の意見を(伊達判決を)破棄させるために一致させる。それからできるだけ短期間で決定を出す、等々の密約をしているということ。それともう一つ分かったことは、たまたま最高裁の裁判の時に、台湾海峡の金門島事件という紛争があって、その紛争に対して、横須賀の第七艦隊が出動したんですよ。それに対して内藤さん(弁護士)が「あれはまさに軍事行動であって、当然、米軍は日本に基地を置く軍事力である」という質問をしたら、検事が答えられなかった。それで後になって公文書で分かったんだけれど、検事がアメリカの大使と打ち合わせをして、本国に回答を要請している。回答はどうだったかと言うと、「出動ではない。たまたま第七艦隊が海上にいただけだ」と。そういう回答をしろと言う。そういうことがみんな明らかになってきた。だから、これはこのままにしておけない。

「伊達判決を生かす会」の発足と情報開示請求
まず一つ考えたのは、もう1回砂川闘争、そして伊達判決、これを多くの人に知ってもらいたいということ。それと、当然日本側にもこういう文章があるはずだと考えたから、情報開示をやろうと考えた。たまたま静岡に中村さんという弁護士がいて、彼と相談して彼が代理人になった。彼がこれに対して専門の東京の三宅先生を紹介してくれて、彼と三宅先生が私の代理人になってくれた。と同時に、もっと広げるために、まず坂田さんに連絡をしようと思った。だけど40数年音信がないんですからどうしようかと思ったけど、坂田さんに電話したら、坂田さんが電話に出た途端に「源ちゃん、元気か」と言うわけよ。これこれこうだと言うと「それはいい。早速やろうぜ」と言うわけ。それで当時の学連の仲間、塩川だとかその他明大の当時運動した連中、いろんな連中に呼びかけて、たまたまそういう会合をやるというが朝日新聞がコラムに扱ってくれたんだね。それで第1回目は30人くらい集まったかな。そこで「伊達判決を生かす会」を発足させた。
情報開示請求は2009年の3月、外務省、法務省、内閣府、最高裁判所に開示請求を出した。何と「文書は存在しない」として不開示になった。異議申し立てが出来るとうので異議申し立てをしたが、不開示。何と最高裁は異議申し立ても受け付けなかった。

砂川事件再審請求へ
それで「どうしようもねえなあ、これは」と思っていたら、たまたま吉永先生が、というのは中村さんが病気で倒れて弁護士がいなくなってしまい、偶然風呂場で吉永先生にお会いして「実はこれこれこういう話で弁護士がいなくて頭が痛い」と言ったら、先生が「よし分かった。僕が引き受けてあげるよ」と言ってくれた。これが先生との付き合いの始まり。それで吉永先生が、武内先生と細川先生をいろいろあれしてくれた。そこからいろんな事が始まったわけ。
それで「何とかしなきゃなんねえな」と考えていた時に、憲法37条では「すべての刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利がある」と定めている。明らかにこの最高裁の裁判は、被害者の外国側(アメリカ)と裁判長が密談をして、1審判決を破棄するということを行ったということは、この最高裁の判決そのものが汚染されたものであるし、無効だということで、再審請求が出来るんじゃないかという話になって、「これはもう絶対やりましょう」ということで、そうしたらたまたま安倍(元首相)が2014年の国会で、集団的自衛権行使を閣議決定する。それについて、集団的自衛権行使を閣議決定するにあたって、砂川事件最高裁判決をその法的根拠にすると言う。これも全くインチキなんだよ。引用そのものがインチキ。それで我々は、(再審請求に)もうちょっと時間がかかるという状況だったんだけれども、吉永先生に「このまま見過ごすわけにいかないから早く出しましょう」ということで、その年の6月17日、国会開催中に抗議を含めて再審請求を出そうということで再審請求を出しました。ところが全くおかしな理由で東京地裁、東京高裁が棄却。
(注:2014年6月、「公平な裁判所」による裁判を刑事被告人に保障した憲法37条1項に違反していたとして 東京地裁に再審請求をした。これに対し、2016年3月、東京地裁は再審請求を棄却し、請求人は東京高裁に即時抗告をしたが、東京高裁は上記の抗告を棄却するとの決定を出し、これに対し請求人が最高裁に特別抗告を申し立てた。最高裁は 特別抗告を棄却した。決定の理由は、特別抗告の理由が、単なる法令違反の主張であって、「憲法の違反、憲法の解釈の誤り」の主張ではない というものである。)

