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沖縄は1972年、日本に返還された。4月28日は沖縄がアメリカの施政権下におかれるとされた1951年のサンフランシスコ講和条約が発効した日であり、この日を「沖縄デー」として返還直前の1969年から1972年まで、沖縄返還(注1)をめぐる闘争(注2)が全国で繰り広げられた。
特に1969年の4・28沖縄デーは、70年安保闘争に向けた前哨戦として大規模な闘いとなった。

朝日新聞 1969.4.29 (引用)
【「沖縄デー」東京を中心に荒れる】【中央大会盛り上がる 即時・全面返還を宣言 新幹線や国電がマヒ 学生警官 新橋―銀座で衝突】
『28日の「沖縄デー」は、東京・代々木公園で社会党・総評系と共産党系の団体が初の統一集会を開いたのをはじめ、全国45都道府県、318ヶ所に14万9千人が参加して(警視庁調べ)集会やデモが行われ、沖縄をめぐる革新系の大会では、かってないもり上がりをみせた。(中略)東京では中央集会への参加を拒否された反代々木系学生が、夜6時すぎ新橋駅から機動隊に追われて銀座付近に集まり、反戦青年委の一部や高校生を合わせて約2千人がデモや交番への投石、放火などを繰返した。このため、銀座、有楽町一帯は深夜まで騒然とした空気につつまれた。また、学生らが東京―新橋間の線路を一時占拠したため、新幹線をはじめ山手、京浜東北線など都心部を通る国電各線が深夜まで完全にストップした。反代々木系学生は佐藤総理私邸に投石し、国電御茶ノ水駅付近で警官隊と衝突したほか、交番10ヶ所を襲うなど各地で騒ぎを起こし、29日午前零時現在学生ら965人(うち女子133人)が逮捕された。逮捕者数は新宿騒乱、東大安田講堂事件を上回り、1日の逮捕者数としては戦後最高である。(後略)』

明大では1969年4月25日に臨時学生大会を開き、スト権を確立し4月26日から28日までの全学ストライキに入った。明大和泉校舎でも正門にバリケードが築かれたが、社学同の大半のメンバーは御茶ノ水駅周辺の「解放区」闘争に行っており、和泉校舎はひっそりとしていた。
私は学館運営委員会でも新入りだったので、バリケードの留守部隊として和泉校舎に残って立看を書いていたが、夕方になって、ラジオのニュースで銀座周辺の様子が刻々と伝えられてくると、やはり現場に行かなくてはという気持ちを押さえきれず、校舎を後にした。
国電はストップしており、京王線で新宿に出て地下鉄で銀座に向かった。
地下鉄の「銀座4丁目」駅に着いたのは7時すぎ頃だったと思う。地上への出口付近には駅員がおり「もうすぐ出入り口を閉めるので、出ると中へは入れません」とアナウンスしている。
出口の階段もラッシュなみの混雑で、やっと外に出ると歩道は大勢の通行人(野次馬)でぎっしり。車の通行が途絶えた銀座通りをべ平連のデモ隊がフランスデモをしながら通っていく。普段の銀座4丁目とは違い緊迫した雰囲気が漂っている。通行人(野次馬)も動く様子はない。しばらくすると、突然「ガシャーン」と音がする。そちらの方向を見ると、中核派の部隊が数寄屋橋交番をゲバ棒で破壊している。

朝日新聞 1969.4.29 (引用)
 【夜の都心にゲリラ戦術】
『(前略)午後7時、数寄屋橋かいわいに騒ぎの中心が移った。ヘルメット約400人が数寄屋橋交差点から銀座4丁目にかけてジグザグデモを繰り返した。歩道をいっぱいに埋めた野次馬は約1万人。デモが銀座4丁目方向へ道いっぱいのフランスデモに移りかけた7時15分、4丁目の方から機動隊がガス銃を撃ちながら突っ込んだ。デモ隊はばらばらと逃げ、騒ぎの範囲は一気にフードセンター、読売新聞社前まで拡大した。そして学生の一部は態勢を立て直して数寄屋橋交番を襲った。同交番の窓ガラスは投石や角材でメチャメチャ。(後略)』

ちょうど、この記事の頃に銀座4丁目付近に大勢の野次馬とともに居たことになる。1969.4.28、街頭の野次馬はまだ健在だった。しかし、圧倒的な警察力の前に1970年代前半にはヘルメットも野次馬も街頭から追放されてしまう。

※この時の様子は明大全共闘ホームページの明治大学新聞の欄、4・28ルポに詳しく載っているので見てください。

(注1)1969年、日米首脳会談において、アメリカは安保延長と引き換えに沖縄返還を約束した。その内容は沖縄の米軍基地を維持したままの「1972年・核抜き・本土並み」返還であり、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定などアメリカの利益を最大限尊重した内容であった。沖縄返還協定は1971年に署名、国会承認された。
(注2)新左翼各派の中で中核派は「沖縄奪還」をスローガンとし、沖縄の永久核基地化粉砕・本土復帰・基地撤去という立場で、社学同は米軍政打倒・米軍基地撤去・日帝の侵略反革命前線基地化粉砕という立場でそれぞれ闘争が行われた。