今回のブログは、昨年(2020年)12月に開催した明大土曜会での土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会)のお話である。
No571でお話の前半部分(砂川闘争の裁判や安保・沖縄問題など)を掲載したが、今回は後半部分を掲載する。
「明大の自治会と全学連」について語っていただいた。

1

【土屋源太郎さんとのフリート-ク 後半】
明治(大学)の自治会とか全学連について、少し話します。
そもそも全学連というのはどうして出来たかというと、1945年が敗戦。1947年に国公立大学の授業料値上げの動きがあった。その値上げに反対する闘争が自治会で起こって、その国公立大学の授業料反対のための全国協議会ができた。それまでは全国組織がなかった。授業料反対の闘争があって、授業料値上げを阻止できて、それを契機に全学連が結成された。だから当時の全学連は東大中心で国公立で作った。47年の翌年に全日本学生自治会総連合の結成大会があり、組織ができた。だから明治は当初は全学連に入っていなかった。
明治が全学連に加盟したのは1953年。それまでは会員ではないが、行動は共にしていた。血のメーデー(注:1952年5月1日、第23回メーデーの日。皇居前広場周辺でデモ隊と警官隊が衝突、騒乱罪に問われた事件)にも参加していた。なんで明治が(全学連に)参加できたかというと、明治大学というのは、昔はひどかった。不正入学が横行していた。それで俺が(明治に)入った1953年の7月1日に、「7・1スト」というのをやった。昔は明治大学は各学部に学生会があって、その上に中央委員会があるんだけど、その上に会長というのが居た。それは大学側の教授。それが最高責任者だった。自治会じゃない。そういう問題があったりして、1952年くらいから自治会と理事会が交渉していたがなかなか応じない。昔は理事会に大学教授が参加していない。それで教授会からもいろいろ意見が出て、7月1日に明治大学始まって以来の全学ストになった。
(土屋さんのコメント
1953年7月1日、明大全学ストは学園の民主化、自治・学問の自由の闘いでした。
この闘いのもう一つの特徴は、教授会の全教員も共にストライキを行ったことです。
そこで得られたことは
①暴力団体など利権に汚れた悪質理事を追放し、理事会を正常化したこと。
②評議員会に多数の教授が参加することが決まり、学生、教授の声が届くようになったこと。
③学生会の上にいた教授の会長制を廃止して、学生自治が確立し、全学連加盟もなされたこと。
④授業料と学生会費は学校側が同時に徴収することにしたこと。
⑤集会やポスター張り、チラシ配布を許可制から届出制にしたこと。集会の自由。
⑥大教室の詰め込み授業の改善。何年に渡っても同じ教科書を使い、学生に買わせる授業はやめさせる、などの改善。
⑦大量入学、裏口入学をやめさせた。理事会に認めさせた。
⑧文科系の部活(サークル)が、部室も狭く部室もない状況を改善し、部室を獲得し、文連通りを作り、社研、民科、論潮、アソ研、朝鮮研、学生新聞などに活動家が集まり、明大の学生運動の拡大が出来たこと。
などなどです。
しかし現状はこの姿がまったく無くなったこと、残念です。)
それが俺が学生運動に入る一つのきっかけにもなった。「7・1スト」があって、全学集会があって、その時に大学側の会長を廃止して、全学連加盟も決めた。そこから全学連、都学連に加盟することになった。それまでは明治大学は自治なんて名前だけという状況だった。学生大会の代議員枠を体連が3人、応援団が2人、文連が2人、理科連が1人出すことになっていた。体連と応援団は反自治会派なので、大会ごとに特別決議ということで全学連脱退を出してくるが否決されるという状況があり、絶えず右の勢力との対立があった。当時、法学部は伝統学部なので自治会の中で一番右寄りだった。それが「7・1スト」で分解してしまう。それで我々が新しく自治会の執行部を作った。その後、俺が法学部自治会委員長から中央委員会の委員長になっていく。
我々は授業料と合わせて学生会費を学校側に徴収させることをさせた。学生会費がきちんと入ってくるようになった。全学連からすれば、ある意味で明治大学が金庫として非常に大事だった。学生会費の分配もやらなければいけない。体連とか応援団、文連などと分配する会議をやった。それと理事者との年2回の会談もやった。最初の理事会との懇談会に出た時に、昼食にうな重が出た。こんなに美味いものはないということで、学生部長に「理事会の時の昼食は必ずうな重にしてくれ」と言ったら、必ずうな重が出た。(笑)うな重を食べる機会がなかったからね。当時は中心になっていたのは法学部、文学部、経営学部だった。工学部とか農学部は右寄りだった。オルグをかけるのも生田に行くのも大変。雨が降ると道路が舗装していないから滑って転んですごいんだよ。何しろ絶えず対立があった。
商学部は反対派の中心だった。明治の自治会の歴史は面白い。

