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連載32で取り上げた「朝日ジャーナル」回収事件の原因となった「桜画報」の作者、赤瀬川原平氏。そして、前回の連載で取り上げた雑誌「構造」の編集部。この両者が「朝日ジャーナル」回収事件を契機に共闘し、「桜画報」による「朝日ジャーナル」誌上乗っ取り作戦を敢行する。
果たして、その成果はいかに・・・。

連載32で朝日ジャーナル回収事件を取り上げたが、回収された「朝日ジャーナル」1971年3月19日号には、前回紹介した雑誌「構造」の4月号広告(写真右)が掲載されていた。回収の補償として、広告代理店から「構造」編集部に広告を再度「朝日ジャーナル」に無償で再掲載するかどうかの問い合わせがあった。
「構造」編集部では再掲載する旨広告代理店に回答したが、その再掲載に際して、朝日ジャーナル回収事件の原因となった「櫻画報」の作者である赤瀬川原平氏と会見して再掲載する広告の内容を相談し、広告戦線の戦いへと打って出る。その顛末が前回の連載で紹介した雑誌「構造」1971年6月号に記事となって載っている。

その記事を紹介する前に、赤瀬川原平氏による「櫻画報激動の千二百五十日」(青林堂)(1974年10月15日発行)の中「主筆デスク日記」から関係箇所を引用する。
『3月17日
 先週出た「桜画報」31号を最後に、8ヶ月間乗っ取っていた「朝日ジャーナル」をやっと乗り捨てたわけでホット一息。(中略)ひと息いれてこちらもハナクソでもほじろうと、右手ヒトサシ指を鼻の穴に挿入したトタンに「ヂリリリーン」と電話。(中略)その電話によると朝ジャ3.19号が急きょ回収されているという。朝ジャ3.19といえばわが「週刊桜画報」最後の包紙。コレハいったい何ゴトが起こったというのだろうか!?「アノー、結局、表紙のヌードと、あの赤セ川さんのアカイ、アカイ、アサヒ、アサヒというのが常務会で・・・」なるほど、ヨシわかった。つまりその常務会とやらは、やっとわが「桜画報」の愛読者となった、ということだろう。これでは遅すぎる。こちとらもう乗り捨てたというのに、なにが今ごろ愛読者だ。(中略)
4月20日
(中略)ところで、広告といえば、朝ジャ3.19回収号の広告掲載主には無償で再掲載の権利が与えられることになり、それに該当する「構造」より密使到来。このしゃらくさい権利をいかに逆転するかといいう問題について慎重に検討を重ねた結果、このスペースを「桜画報」が号外として乗っ取った上でさらに全面広告として「構造」に提供することを決定。「構造」よりの密使は一瞬にして桜画報社員となって、ふたたび「構造」の中に潜りこむ。(後略)』

ということで、密議は終わり、桜画報社員となった「構造」編集部は広告戦線へ打って出る。
「構造」1971年6月号に掲載された記事  
【「桜は咲いたか」 泰平小ゥ僧】(引用)
『4.16・金 
昼すぎ、広告代理店に再掲載用広告版下を提出(写真図1・右から2番目)。約1時間後、「この広告は検討の余地があるので・・」と広告代理店より連絡がある。
数十分後、桜画報の題字、文章、キリトリ線の3点について修正してほしいと広告代理店より申し入れあり。ただちに編集部では検討。3点を塗り潰したり切り抜いた修正案を提示(写真図2・右から3番目)。6時すぎ、それまでの修正によって改めるやり方を御破算にしていつもの形式にしてほしいと朝日新聞社出版広報部より電話で最終回答がある。
4・17・土
朝、広告代理店の「構造」広告担当者と朝日新聞社出版広報部員が来社。正式に回答伝えられる。
夕方、「展望」広告代理店に朝日ジャーナル不許可の広告版下を提出(写真図3・右から4番目)。
4.19・月
朝日ジャーナルに対し編集部で検討後、いつもの形式に直した広告を提出。
4.20・火
昼すぎ、「展望」より広告不許可の連絡が電話である。
4.21・水
10時半、筑摩書房より宣伝担当者、雑誌編集担当者が来社。会談。丁重に断られる。
以後、桜画報型広告でのキャンペーン続行。断られた場合、理由を問うと共に話し合う機会を持ち、それでもダメな場合はあえて今まで通りの形式に直し提出。前と同じ形式でもそれはこれからは新しい意味を持つことになる。自主規制のシンボルである。(後略)』

掲載を拒否された「桜画報」号外の構造全面広告は、5月中に様々なメディア(日大学生新聞1971.5.15号、情況1971.6月号など)に登場するが、その総括がこの6月号の記事であった。

ブログの文字数制限の関係で、この記事の続きは次回の連載で紹介します。