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先日、ある方から「東洋大学新聞縮刷版(69年~75年)」を預かった。
大学新聞は、当時の大学内の様子のみならず、文化的な状況などを知るための大変貴重な資料である。
そこで、今回は東洋大学(東京・文京区)(写真は筆者撮影)の闘争について紹介していきたい。

大学新聞によると、東洋大の闘争は、当初、昭和39年の確約である43年春までに図書館を竣工し、△修慮紊燭世舛乏慇顕餞曚侶暙澆砲箸蠅かる、の履行を要求した闘いであった。
1968年6月28日、この昭和39年の確約の履行を要求して理事長室前でのすわりこみを行なっていた学生に対し、大学側は機動隊を導入。172人が逮捕され、2人が起訴された。

この機動隊導入を契機として、〕??颪狼‘安眛各?鮗己批判し、総退陣せよ。学生会館を即時建設し、管理運営権を学生の手に。図書館の建設を白紙撤回せよ。こ慇鍵儖?饑度撤廃の4項目をスローガンに50日間の全学バリケード・ストが行なわれたが、10月28日、右翼によりバリケードが破壊された。

その後の様子を大学新聞の記事から見てみよう。
【5号館の封鎖解除さる 全学ストに止揚できず】東洋大学新聞1969.4.9(引用)
『社会学部自治会は、去る1月25日から2月14日まで、図書館、学館闘争勝利、8項目要求獲得のため、5号館封鎖を行なった。
その間、社自、文スト実、経自、営自、法自の各代表は、大学当局と4回にわたり、問題解決の場と位置づける公開予備折衝に向けた会議を持った。
しかし、大学当局は常に、折衝日程を引き伸ばし、3回目の2月5日には、2月17日という試験も終わり帰省など学生の減少で大衆的な折衝の不可能な日を提起し、4回目8日には会議の席上、学生側の代表権問題で、折衝の具体的内容には一切触れずに交渉は決裂。結局、公開予備折衝は開かれなかった。
そして後期試験が社会学部の専門科目の試験がレポートに変更されただけで終わり、16日に地区別の入学試験を控えて、14日午後4時過ぎ、教職員の手で封鎖が解除された。(後略)』

大学新聞によると、この封鎖解除後のロックアウトの中で、入学試験、3月25日の卒業式、4月9日の入学式が行われた。社自は入学式に対し、会場周辺などでデモを行い、新入生に闘争に加わるよう呼びかけた。

【沖縄人民と連帯を確認】東洋大学新聞1969.5.16(引用)
『4.28沖縄闘争に向けた、全学総決起集会が、社学同、学生インター、学生解放戦線などの呼びかけで、4月28日、正午から2号館前で、社学同系、学生インター系、学生解放戦線系、ノンセクトなど約200人を集めて行なわれ、佐藤内閣の「核抜き、本土なみ」構想は、沖縄を日本のアジアへの侵略基地の要めと、とらえているとして首相官邸、霞ヶ関一体を占拠することを確認した。(中略)
しかし、霞ヶ関一帯は、機動隊の厳重な警備体制下にあり、学生戦線の隊列では機動隊の阻止戦を突破することは不可能であるとし、急きょ、銀座・新橋方面で沖縄解放のデモンストレーションを行うことを確認した。
午後6時頃、銀座方面に向けて本学を出発した隊列は、7時頃、銀座4丁目に到着し、デモンストレーションを行なった。
なお、本学に結集した学生は、本学のほかに中大、芝工大、一橋大の学生インター系、約40人も含まれていた。』
4.28では、東洋大が第四インター系の出撃拠点となっていたようだ。

【自治会室破壊さる 右翼の暴力活動が表面化】東洋大学新聞1969.5.30(引用)
『26日、午後10時頃、バスに乗ってきた「新学生協議会」を名のる学生らしき男12~3人が突然、中庭などにあった立て看板を破壊し、経営、社会、法学部の各自治会室、文連本部、放送研究会室などへ次々と侵入し、机・機械などを壊す破壊活動を行い、重要な資料・書類・機械などを多数持ち去った。
同10時40分頃、再度、先の男たちが二部自治会室に乱入しロッカーなどをこじ開け、中にあったビラなどの書類を同様に持ち去った。
今回の右翼による暴力的破壊活動は23日夜にもあり、立て看板を壊し、数人の学生が重軽傷を負ったが、これらの活動は1.2部自治会室・文連などに向けて計画的に行なわれたものである。(後略)』

【右翼粉砕集会開く】東洋大学新聞1969.6.12(引用)
『愛知訪米阻止をひかえた5月29日に、右翼が学内で集会を開くとの情報が入ったため、急きょ、法自を中心として5.30実行行動委員会を結成し、右翼の反革命暴力粉砕集会を5月30日に開いた。
これに対して、大学当局は白山下に機動隊を待機させ、学内の集会を威圧し、午後9時にはロックアウトを行い、国家権力=大学当局=右翼という関係を自ら暴露した。
その上、ロックアウト中の学内で、5月26日に続き、再び文連サークル部室が右翼暴徒によって破壊された。
文連はこの暴挙に対して、5月31日、抗議集会を開き、右翼と理事会との関係を大衆的に明らかにしていくと述べている。(後略)』
(つづく)