2

Q:土屋さんは大学に何年おられたんですか?

6年。俺がちょうど6年になって、6年の卒業の時期の3月に学部長が呼んでいるということで、学生部長と学部長のところに行った。そこで学部長が「総長が会いたいと言っている」と言うので学長室に行った。(学長が)何を言うかと思ったら「土屋君、そろそろ卒業しないか」と言う。卒業しないかと言われたが「僕は単位不足です」と言った。卒業しないために、ちょうど必修のドイツ語の単位を2単位残しておいたから。実はその前年の夏に、長崎に原水爆の関係で行くためのオルグに行ったら、たまたま俺が落としていたドイツ語の補習授業をやっていた。その補習授業に知らないで行って、オルグをやるために少しの間、後ろで聴いていた。それが分かったんだな。(学長が)「土屋君、補習授業に出ているじゃないか。単位を取る気があるんじゃないの」と言う。「単位を認めるから卒業してもいい。担当教授もそう言っているから、この際、卒業しませんか」と言われた。
ところが、俺の全学連書記長としての任期は59年の6月までなので、それまでに卒業したら学生でなくなる。当時、森田(注:森田実)が学生の資格をなくして相当問題になったことがある。それもあるので、卒業したらヤバイと思った。「1週間検討させてください」と言って持ち帰った。当時、学連内部でいろいろ議論があって、6月で若手に交代するということになった。それでこの際だから卒業も考えるかということになり、革共同の専属でやろうと決めた。
学校に行ったら「土屋君、どうですか」と聞かれたので「卒業します。ただし、条件があります」と言った。「何でもいいから言って」と言うから「実は3月卒業はマズいので、6月卒業にさせてもらえませんか」と言った。「6月に本当に卒業するのか」と言うので「6月に卒業します」と言って6月に卒業することになった。それで6月の任期が終わって、唐牛や清水丈夫たちが指導部になった。
それで6月に学校に行って、学生部長のところで「卒業します」と言った。総長室の金庫から総長が俺の卒業証書を取り出して、そこで読んで卒業した。だから不正卒業みたいなもの。卒業証書の日付はまともな3月の日付になっていた。当時は、卒業する時に校友会費を取られて名簿に登録されるが、俺はまともな卒業ではないので名簿に載っていない。それで校友になっていない。お陰様で明治大学ではいろんな勉強をさせてもらいました。

Q:56年から全学連が砂川現地に常駐するようになるが、全学連が砂川に関わるようになった経過はどのようなものか?
砂川闘争は55年から始まっている。ところが55年は全学連は参加していない。なぜ参加しなかったかというと、全学連中央執行委員はほとんど共産党員だった。基本的な三役人事も共産党の学対で決めていた。それで六全協(注:共産党の第6回全国協議会)があった時に学連内部がガタガタになった。それで55年の時は、そのガタガタを収めるために組織的な再建の途中だった。もう一つは、当時、米ソの対立から平和共存が謳われるようになって、「歌って踊ってより良き学生生活を」をスロ-ガンに、国際学連もその方針を出していたし、そういう方向に行って運動になっていない。そういう運動だったから、55年の時には(砂川闘争に)参加していない。それと、全学連というのは何となく暴れん坊が集まっているのではないかという印象が一つと、もう一つは55年の時は共産党も参加していない。それは六全協の前に非合法化して山村工作隊を作って山村に潜り込んでいった。砂川の反対同盟の場合は土地が取られるということで、地主が中心。ところが、その地主たちは山村工作の時代に共産党にやられていた。彼らにすれば共産党に協力してもらいたくないという気持ちがあったから、共産党にも(支援)要請しない。

