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今回も前回の連載の続きで、「朝日ジャーナル」の「学園ハガキ通信」から引用する。

朝日ジャーナル 1969.4.6号 【学園ハガキ通信】(引用)
□ 対立する学生勢力 (和歌山大学)
『後期試験前日、全共闘が学館自主管理など7項目の要求を掲げて、経済学部封鎖に突入した。新制地方大学のご多分にもれず、和大も学芸、経済の2学部のみで学舎も離れているため、日共、反日共の対立が学部間対立の様相を呈している。全共闘は結成時のセクト克服ならず、闘争する部分の結集がとくに学芸で沈滞しているため、再三再四学芸において集会を開催。一方、民青は自らの勢力維持に狂奔し、学部ナショナリズムと“暴力学生帰れ”のスローガンで対応し、さらには全共闘大衆団交への学芸評議員出席阻止の団交を開くありさま。
しかし、学芸の流動化も激しく、民青の中教審答申粉砕、学園民主化案が否決されるほどであった。民青の焦燥は3月4日のゲバルト行使に端的に現れた。その前日の学芸での全共闘勝利集会は翌朝8時まで続行していた。
長時間のため30余人に減った集会に、黄ヘル部隊75,6人が左右から突然来襲し、全共闘の学生1人に重傷を負わせた。一時撤退した全共闘は50人の部隊を組織して学芸で3・8集会を開き、おそれをなして逃走した民青から、百余の黄ヘル、ゲバ棒を奪取。現在、全共闘のバリケードの窓には黄ヘルが空しくぶらさがっている。 (石原享一 経済学部)』

<管理人:注>
投稿では学芸学部となっているが、1966年に教育学部に改称している。
1969年3月の新聞に「紛争中の和歌山大学で、2月25日経済学部の反代々木系学生が教育学部本館封鎖に押しかけ、対立する教育学部民青系学生と乱闘。封鎖はならず引き上げる。」というコメントでゲバルトの写真が載っている。
この投稿記事は、その後の学内の状況について書いたものだろう。和歌山大学のセクトは社学同と思われる。

□ 壁塗り競争 (神戸大学)
『文学部の学舎は、鉄筋4階建のごくありふれた建物。内部の壁は白と淡いグレーのツートンカラーである。文学部が無期限ストにはいって1ヶ月。最近、各学科の読書室(学科ごとに設けられた学生用の部屋)の壁を塗るのが流行している。
先駆者は文学部闘争の始まる以前に、読書室の壁をグリーンに塗った哲学科。数日前には、芸術学科が、扉の内側とついたてを赤に、内部の壁を赤と紫とに、ペンキの色も鮮やかに塗り分けた。遅れをとらじと、日ごろおとなしい英文科も、ペンキを大量に買い込んで塗り始めたのが、白と淡いブルーのツートンカラー。「やはり、やることが常識的な英文科のセン」とは、のぞきにやってきた大方の評。
「自己変革の手段として」壁を塗るのか、「マッジクインキで書かれた落書きをかくすために」壁を塗るのか、それとも「ストになって他にやることがないから」壁を塗るのか、とにかく続く壁塗り競争・・・。 (R・N 文学部)』

<管理人:注>
神戸大のバリケードをめぐる記事が5月の新聞に掲載されているので引用する。
【神戸大も職員らが封鎖解除】朝日新聞1969.5.24(引用)
『反代々木系学生による封鎖が続いている神戸大学で、23日夜、封鎖に反対する学生、教職員ら約200名がヘルメットをかぶって角材を持ち、六甲第二学舎と第二実験室のバリケードを撤去して封鎖を実力で解除した。反代々木系学生は少数で、拠点となっている大学本部に逃げ込んだため、抵抗はなかった。(後略)』』

□ 墜落抗議、すでに下火 (金沢大学)
『東大徹底抗戦を知った1地方大学生が劣等感にとらわれ、「恥ずかしい」と述べた、とどこかで読んだ。幸い金沢には、ジェット機が落ちたので学生は救われた。九大のそれに比べると、驚くほど基地反対の声は世間に受け入れられていないのがわかる。
金沢の保守性は強い。学生は現状批判の問題意識を根底に抱かずに、強制された学問を楽しんでいる。
事故の起こったのは、残念ながら後期試験の直前であったので、一般学生は勉強に励んだ。そして過激派はデモによる免罪符を枕に安眠した。
足元が大地ではなく、機械の動かすエスカレーターであることを多くの人が認識するまで、金沢は平和である。 (H・F 教養部)』

<管理人:注>
金沢でジェット機が落ちた、というのは1969年2月8日、正午、金沢市内の住宅地に航空自衛隊小松基地のジェット戦闘機が墜落した事件のこと。
墜落により住宅3戸が吹っ飛び、全焼13戸、半焼や破損100余戸を出し、死者4名、重軽傷者19名を出した。
九大にアメリカ軍のファントム戦闘機が墜落したのは1968年6月のことである。
このファントム戦闘機の残骸の一部が1969年8月に大阪で開催された「反戦のための万国博」(通称ハンパク)の会場で展示され、話題となった。
当時、金沢大は文・工・教養を革マル派が握っていた。