今回のブログは、6月5日の明大土曜会での講演である。
 東日本大震災による福島第一原発事故から10年。
原発事故被災者の支援を続けている「福島を救え!大震災義援!ウシトラ旅団」の平田誠剛さんから、ウシトラの10年の歩みを振り返りつつ、被災者支援の現状と課題についてお話をいただいた。

お話をいただく前の前座の話。

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平田
ウシトラは最初はボランティア団体として立ち上げて動いたんですけれども。あまりやることがなくて、避難者のところにどうやって入り込むのかということが課題で。その頃、整体師の先生が協力してくれていたので、彼を先頭に避難者のところに入っていくという方針を取りました。
雇用促進住宅、生活保護などを受けながら暮らしている人たちがいるいわき市の施設ですが、そこに避難者の人たちがある程度入っていた。そこと繋がろうということで、この整体師の先生を先頭に私たちが行く、サロンも一緒に開く、それをやりながら入っていきました。技術も頭もない私たちは、子供たちと一緒に遊ぶということをやっていました。
この子たちなんかに話を聞いて、結構避難者の人たちがどうやっているのか、ついこの間まで居たけれども、放射能のことが怖くて他県に引っ越していった。この子たちは、浜通りの方の強制避難で来ていた子なのか、前からここに住んでいた子たちなのかはわ分からないですが、子供たちの様子をそんな風に聞いていました。
パワーポイントを作るのに、少し昔の資料を見直ししていたんですけれども、結構いろんなことをやってきたなというものあるし、苦労もあったなと思い出しました。反省と情けないなという思いに囚われながらやっていました。

司会:土曜会との最初の接点はいつ頃だったかな?四大学共闘が出来た時には、近くにはいた?

平田
付かず離れず・・・。

福島の子供たちのサマーキャンプが始まって、川西町の「おもいで館」で一緒になった。それまではそれぞれ別個に活動していた。

平田
たぶん13年の夏だと思います。私たちがキャンプをやったのは12年の7月ですが、その時は全然関係なかったと思う。2年続けて同じところでやって、その時にスイカだかメロンだか半田さんが抱えてきてくれた。

12年の(原発事故1周年)の県民大会で土曜会と知り合ったたわけです。一方でその後、東京都内の(反原発)デモに行くと、ウシトラのでかい旗があって、見ると知っている人がいる。それで下北沢で結成1周年集会というのがあって、その頃から接点を持ち始めた。

司会:そういう感じの?がりがあるので、平田隊長にウシトラ10年の歩みをよろしくお願いします。

【「福島原発事故被災者支援の現状と課題」平田誠剛さん(ウシトラ旅団)
―東日本大震災による福島第一原発事故から10年 ウシトラ旅団の歩み】
(パワーポイント使って説明していただきました。)

1.「ウシトラ旅団」とは?

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「ウシトラ旅団」の旅団長であり、公認のNPOだった頃には理事長でした。今、公認NPOではありませんが、ボランティアでも勝手にNPOを名乗ってもいいということになっていますので、NPOと言っています。
ウシトラというのは、いろんな風に言われました。「赤い旅団」だとか「風の旅団」だとか言われましたが、全然そういうのではなくて、要するに東北地方、つまり丑寅の方向に行くぞと、これが「七たび旅してわれら丑寅の義兵とならん」というところです。東方の方にボランティアで行くぞ、という意思表示でした。一番最初から勝手にこういうスローガンを作って、仕事仲間に声をかけて動き始めました。
今、私は一人でいわき市に住んでいます。いわきに住むようになったのは、支援の関係で関係が深くなってきた富岡の人たちの最後を見たいという気持ちでいましたし、それから浜通りがどういう風になっていくのかという気持ちでもありますし、そこに少しでも役に立つことが出来れば、と思っています。

