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これまで東大安田講堂攻防戦に関する週刊誌や新聞の記事を紹介してきたが、1969年1月18~19日にかけて、国電「御茶ノ水駅」周辺の神田・駿河台でも安田講堂の闘いを支援するための大規模な街頭闘争が行われた。
有名な「神田解放区(カルチェラタン)闘争」である。この街頭闘争からも、もう40年が経つ。神田・駿河台もすっかり変わってしまい、当時の面影を残すのは山の上ホテル近辺ぐらいだろうか。

今回は明大新聞に掲載された神田解放区闘争に関する記事を紹介する。
【18・19お茶の水ルポ 駿河台を完全占拠】明治大学新聞1969年1月30日(引用)
『「ピー」リーダーの笛が鳴った。「ウワッー」と完成をあげて、赤ヘルを中心に約50名のデモ隊がお茶の水交番を急襲。1月18日午前11時、この日から2日間にわたる神田“解放区”闘争の発端がそれである。
5分後、東大安田講堂包囲のため待機していた第八機動隊150人がオットリがたなでかけつけ、本学旧学館前の小路に陣をかまえる。続いて四機、三機。いずれも本学旧学2階付近からの投石と集まってくる学生の「帰れ帰れ」の声に、中大方向から背後を断たれるのを恐れてか、早々に退散した。
数十分後、武装学生250人のデモ隊が再度お茶の水交番・駿河台下交番を襲い、メチャメチャにこわし、中大方向に引きあげた。
午前中の前哨戦に続いて昼すぎから東大支援のため中大に集結し集会を開いていた中大、日大、上智大、本学などの「武装」学生約1000人が駿河台一帯に進出、午後2時本学前通りで機動隊2000人と激突した。
お茶の水駅前に陣どり「バババーン」と催涙ガスを連発する機動隊に、学生3000人が本学旧学館と大学院付近を中心に投石・バリケードで対抗する。
駿河台下からも機動隊が進出したが、風向きが逆なので催涙ガスが効力を発揮せず進めない。
止まっていた4台の都バスに運転手を乗せ、青ヘルの学生が誘導する、学生の間から「横づけにしろ」と声がかかる。バスは斜めに止まった。「ヨーシ」の歓声と拍手、催涙ガスと涙で薄汚れた学生の顔に微笑が浮かんだ。
その後、戦線は一進一退を続けたが、同3時30分ごろ、機動隊約50人が本学旧学館に乱入、本紙本部をはじめサークル室のドアを軒並みけ破り、物品を荒らすなどの乱暴を働いた。機動隊は学生会、学苑会室にまで侵入したが、学生のゲバ棒・投石の抵抗にあって退却。その折3人が逃げそこねて学生に捕まり殴られた。
本学学生会館横に構築した中型乗用車2台を横転させたバリケードに立てこもって抵抗を続けていた学生集団は、午後10時すぎにはほとんど引きあげ、駅前などに残る数千の群集が機動隊と対峙し、深夜まで投石を続けた。
また、午後6時学生に“逮捕”された私服警官を取り戻しに第四機動隊100人が再度本学学館中庭に侵入、ガス弾を連射し1・2階を制圧、「帰れ帰れ」の大合唱の中を私服を取り戻して引きあげた。
なお、機動隊におわれた群集などがお茶の水駅構内へ逃げ込んだため、国電が一時ストップし、ダイヤが相当混乱した。
2日目の19日、午前10時から中大で「東大闘争勝利・東大奪還集会」を開いた反日共系全学連各派および反戦青年委員会など約2000人は、正午すぎ、駿河台を中心に学生街を“解放区”と呼び、周辺に十数ヶ所のバリケードを構築した。日大全共闘、中大全中闘がこれを防衛し、それ以外の部隊は本郷の東大に向かった。
“進撃”部隊はまもなく本郷二丁目で機動隊と衝突、追い散らされたが、順天堂医院前のバリケードに拠って機動隊に激しく投石、これを退けた。
バリケードは車・イス・机・敷石などで築かれ、大きいものは高さが2メートル以上もある。ヘルメット姿の学生を市民群集が取り囲む形となり、お茶の水駅付近では最大時1万人が結集し、遠まきにした機動隊も手が出せなかった。
午後7時ごろ、本郷方面から進出した機動隊に青ヘル中心の学生がバリケードから火炎ビンで抵抗した。パッと炎が闇の中に閃めくたびに群集から歓声があがる。
午後10時、機動隊が攻勢に転じた。学生たちは少し前からひきあげを開始しており、これと対峙したのは市民群集約1000人で「帰れ帰れ」とシュプレヒコールを繰返し、発射された催涙弾を投げ返した。
手をやいた機動隊はガス弾を連発、「ウオー」と声をあげて突撃、これをけ散らしたが散発的な抵抗は深夜まで続いた。
この2日間にわたる神田“解放区”闘争は、機動隊6500人を動員して行われた東大安田講堂封鎖実力解除、いわゆる「安田城攻め」に対し、東大―日大―中大を結ぶ“鉄の三角地帯”を騒乱状態にすることによって牽制をはかり、安田講堂への進撃を勝ち取ろうというものである。
(後略)』

次回は神田解放区闘争外伝です。