砂川事件裁判国家賠償請求訴訟
しかしこれで終わるわけにはいかない。無罪できたものが、あんなインチキな裁判で有罪になった。人権も無視され、そして名誉も棄損されている。このまま放っておけん、という思いもあった。そうしたら竹内先生が「これは名誉回復のための国家賠償請求が出来る」という話があった。「これは先生、絶対にやろうよ」ということで、今度は竹内先生が中心となって国家賠償請求の訴訟を行うことになった。
当初、こういう問題だから時効だとかいろんな問題があるから、すぐ撥ねられると思ったが、何と13回続いた。これは本当に弁護団の先生方の力、それと応援して下さった皆さん方の力、これがあったからこうやって闘えてきた。改めてお礼を言いたいと思います。本当にありがとう。(拍手)
今年中には判決が出る可能性が大きいと思います。だけど、これで終わらねえんだよね。どちらにしても高裁、最高裁までこの裁判は行くでしょう。だから、もう一つの闘いは、どれだけ長生きするかなんだよ。(拍手)これが私のこれからの闘い。よろしくご協力ください。(拍手)
(注:<国家賠償請求訴訟の内容>
憲法37条が保障する「公平は裁判所」の裁判を受ける権利が、田中耕太郎裁判長によって侵害された結果、有罪になった元被告に対し
①権利を侵害されたことに対する賠償金として各人に10万円
②支払われた罰金各2千円の償還
③国による謝罪広告の掲載
を請求する。)
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命を守り、平和を守る運動を一層進めて行こう
岸田政権はハト派何と言われて、一見穏健なように言われている。ご承知のとおりとんでもない話で、彼は2022年12月、閣議決定で外交・防衛政策の基本方針「国家安全保障戦略」など安保保障関連3文章を改正したんですよ。その中の一つが敵基地攻撃が出来る。明らかにこれは憲法9条違反でしょ。それを平気で閣議決定でやる。それと同時に軍事費をGDPの5%まで持ってくる。この5年間で54兆円。これは軍事大国ですよ。本当にそうなったら、アメリカ、中国に次ぐ3番目の軍事大国になるんじゃないですか。あっていいんですか、そんなことが。今、米軍基地に迎撃用ミサイルPAC3の配備が進んでいます。と同時に、沖縄の石垣島、宮古島などに自衛隊基地をどんどん作っている。そこへ何とPAC3を導入するんですよ。そういう作業も進めている。同時に、1,500キロメートル以上も射程距離のあるトマホークというミサイル、これは攻撃用ですよ、これを相当の台数、アメリカとの間で購入する契約を岸田がしているんです。実際に国民の命を犠牲にすることをなんとも思っていないという内閣なんだよ。このまま行ったら日本の国はどうなる。実際に彼らは今のウクライナ問題だとか台湾問題をさかんに煽って、「危険だ、危険だ」と言っています。
ご承知のとおり、昔米ソが対立した時に、「抑止力」という名の下に、原爆開発競争がどんどん続いたんですよ。「抑止力」なんてインチキなんですよ。軍備を拡大するための名目でしかないんです。こんな事は絶対に許されていいもんじゃないですよね。
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(2023年3月4日、「止めよう!辺野古新基地建設県民大行動」でスピーチをする土屋さん)
しかし残念ながら、まだこれに対する闘いが十分に行われているとは思えません。先般、沖縄にも行きました。沖縄の人たちは一生懸命闘っている。しかし、沖縄でも本土と同じように高齢化が進んでいますから、座り込みの人たちもやっぱり減っています。昔は沖縄の人たちからは、「本土から支援に来て、ただ支援をしたということで帰って報告して終り、それじゃ困るんだよね」ということをよく聞かされました。ところが今は、沖縄の人たちは本気で本土からの支援を求めていますよ。我々も支援に行く必要がある。ですから皆さん、時間があったら沖縄に行って、もう1回沖縄本島の状況、そして辺野古の基地なんて絶対に作れるような状況じゃないんですよ。それを政府は依然として埋め立てをしようとしている。それも、沖縄戦で戦死した、殺された島民の人たちの骨がある土を混ぜ、投入しようとしている。そんな事は許されません。ですから、現地を見てくることも大事だと思いますよ。
本土でもっともっと我々も声をあげていく。だって横田だって本当に基地のそばですよ、家がいっぱいあるのは。岩国だってそうです。日本の本土の基地だってみんなそうなんですよ。
ですから我々は本当の命を守る、そして平和を守っていく、そして戦争をしない、しっかり憲法9条を守っていくという、そういう運動をこれから一層強めていく必要があると思います。何しろみんなで力を合わせて運動を進める。こういう運動というのは何しろ辛抱がいるんだよね。疲れてくるんだよ。だけど諦めない。要するにあきらめずに諦めずに闘っていく。だって子供や孫の世代まで影響するんだもの。やっぱり若い人にこのようないろんなことをもっともっと知ってもらう。それは我々の責任でもあると思います。みんな力を合わせて、これからも闘いを一層強めていきたいと思っています。私の話はここで終わりにします。
(拍手)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
はたちの時代
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月1日(金)に更新予定です。