2.福島の復興と避難者の現状
まず現状からお話をして、ウシトラがやってきたことを振り返りつつ、今、何を考えるべきなのかというお話をさせていただきます。
結成の経緯は今言ったような感じです。震災があってすぐ、3月末か4月頭には友人と私はいわきに行っていました。それは友人のところに差し入れを持っていくということとして、ごくごく小さな個人的な形で関係を作っていったということです。そこから始まりました。
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(福島の)今ですが、20キロ圏内が警戒区域ということにされて、この警戒区域が翌々年に3分割される。3分割されて、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3つに分かれました。今、居住制限区域と避難指示解除準備区域はとっくに解除されて無くなりました。要するに住んでいいということになったんですね。帰還困難区域はまだ残っていますが、解除が進んでいます。
その解除がどうなったかという現状を見ていきます。私たちが主要に付き合ってきたのは富岡町の住民の人たちでした。でも避難者の人たちというのは、富岡のように原発の立地町、富岡というのは福島第二原発があるところですね。それからその周辺のところ、例えば広野町、第一原発で言えば立地は大熊町、双葉町それから浪江、南相馬、相馬市という風になっていて、このあたりも(原発)事故によって大きく汚染された。このあたりの避難者がいる。それから自主避難者と呼ばれる人たちがいる。震災の時の5月か6月に20ミリシーベルト問題というのが起きました。年間20ミリシーベルト以下だったら避難しなくてもいい、要するに補償もしないということです。そういうことで、浜通りからの避難者がやってきたいわき市とか、中通りの郡山とか福島とか、そこら辺でも実は20ミリシーベルを超えるところは金銭補償があって避難することができた。そうでない人たちももちろん避難したわけです。ということで、そこの人たちがいる。
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避難者はどういうものかというと、復興庁は、住居を移転して元のところに帰るという意思を持っている人というのが、定義であるらしいです。ところが、福島県から外に出た人たちのところにはうまく伝わっていない。それぞれの自治体でカウントされない。カウントされないから新聞の取材で逆に増えてしまうという話になる。それから強制避難になった町村の方は、出て行った人たちを名簿でカウントしていますから、今、全部で7万人くらいいる。ところが、福島県のカウントのし方が違っていたり、福島を出て自治体でカウントされている数が違ったりして、実際のところはよく分からないという状態になっています。
しかし、人は生きているわけで、そこで苦労しながら避難先で生きている。そういう人たちも全て避難者であると私は思っている。
今どうなっているか。
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ツアーに行った人は覚えていると思いますが、夜ノ森の桜のところまでは行けたが、そこから先はダメだった。常磐線を仙台まで通した時に、夜ノ森の駅もキレイになって、そこに行ける道だけが通れるようになった。
しかし、その周りは帰還困難区域ですから、バリケードの向こうに誰も帰れない、住めない家が建っている、という状態が続いています。
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自主避難者という人たちは補償がない。強制避難になった人たちはどういう風に暮らしているかというと、避難先で新住居を持っている。いわきであれば新しい家がたくさん建ちました。それは補償金で建てたものです。県の復興公営住宅に入った人たち、その他に少数ですが帰った人たちもいます。その人たちの精神的損害賠償、それから自分たちが持っていた財産の補償が基本的に終了しています。これもいろんな噂があります。「まだあるんだ」とか「裏で何かあるんだ」と言われますが、私は基本的に終了していると思っています。「まだ金貰っているんだろう」といわきあたりでも結構言われます。そいう意味での嫌らしい感じは続いているんすが、そういう人たちが去ったところは、さっきの写真のように解除と復興という形で進んでいる。復興が何なのかというのは、よくよく考えてみないとマズい問題です。政府と避難した自治体もなかなかそれに逆らえない。その路線に乗っかるという形でしか自分たちを維持できないという形になっています。
やられているのは、スモールタウンと言って、ちっちゃな街を作るのが続いている。もう一つは政府側が一生懸命進めているイノベーション構想というやつ。一言でいえば、原発の廃炉に向けていろんな技術を作り出すということなどをメインにして、そこで町の復興を図る。言葉を変えて言えば、原発と一緒に生きてきた町が、廃炉という中でもっと深く東電との関係が出来ている。ある人に言わせると、原発で儲けることが出来なくなったので、廃炉事業で儲ける、それを輸出産業の基礎にすると考えているのではないか。その可能性はあると思います。
北は双葉町から南は富岡、楢葉くらいまで誘致合戦をやる。これで雇用が出来ると言っていますが、そんなことはないです。
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このこぎれいな建物が大熊町役場です。その向こうの建物はシェルターみたいです。大熊町は原発事故が起きた時も、指揮を執れるようにオフサイトセンターを作っていたが、全然役に立たなかった。今、それは楢葉町にあります。大熊町がどういう風に要求したか分かりませんが、事故が起きた時に立て籠もれる建物を作った。ただし、これは人から聞いた話なので、たぶんそうだろうなという話です。
右下が住民が今住んでいる、大河原にある復興住宅です。要するに大河原を中心にして町の復興をやろう、前の町長が住んでいた地区です。そこにこういうキレイな家がずらっと建っていて、写真には出ていませんが、東電のもっとキレイな家もずらっと建っている。
つまり、東電の社員や原発で働らく人たちと、前から住んでいて戻ってきた人たちによって町を再建しようということです。それがイノベーション構想の一つの軸でもある。