3

55年はどういう闘いをしたかというと、反対同盟の人たちと、三多摩の労働組合協議会の人たちが戦った。これは予備測量だったために、ほとんど測量をやられてしまった。杭を打たれてしまった。「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない」というスローガンがそこから始まった。ところが、翌年の56年は本測量があるということが分かっていた。反対同盟の中で、「このままでは闘えない。そういう状況であれば総評、東京地評、全学連というところにも呼び掛けて支援を要請することが必要だ」と、当時の行動隊長の青木さんとか事務局長の宮岡さんが中心となってそういう計画を作った。
当時、各地で基地反対闘争があったので、学者、文化人が基地に反対するための「基地問題懇談会」というのを作っていた。その懇談会の議長が清水幾太郎だった。総評の岩井さん(注:岩井章・事務局長)と清水さんに、反対同盟から、全学連に会える状況を作って欲しいという申し入れがあって、当時の(全学連の)共闘部長だった森田が会った。我々も55年の闘争があった時に、ニュースで知って、こんな闘争があったのに何もしないという反省もあったから、全学連として支援することになった。俺は当時は明大の中央執行委員長兼全学連の執行委員だった。森田は、東京都の学生を中心に全国の学生三千人動員という大法螺を吹いた。実際にはそれ以上集まったけれど。それで56年闘争に入る。当時は地主が中心だから、ほとんど全員が町の権力者だから、夏休みに入ると砂川中学の講堂を開放して、ムシロとか古い毛布を引いて我々学生が寝泊まりできるようにしてくれた。それで泊まり込みができた。今では考えられないけど。それで(全学連が)参加するようになった。実際に闘争に参加したのは56年、57年なので、55年は参加していない。それで56年の時に、我々が青木さんと宮岡さんにお願いしたことが一つある。「この際、いろいろわだかまりもあるでしょうが、共産党も政党として参加させてください。それを考えて欲しい」という提案をして、宮岡さんたちも「それは分かった」ということで、共産党が参加できるようになった。ところが実際は、当時は三多摩で社会党が影響力が強かったので、社会党が前面に出るから、56年の闘争が終わった時の総括で、全学連内部で共産党との間の軋轢も生まれた。

4

その後、セクトができるきっかけとなったのは砂川闘争だった。何かというと砂川闘争の評価をめぐってだった。当時全学連の書記長だった早稲田の高野秀夫と都学連委員長の牧衷、これは留守部隊だったが、闘争になると森田たちが派手にいろいろなところに出てくるので、やっかみもあったんだろうが、彼らから砂川闘争は全学連は孫悟空が手のひらで踊らされたと同じように、総評にうまく利用されただけではないかという批判が出て、そこで内部論争があって、最終的に高野一派が(執行部から)排除される。ところが共産党はそれ(高野一派)を支持した。彼らも社会党へのやっかみがあったから。そこが共産党と我々の軋轢の始まりになる。それが独立思想につながっていく。本来は都学連委員長というのは東大の駒場から出るというのが原則だった。ところがそのゴタゴタがあったから、東大から出せなくなった。当時は共産党の学対の協議で人事を決めていたが、そこで早稲田や教育大の反対派を含めて、俺が(都学連)委員長ならばOKという話になって、俺が委員長になった。それまでは都学連委員長は全部東大だった。書記長も私大からは高野と俺の2人しかいない。書記長は京大とか国立系から出ていた。それで「6・1事件」(注:1958年6月1日の第11回大会での学生と共産党本部員との衝突事件)というのは、そういう背景が積もり積もって、共産党の本部の集会で乱闘になって、俺らが処分になった。

