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前回に引き続き青山学院大学の闘争の様子を当時の新聞記事から紹介する。(写真は筆者撮影)

【青山学院大学の学園民主化闘争】毎日新聞1969.2.1(引用)
『冬休み明けの1月18日、大木学長の3月までの学長退陣(ただし学院長はそのまま)を前提に桜井信行学長代理と共闘会議との間に団交がもたれ、共闘会議が要求していた6項目について桜井学長代理が署名、はじめてバリケード封鎖が解かれ、やっと正常化が実現された。
確認書に盛り込まれた「1.“学長三告示”に関する大学側の自己批判。2.三告示に該当した昭和41年芝田法大助教授の講演強行事件の処分の白紙撤回。3.自治会設立。4.表現の自由。5.昨年12月20日の理工学部機動隊導入の自己批判。6.無用な器物破損と盗難を除き、今回の闘争について処分者をださない。」
の6項目は、今後教授会と共闘会議の主催する4月開催予定の学生大会の双方で確認された後、正式に効力をもつことになる。

<学生側の統一組織の必要性>
大学側の対応の仕方に一貫性が欠けていたのと相応して、学生の側にもかなりの意識のバラツキがあり、それがまた紛争をもたつかせたことも確かである。
共闘会議に結集した学生は少数だったし、11月30日の大木学長の発言の後でも、学内デモに参加したのは数百人にすぎなかった。
また、明確に共闘会議に対立する勢力として、学生懇談会が発足、大衆団交が全学生に徹底しなかった手続き上の不備を攻撃し、本当の青山学院大の学生の意思は共闘会議側にはないと批判を開始したのも、そうした動きの現われだ。
さらに厄介な問題はそのいずれの組織もが正式に学生の意思を反映し結集する代議員機関ではない変則状態にある。
自治会が存在し、機能していればこの種の混乱は避けられたであろう。
もちろん例によってその両方のグループいずれにも属さない多くの無関心組がいるのも見のがせない。
「まったく恥ずかしい話ですよ。いまごろ自治会設立闘争などという後進国的な闘争をやっているんですから。それにしてもこんな初歩的でしかも重要な基本的問題でさえ、無関心な学生が多いのは、結局のところ意識の低い学生を大量に培養した“三告示体制”の成果なんでしょうがね。」とは、ある学生の話だ。
大学側の不十分な対応と弱い学生基盤とが、なんとか辛うじて一致点を見出した感じの今回の紛争だが、もちろんまだ最終的な解決は依然として残されたまま。
教授の間の桜井学長代理の独走だという批判と、共闘会議の学生と一般学生との間の距離とは、事と次第によっては今後確認書を宙に浮かしてしまう懸念もある。
自治会の組織作りとともに、確認書の中には学長リコール制に関して今後学生との間で協議するといった取決めもはいっているので、学園民主化の次のステップが、4月からどのようなスケジュールで進行していくかが、当面の関心を集めることになりそうだ。』

これは69年2月段階の状況であるが、青学大のその後の様子を新聞記事と朝日ジャーナルから見てみよう。

【全共闘が無期限スト】毎日新聞1969.6.21(引用)
『「大学立法反対、大木金次郎院長の退陣」を要求する青山学院大学全共闘は20日から無期限ストにはいった。
同日、午後1時すぎから約1,000人が910番教室に集まって総決起集会を開いたあと、夕刻までに正門など6ヶ所の門をバリケード封鎖した。同日の授業は全共闘系学生によって封鎖された1号館を除き平常どおり行なわれている。』

【朝日ジャーナル 1969.6.15号「学園ハガキ通信」】(引用)
□無風地帯に変革の嵐(青山学院大)
『昨年10月以来、学生運動の無風地帯といわれた青山学院にも、変革の嵐がやってきた。全共闘によって暴露された大学当局の欺瞞性は三公示体制(中略)に代表されるキリスト教民主主義=反共民主主義であることを、青山学院に学ぶ1万学友が自ら認識した。
青学でも、明学でも、上智でも神は生きていた。
「俺は青学 ノンポリ育ち 何も見たくない 考えたくない
俺は青学 温室育ち 何もやりたくない 見たくない」
に代表される青学生は、いま大きな自己変革の過渡期にいる。
現在闘われているところの大学立法抗議全学ストライキは、学内民主化闘争から、反権力闘争への闘争へと発展していることは、かっての青山学院では考えられないことである。
青学大闘争は日大的泥沼闘争か大学改革かの2つの可能性をもちつつ、今後も闘われていくだろう。(大川章 経営学部)』
(つづく)