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これも大熊です。こうやってまだどんどん汚染物が出てくるのを溜め込んでいる状況もあるし、この写真は大野駅から見た写真ですが、震災でダメージ゙を受けた家が、まだこうやって残っていて、要するに手がつけられていない。、ここは帰還困難区域だから最終的に壊していくんでしょうけれど、こういうのがたくさん残っているという状況です。ですから復興だと言っている町のモダンな感じと、周囲のこういう感じが大熊には一緒にあるということです。
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これは富岡町。富岡町の駅前に復興住宅が建てられています。これがスモールタウンの軸の一つです。帰る人たちというのは、だいたい年寄りですね。避難して避難先に10年近く暮らすと、三世代で住んでいた人たちは子供や孫が新しい暮らしの中にスッポリ入ってしまって、新しい仕事にも就いている。全然そういう経験を持たない人たちは行き場が無い、というわけでこっちに戻ってくる。それはちょっと町からのサポートもある、ということなんですね。ですから帰らざるを得ない人たちも結構いるということです。それでそこでしか買い物ができないようなスーパみたいなのが2つか3つくついたモールがすぐそばにあって、駅は土日は、ここを見たいという人たちが来ています
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(帰らずに)残った方は、県営の復興住宅にいます。棟ごとに各町の人たちが入っている。入り混じっているところもある。いろんな形でもめ事が起こっています。
ここは昔から水がよく出るところで、家は建っていなかったらしいです。昔の写真を見ると田んぼだったところで、そこにたくさん家が建って、いわきに住むと決めた人が住んでいる。
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警戒区域、その周辺の人たちは棄民化が進んでいます。なんだかんだ言っても、補償が終わったということにされているし、孤立している人たちが、生活苦と、とりわけ精神的な傷を負って生きている。うつ病になっている人たち、それが自殺に結び付く人たちがどんどん出てきている。さっきの復興住宅で言うと孤独死。誰にも分からないまま、孤立した中で一人死んでいく。亡くなってから数ケ月後に発見されるということも起こりました。
この右の写真は、富岡町の人たちが中心になってやっているカフェです。泉玉露の仮設住宅でやっていたものが、仮設がなくなって、そこの支援者だった牧師さんのところ、教会に場所を移して続いています。この人たちは、よくお話をそれぞれしているので、それほど精神的に追い詰められないということです。勝手なことを言ってよく喧嘩になります。
左の写真は手だけ写っていますが、1歳か2歳の時に、転々としていわきにたどり着いた子です。私なんかが偉そうに先生と呼ばせてお勉強を見ている子です。もちろん故郷のことは知らない。避難者の人たちにとって、子や孫に勉強させることはとても大事な事なんですね。それで塾に来ている子が多いです。

3.原発事故をめぐる裁判
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裁判です。何で裁判が問題なのか、やるのかというと、自分たちの要求をまとめて、政府と対峙しながら交渉して、となかなかならなかったんですけれども、それを今まとめているのはたぶん裁判です。裁判を起こしている人たちというのは、東電との1対1の交渉で妥結しなかった人です。交渉に不満があって、もっと金をよこせと裁判を起こした。もちろん彼らは金が欲しくてやっていないと見えますし、ただ、そういう喧嘩のし方というのは、民法上は金を要求することでしかできない。そういうのが、全国で30くらい起こされている。
それから刑事裁判訴訟。東電のトップ3人を被告にして刑事責任を問う。ようやく起訴まで持ち込んで、1審では負けました。結果が負けたというですが、実はその裁判で進んでいることが、その他の裁判に大きな影響を与えています。そこに出てきた証拠が使われて、(国と東電の責任を認めた)仙台高裁の判決になっています。他にも再稼働を止めろという裁判。これは私たちが関わっていますが、東電の中で起きた過労死事件が裁判で進められています。
判決で言えば、損害賠償の判決で言うと東電の賠償金は低いし認められる。しかし、国の責任で言うと半々になっている。私たちが考えていた原発労働者がどうやって生きていくのか、というところとはまだ残念ながら繋がれていない。
こういう活動の中心にいるのは、いわきで三里塚闘争をやった人たちです。三里塚というのは偉いです。こういう人たちが生き残りました。