2023年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から56年目となる。この日は10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には蒲田で記念集会があった。
今回のブログは、その参加報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を報告する。

10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会チラシ
(チラシ)
2023年10月8日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前11時
京浜急行「天空橋」駅から歩いて10分ほどで羽田・弁天橋に到着。今年は猛暑が続き、10月というのに長袖腕まくりで十分なほどの陽気だった。

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(弁天橋)
弁天橋を渡ると、橋の欄干にはメッセージが貼り付けられていた。前年の55周年の日にも欄干に花が添えられていたが、大田区内で「子ども食堂」をやっている方だった。その方は今回初めて追悼式に参加された。

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(欄干のメッセージ)
午前11時15分
参加者の集合場所は弁天橋を渡ったところにある鳥居の前の広場。広場のテーブルの上には山﨑博昭君の遺影と花束が置かれ、参加者が集まって来た。

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(広場に集まる参加者)
午前11時30分
弁天橋前での追悼の小集会が始まった。参加者は30数名。
最初に山﨑博昭プロジェクト代表の山﨑建夫さんから挨拶があった。

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(山﨑建夫さん挨拶)
「おはようございます。今日もたくさん集まっていただいて本当にありがとうございます。こんなに集まるとは思っていなかったです。
これから行くお地蔵さんですが、お地蔵さん作って思ったことがあるんです。あちこちでお地蔵さん見かけるけども、今まで特に気にしていなかったんですけけど、それぞれのお地蔵さんに、それぞれの人たちや家族の思いを込めて作っているんだなと、そういう立場になってよく分かりました。
今日は長い1日ですけれども、よろしくお願いします。」

次いで佐々木幹郎さん(発起人:詩人)から発言があった。

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(佐々木幹郎さん発言)
「お地蔵さんというのは、向こうに見える東京湾の水難事故の人たちのお堂があります。そのお堂のところに私たちが山﨑地蔵と呼ぶ地蔵菩薩が鎮座しています。
ここでの黙祷が終わったら、全員でお参りしていただきたいと思います。ちょうど地蔵が、山﨑博昭が斃れた弁天橋に向くようにしてあります。
(山﨑博昭は)11時30分から40分、機動隊の警棒によって撲殺されました。マスコミなどは装甲車によって轢き殺されたというフレームアップをしましたけれども、私たちは2017年に「50年目の真相究明」『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』所収)ということで、99.9%機動隊によって殴り殺されたと立証しています。
誰が何と言おうとも、私たちはこの7年間、毎月8日の日にここに集まって、月命日のお参りをしてまいりました。ここに来るたびに、私は18歳、19歳の時に毎回戻ることができます。こんな珍しい場所はないと、私はいつも思っています。今日も来る時に、山﨑(博昭)が弁天橋の向こうで待機していた場所から橋を渡ってきました。そのたびに感慨、思い出すことは毎回違います。とても面白い。我々は、幸い後期高齢者になってもここまで生き延びてきました。その18歳、19歳の時よりもっと長い物語を皆持っていると思うんです。それをクリアして今日はここに集まって、そして、それを知らない若い世代の方も今日は集まって下さって、とても嬉しいことです。
それでは黙祷します。」

