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前回に引き続き「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」の様子を朝日ジャーナルの記事から紹介する。(写真は朝日ジャーナルから転載)

【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『<デモをめぐって>
ゆっくりとした大衆的思考の発展にそって、第2のハプニングが起り、徹夜の討論をへて、ふたたび緊急集会が開かれた。
ことはふたたび「事務局」の一方的に発表した最終日11日夜の「10万人御堂筋デモ」のスケジュールをめぐって論じられた。
第1艇団は学生、労働者のいわゆる「強いさん」部隊、第2艇団は「フツウの人部隊」、第3艇団は市民、機動隊を一視同仁、花を配る「フラワー部隊」、第4艇団はフォークを中心として道ゆく人の参加を誘う「後に続くを信ず部隊」。
批判者たちも、この艇団の組み方そのものに異存があったわけではなく、むしろそれが大衆的討論をへずに一方的に流されたことを問題とした。(中略)
そしてせっかくの羽仁五郎老を招いての講演会も中止してふたたび緊急集会。
くりかえし執拗な批判者となったのは、ベ平連そのものを生み出した
「声なき声の会」および日大全共闘など一部の人びとであったが、その声はかならずしも会場の、ごく少数だけを代表しているとは思われなかった。
批判者の主張はこうだった。
「いませっかく5日間の活動をへて、ようやく盛り上がりを見せつつあるときに、あらためて“ハンパクとは何か、われわれはなぜデモをするのか”についての議論を深めることなく、予定があるからといってデモに流されていくのは、一種の欺瞞ではないのか」
そこにはまた「何よりも量を」というベ平連の暗黙の方針に対する疑問もあった。
ベ平連の大衆主義が、低きにつく大衆追随主義でないことは、この運動の軌跡を知る者の目には明らかだった。
だから吉川勇一氏は、「ヘルメットをかぶりゲバ棒をもつデモを最高形態とし、何もしないデモを最低形態として、ベ平連は、より多くの人を集めるために何もしないデモを計画するといったことはしていない」と反論したし、関西べ平連の山本健治氏は、「私たち自身、まず量をと考えて行動してきた。
しかし、7月20日、梅田駅地下街にすわり込み、固くスクラムを組んで、“警官帰れ”とシュプレヒコールをあげる以外には何もしないという非暴力直接行動による抵抗に、その集まった量がどの程度耐えられるかの自己実験をした。全員が4・5回のゴボー抜きに耐えた」とその実験を説明した。
だが他方、鶴見俊輔氏は「ベ平連は一種の“手づくりの運動”として出発した。そして今では、大きな花火をうちあげて大衆を集める実力をもつようになった。
いまでは、ベ平連は、全国でおそらく100万の動員力をもっているだろう。こうした大衆主義は、一種の自己欺瞞、悪をふくんでいる。
べ平連といえども、その悪をまぬがれることはできない。
そのとき、ベ平連の原点に残されている手づくり運動部隊は、大衆主義の悪の解毒剤として作用するだろう」とも論じた。
こうして「デモのスケジュールに流されるな。ハンパクの意義、デモの意義について論じようという声がくりかえしあがった。』

ベ平連は当時、ここに書かれているように、おそらく全国で数十万近い動員力を持っていただろう。
政治的にはいかに「量」を増やすか、という方向に流れていきやすいのだが、「量」を増やすことが孕む問題をどう自覚し、闘争の「質」をどう高めていくのか、「ハンパク」でのデモをめぐる問題提起は、それを問う作業だったのだろう。

『<自己への闘い>
千人を超える人びとが大テントのなかで熱っぽい議論をつづけるうちにも、デモ出発の時は刻々と迫った。シュプレヒコールの声が騒々しくいりかい、「友よ、夜明け前の闇の中で・・・」とフォークがきれぎれに聞こえた。結局、デモに行きたい人は出発し、議論をつづけようという人が残った。
テントの人数は、200人ほどに減り、日ざしもかげって、熱っぽさはうすれ、人びとは、ゆっくりと自分の経験や心情を語り始めた。
他方、デモのほうも「最低3万人」という主催者の予想どおりの人数を集めて、御堂筋まで6キロの道を歩き通した。
たしかにここには、大衆への量の拡大と、少数の質の維持との矛盾が露呈されていた。(後略)』

前回書いたように、私は日大全共闘のヘルメットを被って最終日の御堂筋デモに参加した。
8月のデモは暑くて大変、解散地点の公園では水のみ場に参加者が群がり長蛇の列。私もようやく順番が来て、最初に頭に水をかけ、ヘルメットに水道水を入れてそのままゴクゴクと飲む。
近所の自動販売機も品切れになり、牛乳店のおじさんが閉まっていた店を開けて牛乳やジュースを売っている。さすが大阪、商売根性が違うと感心。
当然のことながら、日本万国博覧会(EXPO‘70)には行っていない。
(終)