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1969年から70年にかけて、「男女は社会的には対等・平等であって、社会的・文化的につくられた性別による差別や区別の壁を取り払うべきだ」という考えのもとにウーマン・リブの運動が日本でも始まった。

当時は新左翼諸党派や全共闘の中でも、街頭闘争で機動隊とぶつかるのは男子学生、女子学生は後方支援で救対や食事の世話というように既成の男女の社会関係が残っていた。
新左翼は社会的な関係性の変革を目指していたと思うが、男女間の性別による差別という問題に目が向いていなかったため、「それはおかしい」と声を上げた女性達から「女は男の奴隷ではない」として問題を提起された。
中核派全学連大会で執行部が糾弾され、自己批判したことは有名な話である。

ウーマン・リブの提起した問題とは何だったのか。
「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページのリンクにある、「怒りをうたえ上映実行委員会」のサイトから引用する。

【70年ウーマン・リブからの糾弾とフェミニズム運動 池田祥子(いけださちこ)】
(「怒りをうたえ」第9号 1994年1月1日)(引用)
『(略)日頃、権力に刃向かっている男だけれど結局は最終的には女のもとで甘えて、癒されている。そういうもののなかに関係性がはめ込まれている。それ自身がインチキじゃないか、おかしいんじゃないか、もうちょっと男たちも一人で取り合えずしっかり生きて欲しいし、女たちは取り合えず、まず自分で生きてその上での関係を持っていこうじゃないか、そういう問題提起でした。(略)』

単なる社会制度の変革ではなく、社会的・文化的につくられた男女間の関係性の変革にまで変革の領域を広げるべきだという主張である。
逆に言うと、男女間の関係性の変革なくして社会は変えられないということでしょうか。

当時、私は明大全共闘とは別に、高校時代の仲間を中心としたグループでも活動していたが、その中にウーマン・リブ運動に関わっていた高校の同級生のN子がおり、男女間の関係性の変革という問題についてどう考えるのか議論を持ちかけられ、追及されることもあった。

そのN子だが、1970年10月21日の国際反戦デーで、歴史的にはウーマン・リブ運動の始まりとされているウーマン・リブの街頭デモに参加していたようだ。新聞の写真を見ると、「叛」の文字を書いた黒ヘルにサングラス、覆面というスタイルだが、一見、ジャニス・ジョプリン(注)のような雰囲気の女性なのでN子に間違いないと思われる。
その新聞記事を見てみると

朝日新聞 1970年10月22日 (引用)
【やりますわよ “おんな解放”】
【ウーマン・リブ銀座に “男は締め出せ”機動隊もタジタジ】
『銀座におんなだけのシュプレヒコールが響いた。約200人。ピンクや黒のヘルメットを被った若い女性がジグザグデモ。機動隊が規制しようとするたびに「おんな解放」「闘争勝利」の黄色い声に押し返された。米国などに広がっている女性解放運動「ウーマン・リブ」の日本版が始めて街頭に進出した。6月頃からセミナー活動を続けてきた「ぐるーぷ闘うおんな」「女性解放運動準備会」のメンバーで、ほとんどが20-25歳の会社員、学生。夕方5時半に銀座一丁目の水谷公園に集合したところたちまち報道陣、カメラマンに囲まれた。「マスコミは敵だ。わたしたちを見世物にしようとしている」と1人が叫ぶと、「ワー」と気勢をあげてカメラマンを追い出した。貼紙にいわくー「男性立入禁止、報道関係者も含む」
「古い家族を解体」「女の解放は人間解放だ」など、代表がぶつと、たちまち500人ほどの輪ができた。そのあと「女らしさってなあに」の横断幕を先頭にネオンの街にデモ。
「お母さん、結婚って本当に幸せ?」「男にとって女とは何?」などのプラカードをかかげ、数寄屋橋から新橋まで、派手なジグザグデモを繰りひろげ、そのあとをタクシーがノロノロ。「へえーこれがリブか」と通行人は目をシロクロ。(略)』

リブたちの主張する男女間の関係性の変革はもっともな話だが、議論がややもすると現在の社会は男社会=男は敵というような一面的な主張に流れていく傾向があり、私も彼女達の主張に馴染めない部分もあった。
個人的には男性も女性をお互いを尊重して支えあう「男女が相互に補完的分業をする本来的な人間関係のあり方」を構築することが必要ではないかと思う。

1970年から38年経ち、彼女達の運動はどのように受け継がれているのか。
「男女雇用機会均等法」という法律ができたことなど、女性が公平に雇用され働ける環境は整ったかのように見える。しかし、社会的・文化的につくられた性別による差別や区別の見えない壁は、まだ社会の中に深く存在しているのではないだろうか。

(注)ジャニス・ジョプリン:1960年代後半に活躍したアメリカの代表的女性ロック歌手。1970年に27歳で死亡。麻薬が原因といわれている。