Q:それまでは土屋さんは共産党員ですよね。
俺は首になるまではバリバリの共産党員。明治の細胞の責任者だったので、その上の千代田地区委員会の中央委員だった。大学1年の時に入党した。だから俺の処分は新聞に出た。「6・1事件」の査問にかけられて、「赤旗」に土屋源太郎君がああ言ったこう言った、と本名で出た。というのは、俺が6・1の議長になるということに対して、中央から鈴木一郎が議長になるということで大もめして、俺が議長になって議事進行を進めたから。


5

Q::代々木側としては、「赤旗」に学生の名前を出すというのは、将来を潰すということがあったのか?
将来を潰すというより、当時、早稲田、教育大、神戸大その他いくつか(の大学)が反対派としてあった。一番問題なのは、全学連大会、都学連大会で「アメリカ帝国主義打倒」というスローガンが一番最初に出てくるが、それに対して反対する。共産党もそうだった。何故かというと、平和共存の時代に「アメリカ帝国主義打倒」というのは非常に過激なスローガンだということ。それからデモも蛇行デモをして非常に過激だった。絶えず警察と衝突する場面があった。そういう行動が要するに極左的だということで、大会の度に必ず反対派との間に対立があって、反対派が議長席を奪おうとしたり、いろんなことがあった。結局、それを収束させるという名目で、反対派を擁護するという狙いで、6・1は党の中央が我々を招集した。それが分かっていたから、議長を中央に任せたらいいようにやられてしまうということで、こちらは前の晩にセクト会議を開いて、俺が議長になることを決めて、それで乗り込んでいった。それでこちらが議長を宣告したら、案の定、中央が学対責任者の鈴木一郎を出してきた。そこから議題に入る前にぐちゃぐちゃあって、最終的に「共産党けしからん」ということで、当時の共産党の中央委員会幹部全員の罷免決議までやった。それもあったからなおさらだよ。
それまでは我々は共産党の中を変えられる、変えていける、変えていこうという努力をいろいろやった。ブントの書記長の島を、共産党都委員会の執行委員に票を集めて当選させた。そこまでやって党改革をやろうとした。だから「6・1事件」の時は、あえて島は関わらなかった。
もし何かあった場合、島までやられちゃうとまずいから、そこまでやった。島は処分にはならなかったけれど、結局ブントを作ることになった。ブントを作るのと、革共同が出来たのは基本的に何が違うかというと、トロツキーに対する評価だった。我々(革共同)はトロツキーがロシア革命の中心であったが、スターリンによって疎外されたという考え方。それが正当だと考えた。ところが、ブントの彼らにしてみれば、トロツキーは必ずしもそうではなくて、トロツキーの思想は過激である。「反帝反スタ」ということで彼らは共産主義者同盟を作る。我々の革共同は半年前に出来ていて、その後ブントが出来た。だから当時はブントと革共同で一緒にブントを立ち上げるということで、我々もブント結成大会に参加して執行委員にもなった。ところが3ケ月ももたなかった。左翼運動というののダメなところ。そこでも俺らは除名になった。革共同は細っていったよね。というのは基盤が自治会にもないし労働組合にもないから。俺も(革共同の)専従でやったけれども、1年もたなかった。食えないんだから。明治も最初は革共同が強かったけれども、俺らが手を引いたので、ほとんどブントと代々木になった。

