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No108の続きです。
6月21日に吃全共闘が結成され全学バリケード・ストに突入したが、7月3日、スト後、初めての連合教授会団交が記念館で開かれ、約5,000人の学生が参加した。(写真は明大新聞から転載)

全共闘は、~感ζを正式に承認せよ学校側が出した警告と「学生諸君へ」の要請書の撤回と自己批判3慇犬離好噺△鬚匹里茲Δ帽佑┐討い襪ぢ膤慘法反対といいながら大学は何も活動をしていないではないか、と大学側に回答を求めた。
大学側は、~感ζと中執の関係がよく理解できない警告文は学園の自治を守り学生諸君に理性的行動を求めるために発したものだ3慇犬亮治の建前からスト権は認める。しかし、バリケードは異常事態と思わざるを得ないので、バリケード・ストライキは認められないぢ膤慘法に関してはわれわれにできる行動で反対している、と回答し、議論が続いた。
しかし、全共闘承認問題など最後まで一致点を見出せず、11日に再度団交を持つことで閉会した。

7月6日、和泉校舎で吃全共闘を構成する最大党派である社学同の内ゲバが起こる。その後の明大全共闘の行く末を暗示するような出来事であった。
【社学同統一派、まっ二つ】毎日新聞1969.7.7(引用)
『(前略)社学同統一派が、戦術問題をめぐって急進的な関西派とやや穏健な関東派に分かれ、6日朝、東京杉並区の明大和泉校舎で衝突、事実上の分裂状態に陥った。(中略)

6日午前9時25分ころ、東京杉並区和泉の明大和泉校舎本館前で約100人の関東派と約50人の関西派がそれぞれ角材にヘルメットで武装、ぶつかった。
衝突はまもなくおさまったが、約1時間後、同校東側の同区永福町1の8の1、築地本願寺墓地内でも両派が内ゲバ、数で劣る関西派が追出され、2人が重傷を負って病院に収容された。(中略)
警視庁の調べだと、社学同統一派は14日から16日まで中大講堂で安保へ向けての大会を開く予定だったが、6月下旬千葉で開かれた幹部会議などで、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの戦術をめぐり、「革命軍をつくって決戦」という急進的な関西派と、やや穏健な関東派の意見が分かれ、微妙な対立を続けていたという。
両派の対立は大会前にさらにもつれ、5日夜、関西派が上京したため、関東派も動員をかけ、神田駿河台の中大、明大、お茶の水の東京医科歯科大などに両派約600人が泊まり込み、こぜり合いを続けていた。(後略)』

この7月6日の内ゲバについて、当時、明大局瑤砲い申顛房子氏が、「図書新聞」の「60年代・70年代を検証する」シリーズの中で語っている部分があるので、紹介する。
【全共闘の魂はアラブを駆け巡った】図書新聞2008.9.13(引用)
『(前略)赤軍派の結成というのは、明るいのもではありませんでした。いわば「はずみ」で、そうなってしまったというところがあります。
またまちがった形で、どちらにしても「はずみ」で、分裂していたとは思います。当時の党観自体に問題があったと思いますから。
「スターリン批判」をしつつ、日共も新左翼も、党の唯一性、無謬性を原理としてひきずっていて、他を認めない、他を批判することが立脚点になっていました。これは分裂にしかなりません。
分裂の党観においては、指導者の人格にもよりますが、意見のちがいを共存、和解させていく方法論を、当時もちえませんでした。
1969年の7.6事件というのが、赤軍派結成のまちがった「はずみ」を生みました。
これは、赤軍派の党内党的な動きに対しブントの中央指導部から査問や処分を行なおうとしているとのことで、「赤軍フラクの要求する“革命を担う党”への改組に、まじめにとりくんでいない。今のブント指導部ではできない。指導に異議を申し立て、自己批判をせまろう」と、7月6日に、明大和泉校舎におしかけて、当時の議長の仏徳二さんをはじめとする人々を糾弾し、そのはずみで暴力を行使しました。
その時、機動隊が包囲して、当時4.28闘争への破防法適用で指名手配中の仏議長が、赤軍派の暴力で怪我したまま逮捕されてしまいました。
また、当時赤軍フラクは、医科歯科大を拠点としていましたが、戻ったその拠点を、今度は、ブント内の他のグループ、後の叛旗派に襲撃されて、フラクのリーダーだった塩見孝也さんらが拉致されました。この時、これまでいつも一緒に活動していた仲間が襲撃し、されることに仰天しました。
「革命とは、こんなことをしないといけないのか?何か変だ」と。
仏さんを攻撃した時、現場にはいませんでしたが、その話を聞いて反省していたのに、今度は、同じ日に逆に襲撃されて、その時には、私もいたのですが、やられたことに腹をたてました、リーダーがやられて、中大につれていかれてしまった以上、このままではすまない。奪還しなくちゃ!と、一歩またふみだしました。
この7.6事件によって、ちょっと僭越な言い方をすれば、私はルビコンの川をわたりました。(後略)』
(つづく)