4,「ウシトラ旅団」が目指し、やってきたこと

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のこのことウシトラ旅団も入ってやりました。泉玉露の仮設住宅に入りました。富岡町の人たちが避難してきたところで、いわきでは一番大きな仮設住宅でした。そこで6~7年付き合っていました。今はそこは解体されていますが、そこの支援をやりました。子供と一緒に遊びながら、イベントをやり、キャンプをやり、いろいろ活動をやってきました。
それから避難をしてきた人たち、私たちが付き合っている人たちの話を、東京の人たち、全国の人たちに繋ぐ。(下北沢の)「音蔵」でやった(ウシトラの)記念集会もそうですし、ある意味「シュレディンガーの猫」(の公演)もそうでしたね。
ウシトラ旅団はボランティア団体ですが、ちょっと他の団体とは違うと分かってくださればいいです。
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私たちは泉玉露の仮設住宅で活動する。具体的に言うと、イベントのお手伝いや自治会の運営について、表には出ませんがやる。避難者のまとまりを作る。彼らが意識的に生きていくために一緒に進むことを考えていました。具体的に言うと、専門家を連れて行って、放射能というのはこういうことなんだという話をしてもらったり、それから一番関心のある自分の土地や家がどのような基準で評価されるのか、専門家を派遣して勉強会をやる。それから自治会のおばさんたちといい関係を作ってもらいながら、実質自治会の動きを支えている女性たちの活動を(支援)していました。それから、総会にも端っこにいたりしていました。総会の決議の中身をこちらで準備して、これで行こうかみたいなこともやっていました。「かっちょい」と言うのは、活動調整委員会のことで、自治会の役員とボランティアの3者、ウシトラ旅団、テモテというキリスト教団体、グレース教会に参加してもらってもらいました。素晴らしいデザインの自治会新聞も作りました。
これが私たちがやってきたことです。
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私たちが大きく関わることになったのは「餅つき」からです。(2011年の)9月に500人くらいが暮らせる仮設が完成して、そこに皆さん集まってきた。1万4千人の町民が集まったが、知っている人があまりいない。シャッフルされたわけです。だから集まった人たちが自分たちで新しいコミニティを作らなければいけない。全然わからない人たちがどうやってまとまっていくのか。「餅つき」ってすごいですね。何が大変かというと、準備が大変。準備が大変だとみんな仲良くなる。それをやって、旗を持ち込んで「賑やかし」をやっていました。茨城から獅子舞に来ていただくこともやりました。
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これが重要です。
(写真右上は)テントを畳んでいる最後の撤収のところですが、この人は「いわき自由労組」という小さな労働組合のメンバーです。港で働いていますが、原発労働者や除染労働者の支援や組織化をやってきた人です。そういう人も私たちが繋ぐ。ここから港の労働者や社民党の人たちとの?がりができている。
初めての「餅つき」は大変だったけど楽しかったです。いわきの泉のビバリーヒルズといわれている高台に住んでいるケーシー高峰さんも降りてきて、一緒に楽しみました。さすがにプロですね。話がめちゃくちゃ面白い。
こういうことも重要なんですが、支えているのはおっかさんたち。あまり表には立たないし目立たないけど、実質を握っている。いざとなったら男どもが言っていることを、全部一瞬にして粉砕します。それだけの力があるということです。
「どうせ男どもは杵を付くことと食うことしか考えてないだろう。私たちに任せなさい。」と言ってやる。「その代わり貴方たちは、私たちの言うことをちゃんと聞かなければいけません」。強烈でしたね。こういう存在がいたというのは。
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これが全景です。一人暮らしの1部屋だけのところもあるし、2DKのところもある。これ(写真右上)が総会で決議した中身です。要するに自分たちでどういう要求をするのかということを公然と言っていないんですよ。つまり大衆運動的に表現される形で言っていない。それを何とか見える形にしたいと思って5つにまとめ、総会で決議しました。
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政府は生活保障を行え
東電は被害に応じた補償を直ちに行え
富岡町当局は、国、東電に補償実現を要求する先頭に立て
国、県、富岡町は双葉郡住民のための暮らしと健康を守る施策を直ちに実施せよ
双葉郡は一つだ ともに力を合わせて困難を生き抜こう

