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私が1969年当時、学生運動で被っていた黒ヘルメットの絵である。ヘルメットの前にVのマーク、後ろに414Bと白文字で書いてある。Vの意味はVictory(勝利)。
「ベ平連」や「文サ連」というヘルメットも被ったが、それも黒ヘルである。
大学入学当初、杉並区にある明大和泉校舎の中庭で昼休みの学生集会が開かれ、その時、初めて黒ヘルを見た。「駿台論潮」というサークルのヘルメットで、黒に白地で大きく駿台論潮と書かれていた。人数は数人だったが、それまで黒ヘルは見たことがなかったのでとても印象に残っている。
その後、クラスの同級生のN君などと414B統一戦線というノンセクト集団を結成し、ヘルメットの色やデザインをどうするかという話になったとき、N君から「黒ヘルにVのマーク」という提案があり、それに決まった。

当時はまだ黒ヘル=アナーキスト(注1)と見られる傾向にあったが、黒ヘルを被る私の気持ちは「黒ヘル=ノンセクト(党派に属さない個人)」ということで、党派に入って活動しようとは思わなかった。414B統一戦線も同じ場(和泉校舎1号館414B教室)に集まった個人の集合体という感じだった。
1969年当時、明大では黒ヘルは我々も含めて結構多かったが、各大学が集まる集会に行くと全体としては小数派だった。しかし、新聞記事を見てみると1971年頃になると集会参加者全体の1割以上を黒ヘルが占めるようになったと書いてある。

1971年5月28日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる“黒ヘル”-実態ナゾ第3の過激派?】
沖縄の返還協定調印を前に、これに反対する全共闘系デモの中に、これまでになく黒いヘルメットの集団が目立ち始めた。数人から多くて20人のこの黒ヘル集団の行動は、これまでのセクトにないアナーキーなうえ過激で、デモの混乱に乗じて交番に放火するなど機動隊をてこずらせることもしばしば。警視庁公安部ではまだその組織の実態をつかんでいないが、全体としてこれまでの全共闘系8派や赤軍派など急進3派に次ぐ“第3”の過激派グループに成長する恐れが強いとして警戒している。
黒ヘル集団は4.28沖縄デーから目立ち始め、警視庁が5月19日の沖縄ゼネスト支援闘争が行われた清水谷公園で黒ヘル集団を追跡調査したところ、参加者5500名中、836名が黒ヘルだった。

1971年6月15日朝日新聞社会面の記事(要約引用)
【デモあおる「黒ヘル集団」は全共闘の別動部隊】
警視庁は全共闘系のデモをあおる“第3”の過激グループ「黒いヘルメット集団」の実態解明を急いでいたが、14日までの調べでさらに増加する傾向があるうえ既成の全共闘系セクトが「別動隊」としてもぐり込ませて混乱をあおることに利用していたことがわかった。5・30沖縄闘争の際、黒ヘル集団について追跡調査したところ1350名にふくれあがっていることがわかった。

この新聞記事によると、黒ヘルは党派の別働隊とか第3の過激派などといわれているが、それはあくまでも公安当局の捉え方である。黒ヘルを被って集会に参加している学生の多くは、あくまでも党派に属さないノンセクトだった。
1971年5月28日の記事では、追跡調査の結果として836名といやに細かい数字が出ているが、本当に数えていたんですかね。

また、黒ヘルに書かれているマークについて、「叛」「建」の文字や「CL」「C」「NON」「MUR」「TS」などのローマ字、「π」「∞」などの記号が見られる、と書いてある。
私は1971年には414B統一戦線の「V」マークの黒ヘルはもう被っていなかったが、この頃、何のマークの黒ヘルを被っていたのか思い出せない。

明大も1971~72年頃になると党派部隊より黒ヘル部隊の数が上回り、集会では200名を超す黒ヘル部隊が集まった。黒ヘルを被っていたのはマップ共闘、史地共闘、入管闘、文化サークル連絡会議、べ平連、教育研究会、明大弾対などだが、その中には、中大などと連携した反大学戦線という武闘派黒ヘル部隊もおり、ブント戦旗派とゲバルトをするなど黒ヘル党派的な存在だった。

(注1)アナーキスト:無政府主義者