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前回、1969年1月の神田解放区(カルチェラタン)闘争の新聞記事を紹介したが、いつも記事を引用している「サンデー毎日」に、放送作家永六輔氏による神田のルポが掲載されているので紹介する。
街頭でヤジ馬が健在だった頃の様子がよくわかる。

【石のひとつも投げてかえろうよ ヤジ馬の心情 永六輔】
サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『(前略)
<“祭りの夜”みたいな興奮>
山の上ホテルの裏で駐車して、ホテル脇のバリケードをくぐりぬける。
ホテルもいつものように営業しているし、駿河台からお茶の水までの、つまり、機動隊と学生が対立している通りも、半分は閉店しているが、半分は営業している。
ガス弾が目に痛いので駅前の喫茶店「ミロ」に入り、コーヒーを飲んでは外の様子をみにいったりした。
小さな駅前広場はヤジ馬と報道陣で一杯、その足元にガス弾の火花が散る。
数人の外国のジャーナリストが駅前の攻防を肩にかついだテープレコーダーで録音している。フランス人はフランス語で、その「カッコよさ」にヤジ馬がとり囲み、調子のいいのがフランス人の肩を叩いて「カルチェラタン」などといったりする。
目の痛いことを除けば村祭りの夜みたいな興奮がある。
スラリとした足元は白のブーツ、真赤なミニスカートとゴーゴーガールなみ、それでいてヘルメットを被っている娘がいる。
あきらかに意識したお洒落なのである。フッションショーのようだった。
「ミロ」はこのあと11時過ぎまで店の前の乱闘騒ぎの間もチャンと営業していたのである。「ミロ」だけではなく、石とガス弾の飛び交う間で営業していた商店は何軒も数えられた。
報道されなかったことのひとつである。

<逃げていったヤジ馬が>
10時に学生とヤジ馬の間をかきわけて「ミロ」でコーヒーを飲み、テレビで「東大・お茶の水」のニュース特集をみて、11時すぎに店を出るときは、なんと機動隊をかきわけて出てきたのである。
このとき機動隊の敵はもう学生ではなく完全にヤジ馬だった。
早速、機動隊員に腕をつかまれて
「君達は何だ!」
「見学です」
「見学?つまりヤジ馬か」
「ヤジ馬ではなく見学です」
「永六輔さんでしょう」
「そうです」
「取材なら腕章、ヘルメットをつけてください」
「僕、取材じゃないんです」
「ヤジ馬ですか」
「済みません」
頭の上でスピーカーがなるのは「11時すぎだから帰りましょう!」という言葉だ。
「感覚が古いな」とつぶやいたらジロリとにらまれた。
僕達は追い返されるように解放されたばかりの橋を渡って順天堂病院脇のバリケードを乗り越え、本郷通りに出ると、そこでタクシーをつかまえた。
後楽園の脇から水道橋をぬけて、神保町を左へ、山の上ホテルの裏で下車した。ホテルの前あたりでガシン、バシンと音が聞こえる。
もう一度、ホテルの前にでて主婦の友の通りへ駆けつけた。入れ違いにヤジ馬が逃げてきたが、どうやら機動隊のはさみ討ちが成功したらしい。
ヘルメット姿の学生は学校に逃げこんだのか1人もいない。逃げっていったヤジ馬がいつの間にか僕達の背後に戻ってきていて「よう、せっかく来たんじゃねえか、石のひとつも投げて帰ろうよ」などといっている。
僕がふり返ると「今晩は」と着易くあいさつをする。

<その日の記念品を戴く>
「永さんですね」とまた別のヤジ馬が声をかけてきた。
「いいものをあげます」
安田講堂の総長室から持ってきた法学博士の「学位記」である。
「永さんの名前を書きこめば博士ですよ」
「よく講堂の中に入れたね」
「どこだって入っちゃうさ、へへへ」
職人風な頭に、ザックリしたセーターを着たヤジ馬はピクン鼻を動かして嬉しそうに自慢した。
取材陣さえ制限された東大内のしかも安田講堂の中にヤジ馬がいたということの見事さ、僕は驚き呆れながら、その日の記念品を戴いた。
12時を過ぎると祭りは終わった。
アベックが肩を寄りそって駅の方へ歩いていったし、僕達もバリケードをくぐりぬけて車に戻った。(後略)』

この不思議なヤジ馬は誰だったのだろうか。
1月の新聞にこんな記事が載っていたが、永さんが遭遇したのはこの人かな?

【オス!と安田講堂へも 先輩装い学校あらし】毎日新聞1969年1月28日(引用)
『「オス!しっかりやってるか」と先輩をよそおい都内各大学や高校の運動部を訪れ、選手が練習している間に現金、腕時計などを失敬、合計約300件、1千万円相当を盗んでいたドロボウが25日夕、東京・世田谷署につかまった。(中略)
今月7日には全共闘派がとじこもっている東大の“安田城”を訪れて、やはりこの学生証を出し「応援に来た」といってはいりこんだという。
「にぎりめしをくれたりして居心地がいいので3階で4日間泊った。何もせずにブラブラしていたが、時々議論をふっかけられるので困った。チンプンカンプンなので笑ってすませた。」といっている。(後略)』