これが2012年の4月の総会で決議されました。それで、集会場の入口のところにずっと張られていました。東電と賠償の交渉に行くときは、まずこれを読ませろ、と住民の人たちは言っていました。口ではそう言ってもやらせられない。後になって、仲良くなったおじさんが「この中身を本当は一斉に福島県中に建っている仮設住宅に行って、この決議をさせて動かなければいけなかった」と言っていました。
これ(写真左下)が2012年の3月11日の合同慰霊祭。富岡町の役場は郡山に行っていたが、郡山よりいわきの方が避難者が多かった。いわきの方でも合同慰霊祭をやりましょうという話になって、この仮説住宅の人たちが自分たちで準備して、そこに仮設住宅に入っていない人たちもやってきて、一緒に慰霊祭をやりました。ところが聞いてみると、この年、郡山でやってないという話でした。ということは、富岡町で、住民自身で行った唯一の慰霊祭になります。面白いのは、富岡町のお坊さんが総力動員でみんな来ている。それからテモテ(キリスト教団体)の神父さんが聖書を開きながらお経を聞いている。そういう状況で合同慰霊祭が行われました。
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これがその年のお花見です。住民が「お花見したい」と言うんです。富岡町の人たちは夜ノ森の桜を毎年楽しみにしていたんですけれども、「行けない」と私たちが言っても、「いや行きたい」と言って、どうしようか、いざとなったらバスを借りて希望者を乗せて回ってこようと思ったんですけれども、良識が勝ちました。結局、いわきの高台にあるところでお花見をやりました。なかなかいい花見でした。
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これが子供のキャンプです。これも私たちが送った横断幕です。旗は大事ですね。これに味をしめて、熊本に行く時の横断幕など作りました。
私たちにとっての3年目のキャンプです。基本的に、子供たちは大事にしないということを考えていましたので、自分たちで火をおこして、自分たちで魚を釣らないと食えないというところに追い込んでやりました。立派に出来ました。子供たちのそういうところを引き出せたかなと。私がモンベル(アウトドア・メーカー)から帽子を取り寄せて、みんなに渡すから並べと言ったら、大きい子たちはちゃんと小さい子を前に並ばせて、ものすごく礼儀正しくて統制がとれているんですね。でも思いましたね。ずっとそうやって強制されて生きてきたんじゃないのかという、ちょっと辛いものがありました。
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「シュレディンガーの猫」(の公演)を皆さんの協力を得てやらさせていただきました。会津の大沼高校の演劇部の人たちがやっている演劇を観て、どうしても東京でこれをやらなきゃと思ってお願いしました。たくさんの人たちの協力を得て実現することができました。ものすごく話題になりました。お陰様で、今も全国の中学校、高校で演じられ続けています。この翌々年の中学校のコンクールでは、「シュレディンガーの猫」をやった学校が優勝しました。シナリオがとても優れている。
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あと、現地ツアーも何回かやってきました。「タオルのゾウ」(花咲かせるゾウ)もメーデーに売りに行きました。私たちが作った富岡町の横断幕を飾って、人の流れをせき止めて買っていただきました。
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現状から先を考えると、昨年、廃炉ロードマップが破綻していることが明らかになって、今年度からデブリを取り出すと言っていたはずなんですが、誰もそんなこと思っていない。取り出せないから廃炉どころの話ではなくて、自分がやっていることは本当に廃炉なのかというのが現場で働いている人の実感だし、取り出せないということがはっきりしてくると、あそこにデブリがある傍で暮らすことになりますから、不安ですよね。避難者の人やちに聞いてみると分かりますが、もう1回あれが起こったらどうなるんだ、あの大混乱の各地を転々として避難をしてくことをやれというのか、という不安を実は持っています。
だから戻るということに踏み切れない、大きな心理的なものですよね。
2年後に、政府が汚染水を薄めて流すと言っていますが、本当にやれるのか?いわきでも漁業の本格操業をやり始めている。風評被害とか言っていますけれども、言い方は二つあって、一つは実際は核種がいろんなものが入った水が流れるんじゃないかという話と、そのことによって魚のブランドが一気に崩れ去ることになるだろう。「あんこう」で食っている茨城も大変ですよね。にも関わらず、政府が復興という空虚なスローガンを掲げてやる。それに対して原発で避難した人たちの地元の自治体は、発想が昔と変わらない。おそらく支配的な関係がずっと続いていると思うんです。そうじゃない、こういう方法があるだろうということは出てこないし、相変わらず国から出る補助金をどうやって取るのか、それからイノベーション構想に引っかかるような箱物をどうやって持ってくるのか、というようなことを考えている。考えているものしか私たちには見えてこないという状態にまだあるということです。