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(黙祷)
黙祷の後、弁天橋を背景に全員で記念撮影を行い、近くの五十間鼻無縁仏堂に向かった。

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(記念撮影)

【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時50分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)

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(鳥居の前の広場から見た五十間鼻無縁仏堂)
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
潮が引くと、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現す。こ
桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれており、弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
お堂では福島泰樹さん(発起人・法昌寺住職)が読経し、参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。

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(桟橋を渡る参加者)

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(平和地蔵に手を合わせる参加者)
平和地蔵はコロナ禍の間はマスクを着けていたが、もうマスクは外している。

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(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。
萩中公園でバスを降りて、福泉寺へ。

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(福泉寺)
【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午後零時25分
参加者は本堂の裏手の墓地の入り、入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。
福島泰樹さんが読経し、参加者が順番に線香をあげ、手を合わせていた。

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(墓碑に手を合わせる山﨑建夫さん)

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(山﨑博昭の墓碑)
墓碑の山﨑博昭の文字は、昔の中国の青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字である。山﨑博昭君の高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いたものである。
墓碑の下にある墓誌(記念碑)には、以下の文章が刻まれている。

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(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立

参加者と墓碑を入れて記念撮影。

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(墓碑を入れての記念撮影)
参加者は公園内にある集会所の地下の食堂や、借りている集会室で昼食。
事務局メンバーはバスで午後の集会の会場である蒲田の大田区消費者生活センターに向かった。

【56周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
「10・8羽田闘争56周年~半世紀を超えて戦争反対の思いは今~」
午後2時
午後の記念集会は3時から。それに向けて会場設営が進む。

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(横断幕を張り付ける関係者)

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(北井一夫さんの写真)
午後2時30分開場。

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(受付の様子)
●開会・代表挨拶
午後3時
佐々木幹郎さんの司会で集会が始まった。参加者は約70名。

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(司会の佐々木幹郎さん)
15時になりましたので開会させていただきます。私は司会の佐々木幹郎と申します。
10・8山﨑博昭プロジェクト2023年秋の東京集会です。タイトルは「半世紀を超えて戦争反対の思いは今」。私たちは今日、弁天橋に11時半に集まり、黙祷し、そして五十間鼻無縁仏堂にある山﨑地蔵にお参りをして、そこから福泉寺にある墓碑および墓碑銘にお参りをしてきました。総勢、大体40人の方が集まっていただいて、大変賑やかな会になりました。
山﨑が死んでから56年、こんなに多くの方々が山﨑のことを思い出して今日集まって下さったことを本当に感謝いたします。
では最初に、山﨑建夫さんからご挨拶をお願いします。

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(山﨑建夫さん挨拶)
たくさん来ていただいてありがとうございます。ちょっと寂しくなるかなと心配していたけど、そんなことない。朝(午前中)も結構たくさん集まっていただいてビックリしました。
一つだけしょうもない話をしますけど、菊の話。去年、事務局の人から「弟さん、菊の花が好きやったね」と言われて、「そんなことないですよ」と言ったら、「本に書いてあったんですよ」と言われて、「どこの本か教えて」ということで、その時はそれまでの話だったんです。
機会があって、僕たちが作った本『かつて10・8羽田闘争があった』の資料編の中の週刊誌の記事の中に、「お前(弟)が好きだった菊の花を供えよう」なんていう一文があるんですよ。弟と菊が好きだというような話をしたことないし、もちろん記者が書いた記事に目を通しているんですよ。目を通しているけれども、文の流れがいいし、それでいいかなと思ってたぶん認めたんやね。菊の話がどうなってくるか、あまり意識していなかったですね。
中学2年生のころには、家に日の丸の旗がないのを不思議がって、「何でうちにないの」と言ったら、ただ貧しかったので無かっただけなんですが、親が買ってきたのを覚えています。
だから日の丸や菊についてはその程度の認識しかなかったから、記事の内容も許してしまったと思うんです。あの記事については、弟が菊を好きだったわけではありませんので、訂正させていただきます。
あと今日は(会場に)10・8の写真もありますけれど、僕はさっき言った程度の政治的認識だったんだけれども、10・8で何が何だか分からないような青天の霹靂で、突然起こった出来事で、しかも被害者が自分の弟であるというところで、とにかく動転していましたね。
大学3年生、4年生の間は様子を見ているだけでしたけれど、自然に学生の側に身を置いていましたね。そこからいろいろ勉強もしていった、そんな感覚なんです。
『怒りをうたえ』を楽しみにしております。(拍手)

