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3回連続となるが、69.10.10集会の様子を紹介する。高校生、全共闘系学生の様子を朝日ジャーナルの記事から見てみよう。

【特集・佐藤訪米阻止10・10統一集会】
朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『「第4勢力・高校生パワー」
港区の清水谷公園には、正午前から色さまざまなヘルメットがわき出るようにふえていった。統一集会に先立って開かれた「10・10全都高校生総決起集会」。高校生が独自の集会を持つことは、昨年あたりからもはやめずらしくなくなったが、この日の約1500人は、かって例をみない最大規模の結集となった。
公園の前、ドブ川をへだてた道路には、ものものしい装備の機動隊員数十人がタテを並べ、そこここの木陰には私服あるいは教師と思われる背広姿が数十人見守りつづける。
赤ヘルの高安闘委(ブンド系)、赤と白の高校生解放戦線(ML系)、緑ヘルの安保高戦(フロント系)、同じ緑ヘルの全高闘連(プロ学同系)、黒ヘルのプロ軍高協(プロ軍系)、白ヘルの反戦高協(中核系)の順に、リーダーが数分ずつのアジ演説。めずらしく、ほとんどヤジが飛ばない。これら六派は9月27日、同じ清水谷公園で「高校生安保共闘会議」を結成している。(中略)
集会が六派共闘ラインで進行していたとき、別のマイクが割って入った。「ノンセクトの持つ運動能力を、セクト的野合の中に埋没させてはならない。大衆闘争を放棄して、戦術をエスカレートするばかりでは、われわれ自身の解放はない。教育闘争に力点を置いた地点に立って、未来をみつめよう・・。」と、きれぎれに叫ぶ。六派共闘を離れてもう一つの集会が始まっていた。
ヘルメットの文字は「全共闘」「××高」「××高ベ平連」「さすらい派」「叛」「NON」「キ」「狂瀾怒涛派」「民殺派」「○○高越屍協会」「野次馬」「反戦集団」「ニャロメ派」「KG」などなど。色も黒、ピンク、茶、オレンジなど雑多な集団が数百人、そしてちょうどまん中に座っていた青ヘルの反帝高評(反帝学評系)百数十人も、六派共闘側の集会に背を向けてノンセクト側に向き直ったために、数の上でも六派側を圧倒する集会となった。
集会は分裂したまま、デモ行進も二分した。そして明治公園の統一集会では、ほとんどばらばらに数万人の参加者の中へ分散していった。この日の高校生の動きは、統一戦線を旗印にして発足した全国全共闘が、その理念とはうらはらな混迷の中にある姿を、そのままに反映しているようであった。』

私の出身高校の後輩たちも、この清水谷公園の集会に参加している。私も明治公園の統一集会へ参加する前に、この集会の様子を見に行った。
この記事のとおり、狭い公園はギッシリ。やっと出身高の旗(ノンセクト側)を見つけたが、とてもそこまで行けず、遠くから様子を見守った。
全共闘系学生の様子も記事にあるので紹介する。

『「学生戦線は統一の多様性」
(前略)10.10までに、法政、明治など東京での学生たちの拠点は機動隊の手で壊滅させられていた。東大全共闘の残された唯一の拠点、東大文学部も前夜機動隊が導入された。だから、当日、多くの大学の学生はバラバラに会場に集まる形となった。(中略)学生の参加者数は6.15を下回るのではないかと一部で予想されていたが、その予想は完全にはずれた。
ある学生は「きょうの集会は新聞で知ってきました」と語っていた。すでに闘う舞台からロックアウトで追われ、長い闘争に消耗してブラブラしていたが、どうしようもない焦燥感のハケ口を、この集会に求めてやってきたのだという。(中略)
もう一つ目立ったのは、中大全中闘にみられるように、セクトを離れて、ノンセクトだけが独自の集会をもっていたグループや、セクトのヘルメットの影がうすいグループが多く見られたことだ。ノンセクトが組織的にも自己主張を始めたのである。日大全共闘のリーダー(ノンセクト)はこう語っていた。
「日大も1・18.19以降、セクトがヘゲモニーをにぎる過程で、大衆が散っていきましたが、最近また少しずつ盛り返してきました。でもこれからは、単に古田がけしからんという自然発生性に依拠しているだけでは、権力側の攻勢の前にはもちません。やはり各大学間の統一戦線、また、地域的結合をはかりながら、最終的にはわれわれ自身の前衛党を形成するというところまで考えなくてはならない状況になってきました。その場合、大衆の組織化はあくまでも日大闘争を闘う中でしか不可能で、それをぬきにした政治闘争は考えられません。日大闘争そのものが政治闘争なのですから。」(後略)』

3回に分けて10・10集会の様子を紹介してきたが、1969年後半の新左翼の状況がよくわかると思う。この集会に結集した数万に及ぶ学生・市民・労働者は70年闘争をどのように闘ったのだろうか。そして、その後、どのような人生を送っているのだろうか・・・。