5.これからは主体づくりが問題の核である
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半田さん(明大土曜会:故人)とその辺の事を話したことがあります。半田さんも私も、今言った政府や、それに忖度を重ねざるを得ない自治体やらではなくて、自分自身の要求をちゃんと掲げて通すという、そういう住民の勢力をどう作るのかというところは核になるだろう、そこがポイントだと沖縄の話やら水俣の話をしました。やっぱりそういう主体が作れるというのは時間がかかる。今のところ、主体が鍛えられていく過程というのは、裁判の過程で進んでいく、と考えるべきではないかと思っています。すごくいい人たちなんだけれども、政治を嫌うみたいなものがある。政治的発言が出来ないというような。
それは「こんなこと言ったら大変になるぞ」という公然たるものもあるんだけれども、もっと心の奥に鍵は掛かっているようなところがある。
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今年の10年目の慰霊祭ですが、教会でやりました。教会でやったということもあるんでしょう。ちょっとしたアトラクション、おっかさんたちがフラダンスを踊ったり、太鼓をやったりしながら、それぞれの発言を受けるということになりました。私も発言しました。
私はこのように言いました。
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「熊本の行動(熊本地震被災者慰問)に行った時も思った。確かに皆さんいろんな苦労をしてきた。だけどその苦労というのは、熊本に行ったら、今そういう地震で仮設住宅で暮らして苦労している人たちにとっては、全部、つまり自分の全存在をかけて語ってもいいし、助けてもらってもいいと思う。それって大変なことなんだ。皆さん、そういう風にあなたたちは選ばれてきている。そういう力をあなたたちは持っている」という話をしました。ちっとポロッとする人もいたんですけれども、そういう自信を彼ら自身が持つこと。、それを信じて一緒に動いていくこと、彼らを忘れずに、彼らを力のある人と認めて一緒に歩むこと、というのが大事なことなんだろうと思っています。
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この写真は、熊本で避難者の皆さんと、ただジャンケンをするだけでも大盛り上がりという様子です。彼女たちに対しても(熊本の)この人たちは、本当に甘えるようにして自分の辛さを話すことができるというのは、すごく大事なんだろうなと思いました。

