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もうすぐ6.15。日米安全保障条約改定の日である。いわゆる安保の日。今年は1970年の安保改定阻止闘争から38年目になる。時は刻々と過ぎ去り、あの時代の息吹も鮮烈な体験も、今の時代から見れば歴史のただの1コマになってしまう。時の流れに抵抗することはできないが、私の中には記憶が残されている。
今回も記憶を頼りに連載を書いていく。
まず新聞記事から

朝日新聞 1969.6.16 (引用)
『6.15反安保集会の行われた日曜の午後、東京の都心は統一行動デモの花と数百本の旗と横断幕が道いっぱいにゆれた。(中略)ベ平連を中心に、この統一行動の主役になった300近い市民グループは、ゲバ棒の代わりにアイデアをこらした幕やプラカードを持ってデモをした。社共両党、総評関係者の姿はなく、参加者は市民団体と反代々木系学生、反戦青年委。日ごろの激しいデモに加われない学生や市民も参加した。(後略)』

この記事とともに「道路いっぱいに広がってジグザグデモをする6・15集会の参加者」として、霞ヶ関の官庁街をジグザグデモする様子を撮った写真が載っている。この日のデモは、大規模なデモとしては私が参加した初めてのものだった。
明大からは私の属していた414B統一戦線も黒ヘル10名前後の部隊で参加した。その時の様子が明治大学新聞に詳しく掲載されているので、引用する。

明治大学新聞 1969.6.19(引用)
【6.15集会ルポ】
『今年の「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15統一集会」は全国29都道府県で約6万人を集め、東京でも反日共系学生、反戦青年委員会、市民など3万人以上が参加した。日比谷公園から国会議事堂わきを経て銀座、東京八重洲に至る約2キロのデモコースは、色とりどりのヘルメットや旗、人波で埋め尽くされた。先頭の市民団体が午後5時頃目的地の東京駅に着いた頃ようやく最後尾のベ平連などが日比谷を出発し始める程であった。
一方、このデモに対して機動隊による過剰の警備体制に批判の声が高まっている。
当日東京では、吉川勇一ベ平連事務局長ら72人が公安条例違反などで逮捕され、全国でも223人にのぼる検挙者が出た。
6月15日は梅雨に入ったにもかかわらず、くまなく澄み渡る青空が広がっている。
日ごろ賑わう駿河台周辺も静まり、本学周辺は今日の日比谷集会にむけ学館前、本館中庭で諸団体が集会を開催した。
本館中庭には約500人の学生が「明大ベ平連」「闘法連」、「日本史」などのさまざまの旗のもとに集まっている。クラス・ゼミ・サークルから多数参加し、いつもより結集人員が多い。学生会館前では全中闘(中央大学全学中央闘争委員会)続いて本学学生会中執(社学同統一派)、本学学苑会中執(解放戦線)が次々と集まって集会を開く。(中略)
野外音楽堂では午後1時40分から「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15統一集会」(写真は明大新聞から転載)が開催され、ベ平連、各市民団体と反日共系全学連各派反戦青年委員会をはじめとした約7万人(主催者側発表)が参加した。
ベ平連の小田実氏の「さまざまな形態のたたかいが1つにまとまり、権力に立ち向かおう」とのあいさつなど各団体からの連帯表明がなされた。
午後2時44分あいさつが続けられていた途中、突如逮捕状が出て以来地下に潜行しながらも執拗に活動を続けている東大全共闘山本義隆代表が、厚い警備網を突破して会場に到着したと発表がなされた。会場はわれんばかりの拍手に湧きに湧き、東大全共闘が演壇上を陣取った。黒ヘルの一群が演壇に直進してくる旗で囲いをつくり、満場の拍手のなかを山本代表が現れ、約15分間の演説を終えてそのまま何処へとなく姿を消し去った。
3時半、ベ平連を先頭にデモ隊は出発した。霞ヶ関ー虎ノ門ー新橋ー銀座ー東京駅のコースである。公安委員会に許可申請した国会コースを一方的に変更され、付帯条件もつけられたなかをベ平連ー各大学ベ平連ー反戦青年委員会ー各大学全共闘ーフォークソングゲリラー無所属の順でデモ行進する。
国会近くを通過するときは約7メートル幅の機動隊の狭義地帯を歩むことを余儀なくされ、ちょっとでもジグザグデモをやると機動隊が規制に乗り出し、多数の負傷者をデモ隊は出す。頭をわられる者も出た。(後略)』

デモコースとしてはそれほどの距離ではなかったが、走ったり、歩いたり、ジグザグデモをしたり、手をつないでフランスデモをしたりといろいろなパターンがある。特にジグザグデモは低い姿勢でまとまってデモをするため、結構疲れる。
高校時代は走ることなどあまりなかったので、この日のデモでは運動不足を痛感した。大学に入った当初、和泉校舎の体育館で授業中に外で学内デモの笛の音が聞こえると、体育の講師が、「最近の学生は運動不足だから、ああやってデモをするのはいいことだ。」と言っていたが、まさにそのとおりでした。