6

Q:ブントが60年安保闘争で主導的にやっていたと思うが、その後崩れていく。その時、革共同はどうだったのか。
結局、革共同も分裂した。クロカン(注:黒田寛一)と一緒にやっていたが、彼がスパイ活動みたいなおかしなことをやっていたので、俺らが追い出した。今度は京都の連中と一緒になって運動をやったけれども、闘争課程の中で京都の方から問題が二つ出た。一つは59年に教育三法問題があって、奈良女子大とか和歌山大の教育学部などがものすごい闘争をやった。それを我々が指導した。それに対して京都側から、それが過激だという話になった。冗談じゃない、お前らは現場を知らない、という話と、もう一つは、当時ソ連共産党が革命勢力を拡大する時に、社会党に加盟戦術をとった時期があって、それに倣って、革共同の組織拡大のために社会党の青年部内に潜入して党員になって、そこから党勢拡大をしていく、それに対して俺らは、冗談言うな。小判ザメじゃあるまいし、小魚がでっかい魚に吸い付いていいかげんな事をやろうという、こんな馬鹿な話はどこにあるんだ、ということで俺はケンカになった。それもあって、革共同はだんだん力が無くなっていった。だから60年安保の時は、革共同はそんなに影響力がなかった、やっぱりブント中心。ところがブントが中心となって国会突入して樺さんが殺される。あれだけの大デモをやったけれども強行突破されて、安保条約が成立した。その総括でブントの中で対立があって、それを契機に島なんかも嫌気がさして組織から離れた。と同時に、当時、そういう過激な活動をやったために逮捕者がものすごく出た。国側は逮捕者をどんどん増やして保釈金をどんどん出させれば、組織を財政的に締め付けができる。その狙いもあって、やられちゃった。その隙を狙って昔共産党員だった田中清玄が仲介に入って、ブント全学連の財政担当に20万円金を渡した。それを契機に唐牛(注:唐牛健太郎)たちがそっちにくっついた。それでブントが再分裂していく。君らに伝えておきたいことがいっぱいある。

Q:塩川(注:塩川喜信:全学連委員長)さんはそのまま大学に戻った?
塩川は大学に戻ったけれど、あいつは大学院を出て(東大農学部)助手になった。ところが東大闘争の時に助手共闘が団体交渉に入った。団体交渉がうまくいかなくて、総長を缶詰にした。その時の闘争の中心に塩川がいた。そのために塩川は万年助手だった。塩川は(総長を)缶詰にした時に逮捕された。保釈金が当時で30万円。一緒にやってぃた鬼塚(注:鬼塚豊吉)から電話があって「塩川がとっ捕まって保釈金が30万なんだけど、20万は集まったけれど。10万何とかならないか」ということだったので、しょうがないから俺が10万出して塩川が出てきた。塩川に「助手をいつまでもやってどうなるんだ」と聴いたことがある。塩川は「生活は全然困らない」と言う。「何でだ」と聴いたら、東大は国家公務員だから公務員としては給料が上がっていく。教授と公務員の給与はべらぼうに差があるわけではない。要するに名誉だけの話だから助手だっていいんだ、ということだった。塩川は東大を定年退職した後、神奈川大学に行った。ところが神奈川大学は代々木系が強かったので、一部で「塩川を入れるな」という反対があった。最終的に仲介する人がいて、塩川は神奈川大学にずっと専任講師で居られた。塩川は大変な家柄で、父方の祖父は塩川男爵。母方の祖父は日本商工会議所会頭の足立正。だから大変な名家だった。
残念だけれど、当時都学連で活動していた5人組が4人死んで俺1人になった。残っているのは俺1人。こういう話が出来るのは俺と森田くらいで、何しろ砂川闘争の時に「車で柵に乗り入れた」なんてことを言うんだよ。向こうからジープが2台、重機関銃を積んで出てきた時に俺に何と言ったかというと、「おい土屋、やばいから少し引かせた方がいいんじゃないか」。俺が指揮の責任者だから「馬鹿言え、ここで引いてどうするんだ」と突っ込ませた。森田いわく「我々はトラックをもって柵に突っ込んだ」。
冗談言うなと言うんだよ。時々あいつはいろんな法螺吹くから。清水丈夫は元気でいるみたいだけど。

Q:由井(注:由井格;中大自治会)さんはいる。
中央大学は非常に活動家が多くて、学生大会の度に全学連加盟が却下されて、最後まで全学連に入らなかった。なぜかと言うと反戦会議の組織の中心に中大がいたから。そういう形で全学連との協力を持っていた。由井たちは正式に全学連執行部などに参加することはできなかった。ただ千代田地区委員会の委員に俺と由井はなっていた。由井はその後のことは詳しく知っている。伊達判決を生かす会でも一緒にやっている。

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
img738_1
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月23日(金)に更新予定です。