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前回に引き続き、1969年9月5日に東京・日比谷野外音楽堂で開催された全国全共闘連合結成大会の様子を紹介したい。
この日の大会には、全国78大学、26,000人(主催者側発表)が参加した。全国の全共闘の連合という名目ではあったが、実際は各党派連合の大会というのが実情であり、全共闘代表挨拶も各党派のメンバーだった。
当日の反代々木系八派代表挨拶は、中核派、学生インター、プロ学同、共学同、ML派、フロント、社学同、反帝学評の順で行われ、明大、神戸外大、秋田大、広島大、東京教育大などの全共闘代表から報告があった。
明治大学新聞に、当日の集会の様子が載っているので、見てみよう。

【全国全共闘結成大会ルポ】明治大学新聞 1969.9.18(引用)
『(前略)本学駿河台記念館と学館前でそれぞれ集会をもった本学一部全共闘200人、二部共闘100人も11時過ぎには日比谷公園に到着した。しかし、本学全共闘にまぎれ混んで会場に入ろうとした東大全共闘代表山本義隆君(全国全共闘連合議長に内定)は、警備の私服警官に検挙された。山本君は赤ヘルにうす茶のジャンパーというデモスタイル。逮捕状が出てから228日目であった。
12時過ぎ、既に野外音楽堂は満員となり、入り切らない数千人が外でデモなど繰返している。1時、開会宣言。引き続いて議長団の紹介が行われた。そして沖縄代表に始まる各団体からの挨拶が次々と述べられる中で、大会は序々に盛り上がっていった。演壇を囲むように数百本の赤旗が翻り、舞台の上にも学生がいっぱいにすわり込んで、立錐の余地もない。
セクト色の強い演説には反対派から激しいヤジが飛ぶ。さらに、会場から締め出しを食っていた社学同赤軍派100名もいつのまにか会場に入り込み、“赤軍”の赤旗をたらして社学同関東派とこぜり合いを始めた。こぜり合いのたびに会場が騒然となり、発言者の声もしばしかき消されてしまう。この“内ゲバ”に一般の参加者は眉をひそめた。
2時、議長団から「基調報告をする予定の東大全共闘代表山本義隆君が先ほど官憲によって不当逮捕されました。これは全国全共闘連合に対する権力の真向からの挑戦です。」との報告がなされた。それまで山本君の逮捕を知らなかった会場の大部分の学生は、その瞬間、「ナンセンス」と口々に叫び、いたるところで激しい抗議の声を上げた。しかし、山本代表の代役が基調報告を始めると、そのどよめきも次第に収まった。
大会はその後、各学生組織からの決意表明に移ったが、各派とも露骨にセクト主義を全面に押し出したため、激しいヤジが飛び交い、なかにはつかみ合いをする者もいた。とくに中核派と反帝学評の対立は激しく、議長団も収拾に手をやく始末。「全共闘はセクトを乗り越えた組織ではないのか・・」つんぼさじきのノンセクト学生がはき棄てるようにつぶやいていた。
社学同からの挨拶が行われていた時、それまでどうにか押さえられてきた赤軍派と関東派の“内ゲバ”が再燃(写真)。赤軍派は旗ザオなどで関東派を追い散らし、会場は再三、混乱した。さらに大会は各大学全共闘からの決意表明へと続いた。二番手に本学全二部共闘の本間議長、三番手に一部全共闘代表福田君が挨拶し、「明大全共闘は全国全共闘連合の先頭に立って闘う」と決意表明を行った。(後略)』

【全共闘 1万人デモ行進 一部は早大でもめる】1969.9.6朝日新聞(引用)
『(前略)大会は同2時半ごろ、会場入り口付近で社学同派内部の小競り合いはあったものの、ほぼ平穏に進み、同6時半「きょうここに結集した全国78大学の2万6千人は70年安保粉砕、沖縄闘争勝利の闘争をたたかいぬく。特に11月の佐藤訪米を実力で阻止する。」との大会宣言を採択。さらに全国全共闘連合に議長に予定どおり山本義隆東大全共闘代表(同日逮捕)、副議長に秋田明大日大全共闘議長(日大事件に関連して拘置中)を選出、会場でインターナショナルを合唱して閉会した。
その後、参加者のほとんどは午後7時ごろから代々木公園に向けてデモ行進に移った。約1万人の隊列が続き、反代々木系学生が集まったデモとしては60年安保闘争以来最大となった。機動隊の溜池、赤坂見附交差点などで規制しただけ。デモの学生たちは青山通りなどで道いっぱいにジグザグデモやフランスデモを続けた。(中略)
日比谷の会場からひと足先に地下鉄で早稲田へ向かった東大教養学部、日大、駒沢大など他大学を含む反帝学評(社青同解放派)の学生約600人は、新宿区馬場下町の地下鉄早稲田駅で外に出ようとして機動隊とぶつかった。(後略)』

この全国全共闘連合結成大会は、68-69年の全国学園闘争の節目の集会であったが、その後の反代々木系八派の内ゲバと全共闘の崩壊を暗示する集会でもあった。
そして、11月佐藤訪米阻止闘争を経て、時代は1970年へと流れていく。