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今日は10月10日、以前は東京オリンピックを記念した「体育の日」として祝日であったが、法律の改正により祝日が月曜日に移ってしまったため、休みではなくなってしまった。ところで、私が10月10日で連想するのは東京オリンピックではなく、今回連載の1969年の大集会である。(写真)
この集会の前日の10月9日、バリケード封鎖中の明治大学に機動隊が導入され、東京・駿河台の明大大学院に立て篭った社学同、ML派、反帝学評の7名の学生が逮捕された。
明大では6月22日のバリケード・スト突入以来、100日以上が経過していたが、明大が9月30日の日大法経奪還闘争の出撃拠点となったことや、10.21国際反戦デーの拠点となることを恐れた大学当局により機動隊導入、ロックアウトの措置がとられた。
機動隊導入直後ということもあり、10月10日の集会では、明大全共闘の隊列に1000名を超える学生が結集した。
会場となった東京・明治公園は人波で溢れ、同年6月15日の反安保集会を上回る数万人規模の大集会となった。また、革マル派も参加したベ平連・新左翼の統一行動としては最初で最後の集会であった。

【新左翼 初の統一行動 10.10集会都内で21人逮捕 】
朝日新聞 1969.10.11(引用)
『ベ平連、全国全共闘連合、反戦青年委員会、反代々木系諸派など、いわゆる「新左翼」各派は「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」を掲げて10日、全国各地で始めての統一行動を繰り広げた。これは1昨年10月8日、反代々木系学生が佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして引き起こされた第1次羽田事件2周年を記念して行われたものだが、各派ともこの10.10集会・デモを皮切りに、10月21日の国際反戦デー、来月中旬の佐藤首相訪米に向けて闘争を盛り上げようとしており、「新左翼」各派の「10.11月闘争」の幕開けとなった。(中略)
なお、こうした「新左翼」の統一行動について、社会党はとくに態度を決めなかったが、総評は6日の幹事会で「いっさい参加しない」と決定。共産党は「首都武装制圧を叫ぶ暴力集団各派の挑発集会である」と論評した。』

【分断されたデモ 10.10集会機動隊が“厚い壁”】
朝日新聞 1969.10.11(引用)
『赤、青、ピンクと、色とりどりの旗。おばさんたちのベ平連からヘルメットに覆面の高校生、「外人ベ平連」の青い目までー10日新左翼集団の10.10集会が開かれた東京・明治公園は、数万人の人波であふれた。会場内は各団体、各派ごとにアジ演説の花ざかり。雑然とした“統一”ぶりだ。午後4時半ごろからベ平連を先頭にデモ行進にはいると、たちまち機動隊とこぜり合い、ガス弾発射。青山通りでも全共闘系学生が道路いっぱいにフランス・デモ、交通マヒ、またガス弾。有楽町、銀座など都心部は、機動隊や私服警官が厳重に警戒したが、大勢は平穏で、夜7時すぎから解散地点の日比谷公園で次々流れ解散した。
統一集会は午後4時すぎからはじまったが、会場には代々木、日比谷、清水谷の各公園で集会を開いていた反戦青年委、革マル派、学生、高校生などが次々と合流した。
統一集会のはじまった会場は2万人を超える参加者で超満員。あとから会場に到着した革マル派千3百人は会場内にはいれず、わきの仙寿院交差点通りで集会を開いたほど。
日比谷公園へ向けてのデモ行進が午後4時半すぎからベ平連を先頭に始まった。しかし、ベ平連のあとにつづいた全共闘は会場を出るとジグザグデモをはじめ、待機していた機動隊の制止にあってたちまちこぜり合い。会場に残っていた学生たちもこれを見て色めきたち、会場内に落ちていたコーラや牛乳ビンを一斉に機動隊めがけて投げ始めた。機動隊のガス弾を放って応戦。デモ行進はスタートから波乱含みの雰囲気のなかで始まった。
明治公園を出た全共闘のデモは、青山通りの地下鉄外苑駅前付近からいきなりかけ足デモに移り、先頭をデモ行進していたベ平連のデモ隊のなかに割込んだ。
全共闘の後方の学生や、それに続く反戦青年委のデモも手をつなぎ合って道路いっぱいに広がるフランス・デモを。青山通りの各所でおこなった。
赤坂見附交差点には、デモ隊を平河町から国会方面に向かわせないため、約100メートルにわたって機動隊のジュラルミンのタテによる壁がつくられた。平河町方面に約50メートル離れたところには、さらに二重のタテによる阻止線。全共闘のデモ集団は、青山1丁目付近から機動隊に約100メートルごとに分断されたうえ片側に押し付けられ、機動隊のカベにつつまれるようなかっこうで通過した。(中略)
解散地の日比谷公園に着いたデモ隊は、噴水や野外音楽堂の近くで各派ごとに総括集会を開いた。』

次回から「朝日ジャーナル」に掲載された10.10集会の様子を2回に分けて紹介します。