6.恒久補償要求と医療体制が急務
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今、ウシトラ旅団が考えること。
補償がやはり必要です。何でか?生活が大変だからです。それから精神的にも追い詰められているからです。さっき言ったように「うつ病」になる人がとても多い。
これはAさんという相馬市の先生です。後発性PTSD(心的外傷後ストレス障害)が浜通りにも出てきている。それは、お互い話せない、腹を割って話せない、篭る、生活が変わってくる、ますます精神的に追い込まれていく、というようなことが続いて、孤立し、生活破綻し、精神疾患を患う、そういう人たちを青木さん(新聞記者)がA先生につないで何とか命をとりとめている、という話が最近の(青木美希さんの)本に出ています。
そういう状態に今なっているので、恒久補償はすぐに出るとは思わないけれど、言い続けなければダメだと思います。これは言って当然だと思うし、ここの部分は、裁判でいうと、過去の精神的な損害賠償をしろというレベルでしかないんですが、本当は、「ここから先お前ら全部面倒みろよ」と言って当然だと私は思います。そういう風にしなければいけないと思うし、精神的に追い詰められている人たちのために医療体制を作らなければいけない。
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長谷川さんは、福島県全体の復興住宅のサポートをやっている「NPOみんぷく」のトップです。今、曲がり角に来ている。とても難しいところに来ている。でもどうやって自分たちの経験を生かし避難者をサポートしていくのか、その展望を考えなけれないけない。
つまり、政府が金を出さなくなってきているから、自分たちで助け合う共助をしなければいけないと強調していました。
どうするのかというと、一般的なあちこちで今問題になっている限界集落の問題や若い人たちの貧困や老人介護、護を支える若い人たちが少なくなっている問題を含めて、自分たちがやってきた経験を合わせて、ここに取り組む。つまり避難者の支援をやってきたことと、今ある一般的に問題になっているものと合わせて前に進むんだ、ということを(長谷川さんは)考えていました。実際に食料配布を始めるということからやる。
また、富岡町に戻って、ひどい状況の中に落ち込んでいる人たちのために働くという人がいました。彼の心の内には、自分がお金を持っていて死んでいってもしょうがない。自分の身体は動かなくなる。動かなくなる人が富岡に帰るのはよくあること。ただし、自分は千坪ある宅地と畑に新しい建物を建てて、そこで富岡の人たちのために使ってもらうと考えている、どうだと。その時に、長谷川さんがこんなことを言っていると言ったら、ほとんど俺の考えていることと同じだな、ただ自分は富岡の町の小さな一人のやり方でやりたい、と言っていました。
長谷川さんの言うことも、この人の言うことも、国やら県が言っている復興ではない、自分たちの力で作りましょう、ということだと思うんですよね。
私たちは、ここを信頼して一緒に進みたいと思っています。
以上です。
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平田さんからは1時間20分に渡ってお話をしていただいたが、10年という歳月は語り切れるものではないだろう。
明大土曜会も開催から61回目となり、10周年となったが、「ウシトラ旅団」も10年。ウシトラ旅団とは福島の「おもいで館」での子供の保養や現地ツアーなど、連携して多くの活動を共にしてきた。そういう意味では明大土曜会の10年は「ウシトラ旅団」の10年と重なる。
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平田さんのお話の後、明大土曜会のYさんが「ウシトラ旅団」への思いを語った。
「明大土曜会は元々反原発のために作った集まりではない。2011年2月に第1回目を開催したが、翌月の3月11日に東日本大震災が起き、原発事故が起こった。昔の学生運動に関わった人たちのサロン的な集まりだったが、3・11を契機に、ここまできたらもう一回元気を出して旗を揚げるんだ、ということで四大学共闘を作り、『祭』が中心的な場所になった。そのうち経産省前テント村が出来て、結果として反原発のための土曜会みたいな形になった。当時は福島の人たちの運動を支えていかなければいけないという意識があったが、1周年くらいで福島の人たちの運動の勢いがなくなる中で、自分たちで何が出来るか考えた。反原発の集会にも行ったが、それだけでは福島の人たちの中に入り込めない。半田君は福島の子供たちの保養を確保したいということで、山形県の川西町の『おもいで館』での保養を金銭面を含めて支える活動をしてきたが、それ以上は入り込めない。ウシトラはいわきの避難者の仮設住宅に入り込んでシコシコやっているので、このグループと繋がらなければいけないと思った。
やはりこの問題は福島、特に双葉郡の人たちに入り込めない。そういう中で平田さんはよくやっていると思う。今後も貴重な体験を聴かせてもらいたい。
当事者にはなれないので、どうやって中に入り、中の人たちの闘いを支援していくのか。押しかけることも必要だが、押しかけることによって、中から何か引き出せればいい。
そういう意味でウシトラに敬服している。」

平田さんは、明大土曜会での話について、「ウシトラ旅団」のフェイスブックで以下のような感想を書いている。
「震災、原発事故からの10年、いま被災者が直面している問題について、私達の考えを話してきました。
久しぶりに皆さん方のお顔を拝見。10年を彼らに助けられながら、私達の活動は続けてこられました。
問題意識を共有しながらの模索の年月。こんな先輩やそこにやってきた若い人との存在に心から感謝しています。
たいした提起もできませんが、ここからまたともに歩んで行きたいと思います。」

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
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「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
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【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は9月10日(金)に更新予定です。