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(会場の様子)
佐々木幹郎
今日は第1部と第2部に分かれていまして、第1部は映画上映『怒りをうたえ』です。これは全体をDVDにして販売されているんですけれど、大変長いです。今日は、その編集委員会の東條守さんから『怒りをうたえ』をこの会用に45分にまとめた編集版をみなさんに観ていただきます。
解説を東條守さんからお願いします。日大全共闘の文理学部の情宣部長をやっておられました。東條さん、どうぞ。
●第1部 映画『怒りをうたえ』編集版上映
<解説>
午後3時8分

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(DVD編集委員会 東條守さん)
本日は、羽田闘争56周年ということでありますので、私と山﨑博昭さんとの関わりを最初に述べさせていただきます。
10月8日当日、日大の2年生で羽田弁天橋にいた私は、その日亡くなったのが京都大学の学生らしいというのが分かる程度でした。ここに『かつて10・8羽田闘争があった』資料編を持ってきました。この本の332ページに「変革のパトス」という(ビラの)写真が掲載されています。これは山﨑君が所属していた京都大学のマル学同京大支部機関誌の名前になります。山﨑君がガリ切りをして、あるいは原稿を書いたかもしれないビラです。この本のおかげで、すっかり忘れていたことを思い出しました。

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(「変革のパトス」『かつて10・8羽田闘争があった』資料編より転載)
1968年に日大闘争が始まり、文理学部闘争委員会が発足し、闘争委員会の機関誌を出すことになり、情宣部長だった私の仕事になりました。機関誌名をどうするか。その時閃いたのは、日大の変革と日大生の性格、どちらかと言うとロゴスよりは決起の心、パトスが似合うだろうということで、「変革のパトス」と機関誌名を決めました。もちろん、京大の山﨑君のところと同じ名前だということは承知していましたが、彼の志を受け継ぎ、私の決意でもあり、他の選択はありませんでした。私と山﨑君とを繋ぐ一つのエピソードです。
さて、本日のテーマになります。これから上映をいたします『怒りをうたえ』は、本日のプログラムとの関係で45分と依頼されていました。第1部から第3部までを紹介していくと、どう短縮しても、49分40秒の作品となり、依頼より5分多くなりました。
私がDVD版の編集に関わる時、最初に考えたのはこの問題でした。ユーチューブに『怒りをうたえ』がアップされていることは知っていました。若い人に『怒りをうたえ』を観てもらいたいという動機が最初にありましたから、どうしたらユーチューブに慣れた若い人にも手軽に観てもらえるか、編集されていない長編記録映画は、やはりユーチューブでもしんどいに違いないと思いました。興味ある闘い、あの集会の場面だけ観たいという若者、あるいは視聴者には8時間の長編動画はストレスに感じることも少なくありません。
そこでどうするか。今回のDVD新編集版『怒りをうたえ』で参考にしたのは、ユーチューブでも使われているチャプター機能です。チャプター機能を使うことにより、書籍の目次と同じように、動画に収められている各項目が一目で分かるようになります。チャプターがあれば、自分が観たい場面だけに絞って観ることができます。結果的に若者、視聴者の利便性が高まり、『怒りをうたえ』に好印象を持ってもらえる可能性が高まります。今回は8時間作品を、DVD3枚組24チャプター、ナレーションの字幕付きとして編集しました。手短に観たい場面だけを自宅で、あるいは何人かで会議室で観る、テーマ別に運動、闘いの意味を深く理解するために、何度か繰り返し鑑賞するというニーズに答えております。
主だった編集箇所は次のとおりです。
第1部から第3部までの本編に、それぞれ各8個のチャプターを入れ、シーン選択が出来るようにしました。そのためにメニュー付DVDとして作成ました。(中略)
『怒りをうたえ』ではナレーションがたくさん入っています。それにすべて字幕を付けて編集しております。とても観やすいと思います。
また、登場する数多くの労働者、学生、市民、活動家、農民、政党、労組幹部の肩書と氏名を、可能な限り表示しました。
闘争下の合唱の場面が何度も出てきます。「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」など。若い人にも共有していただければと、曲名と歌詞の字幕を入れました。60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんの墓前祭で流れてくる「同志は倒れぬ」「忘れまい6・15」などは、本DVD版で覚えていただきたい歌詞とメロディーです。
宮島義勇監督は、1998年に89歳で逝去されましたが、撮影に当たっての基本姿勢は「機動隊の後ろから撮るな。闘争している側から撮れ」と常に言われていたそうです。また、「この記録映画は芸術作品ではなく政治的アジビラとして観てもらいたい。君たち、アジビラとして受け取りたまえ。手から手へ、自分の手で」と語っています。
DVD版『怒りをうたえ』は、アジビラに一歩でも近づいていれば幸いです。
最後に1992年10月以降、『怒りをうたえ』上映実行委員会が結成されて、上映運動が行われていました。その趣旨を引き継ぎ、政治に関心が薄いように見える現在の若者に観てもらい、彼らに政治への関心を高めてもらいたいと思います。各地で行われている集会に足を運び、このDVD版『怒りをうたえ』を宣伝し、広めていきたいと思っています。
沖縄・辺野古の新基地建設の強行を許さず、国が県に代わって承認する代執行に抗議し、訴状の取り下げを求めて闘っていきましょう。
それでは『怒りをうたえ』ダイジェスト版をご覧ください。
<映画上映>
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佐々木幹郎
映画の上映がこれで終わりました。やはりかなり短く編集されたので、もうちょっと見たいというところで終わったりして、我々の世代が観ると、「ああ、あそこに自分がいたかもしれない」という感慨をいくつも覚えます。ですから、懐かしくご覧になった方も居られると思いますけれども、また、今日参加くださっている若い人の中では、よくこれだけ人が集まったなと、実際映像を観ないと文書だけでは分からないですよね。でも映像で観ると、本当にこんなに人が集まっているんだということがよく分かると思いますし、今日も参加しておられます山本義隆さんの若い時のアジ演説がありましたけれども。
「戦争反対の思いは今」と今回名付けましたけれど、やっぱりこの映像を観ると、あの時の思いはそのまま、ほとんど骨格の中に残っているなという感じが私なんかはしてしまいます。
もう一つ紹介しておきますが、今日は重信房子さんが来ておられまして、重信房子さんの『はたちの時代―60年代と私』という本が出ております。あの映像の中に映っていましたでしょうか?この本を欲しいという方は申し込んで下さい。よろしくお願いします。
休憩にします。

