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前回に引き続き「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」の様子を朝日ジャーナルの記事から紹介する。(写真は朝日ジャーナルから転載)

【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『(前略)たとえば会場の模様を大阪版「朝日新聞」(8月9日)はつぎのように描写した。

【高校生が赤いタコをあげていた。「高くあがるほど、革命の日が近づく」。
ヘルメットの学生が佐藤さんの首つき人形をけとばした。1回10円。ボール箱のなかに10円玉が7枚。
ハンパク座で白雪姫のエッチなせりふに観客が笑いころげた。
フーテンがボロぎれをからだにまきつけて歩いている。
少女がタイコをたたいて踊っている。
ゴムぞうりの男が花火を鳴らして、叫んでいる。
公害を告発するパネルには「わたしたちの体内には、毎日60種類から100種類もの毒が入りこんでいる」と書いてあった。バイ煙、ガス、有毒色素などだ。
基地反対闘争のパネルには、催涙ガスの傷害写真が・・・。】

あふれ出るエネルギーを描写しつくすにはこれだけではじゅうぶんではない。
おりしも開かれている甲子園の全国高校野球選手権大会もまた、若者のエネルギーにあふれていたのだ。
甲子園とハンパクのちがいは、前者がすべてゲームのルールに秩序づけられていたのにたいして、後者では、あらゆる反戦、反権力、現状告発のエネルギーが無秩序にぶつかりあっていたことだ。
ハンパク市民大学で「科学と戦争」「現代の構造」「反戦と変革」「思想と行動」「文学と情念」「歴史と現実」などが連日論じられるテントの会場には、ほとんどたえずフォークやどこかしらのスピーカーの音が流れこんでいた。
「週刊アンポ」が売られ、反戦占いがひかれ、反戦手相が見られた。
東京声なき声の会が60年安保以来のその活動を、スライドとテープで解説しているかたわらには、パチンコ反戦、ホステス反戦ののぼりが立っていた。(中略)』

ホステス反戦は記憶にある。ホステス風のドレスを着た女性が1人で「ホステス反戦」と書かれた旗を持って会場内を歩いていた。
ホステスさんのグループではなく、個人の意思表示という意味合で旗を掲げていたのだろう。
そのようなグループが会場内には大勢いた。

連載93の「万博破壊共闘派」も、会場内で「儀式」を行なっていたようだ。
写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)には、その時の写真が掲載されている。
「万博粉砕万博破壊共闘派」という横断幕を背に、万博破壊という文字を書いた羽付のヘルメットを被り、サングラスにマスク、裸で「わいせつ物」と書いたふんどしを付けて右手を掲げている様子が写っている。

この「ハンパク」会場には日大全共闘のテントもあった。
会場には日陰もないので、このテントの中で休ませてもらった。農獣医のSさんの紹介もあり、すんなりとテントに入れてくれた。
また、最終日の御堂筋デモの時には、農獣医のヘルメット(黒のツヤ消しに白文字で全共闘、後ろはN)も貸してくれた。

引き続き朝日ジャーナルの記事を紹介する。
『<ホットドック事件>
組織よりも運動を強調するベ平連らしく、ハンパクの会場は、いくつかのハプニングに彩られた。
ホットドック事件。4日間で合計6万人の参加者を集めた(ハンパク協会発表)会場の食料調達は、主として参加者自身が経営した協会協力店によってまかなわれたが、そこには何軒かの移動ホットドック店も見られた。
8日夕方、このホットドック屋を排除するために、7人の制服警官が会場に入り、発端となった。
その警官を導入したのは、ハンパク関係者の西川と名のる人物であったらしい。
ただちに事務局にたいする追及がはじめられ、以後3日間にわたるその論議は、いかなる催し物にもまして、人びとの参加を集めた。
9日のハンパク市民大学は、講師をそっちのけにして、追及集会に切替えられたが、こうした転換の自由さがいかにもベ平連らしく、講師もまたその討論に加わっていた。(中略)
討論は紛糾した。ホットドック屋排除の第1日の決議は、第2日には、同じ参加者の手によってくつがえされ、同じ働く仲間として会場内における営業が認められた。
もちろん事務局は、その手続き上のミスを自己批判した。(中略)』

移動ホットドック店も見かけたが、客も殆どなく、手持ち無沙汰にしていた。
会場内でどんな食事をしたのか、さすがに記憶にないが、ホットドック食べたかな?

(つづく)