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(会場の重信房子さん)
<休憩>
午後4時20分
●第2部 行動し発信する学生たちから「沖縄、気候変動、入管問題」など
コーディネーター 小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
登壇者      中村眞大さん(明治学院大学)
         白坂リサさん(慶応義塾大学)
         降旗恵梨さん(立教大学:BOND外国人労働者・難民と共に歩む会)
小林哲夫さん
2020年代の若者の社会運動、今の『怒りを歌え』からちょうど54~5年経った、今の2020年代の学生が、社会とどう向き合い、どう考え、どう議論し、どうやって発信し、どのような行動をしているのかについて、話を進めたいと思います。
(第2部の内容は、後日ブログに掲載しますので、今回は省略します)
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(第2部登壇者のみなさん)

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(小林さん、中村さん)

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(白坂さん、降旗さん)

●閉会挨拶
午後5時30分
北本修二さん(発起人:弁護士:山﨑プロジェクト関西運営委員会)

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(北本さん)
今日は山﨑博昭君の56年目の命日であります。たくさんの方にお集りいただいて、本当に感謝しております。
(録音状態が悪く聞き取れないため、挨拶は省略させていただきました)

●閉会
午後5時40分

午後6時30分より、会場1階の中華料理店において懇親会が開催されました。
30数名の参加があり、懇親会も盛況でした。
関西集会は、11月5日午後2時より「エル大阪」5F視聴覚室で、開催予定です。
内容は『怒りをうたえ』ダイジェスト版上映と、「行動し発信する学生たち」の発言です。
関西地方にお住まいの方は、こちらに参加をお願いします。

(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月10日(金)に更新予定です。

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