イメージ 1
2月6日、「明大2月6日に集う会」が開催された。
この「集い」に参加できなかった多くの仲間のために、当日の報告を3回に分けて書くことにする。

北風が強く吹く中を多少早めに家を出て、電車に乗りながら「誰に会えるだろうか」と考えているうちに、JR「御茶ノ水」駅に着いた。
改札を抜けると駅前で動労千葉がビラくばりをしている。駅前のビラ配りの光景は昔と変わらない。
駅から歩いて会場の明大大学会館に向かう。旧4号館跡地である。昔の木造2階建ての古ぼけた建物が目に浮かぶ。
大学会館の入口横に立っている警備の職員を横目で見ながら中に入り、会議室まで行くと、まだ準備の最中。気合を入れすぎて、ちと早く来てしまったか。
ソファーに座っていると米田氏が私を見つけて声をかけてくれた。
「5時からの報告の中で、明大全共闘ホームページの件を報告してくれ」とのこと。もしかしてとは思っていたが、発言を求められた。

会議室は70名程の参加者で一杯となり、土屋源太郎氏(砂川事件・元被告)の講演が始まった。(写真)
講演の冒頭、「砂川の暑い日―砂川闘争47年目の証言」(砂川を記録する会・2002年)の一部が15分程上映された。

土屋氏は昭和28年明大入学、学生会中央執行委員長となり、日本共産党明大細胞に入党。
全学連書記長、都学連委員長として砂川闘争を闘った。
土屋氏は、当時の学生運動の流れや共産党からの除名の話などを交えながら、砂川の現場での闘争の様子、逮捕の状況、裁判で伊達判決を聞いた時の驚きなど語った。
そして2008年、機密指定を解除された米公文書の調査から、当時の駐日大使が、伊達判決の破棄を狙って外務大臣に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談したりするなどの介入をおこなっていたことが判明したことをきっかけに、日本側における関連情報の開示を求めて「伊達判決を生かす会」を結成し、情報開示を要求する活動を開始、その状況なども報告された。
『伊達判決を覆した最高裁判決に至る過程で、日米政府間でどのような交渉が行なわれたのかは、決して50年前の「昔の話」ではなく、普天間基地問題をはじめ沖縄や全国の米軍基地の存在の根幹に関わる現在の問題である』との認識で活動を続けられており、1月30日の日比谷野音の沖縄集会にも参加されたとのこと。
日比谷野音では沖縄の大学の自治会の旗を見つけ、参加している若い学生に「本土では大学に自治会がなくなってしまった」と話すと、驚いていたという。
土屋氏は今年で76歳になるが、講演は年齢を感じさせないほど熱気に溢れ、予定を30分オーバーして終了した。

しばし休憩ということで、会議室から出るとN氏がいた。明大文学部72年入学の黒ヘルである。「ひさしぶり」と握手すると、会場がわからなくて迷っていたとのこと。
N氏とはホームページを介しての付き合いなので、お互い住所も電話も知らない。
話しているうちにN氏はソファーに座っている重信メイさんを見つけた。重信房子さんの娘である。
N氏は携帯で写真を撮ろうとしているが、なかなか写らないようだ。
しばらく携帯をいじっているうちに、押すボタンを間違えていたことを発見。無事、撮影は終了し、その時の写真はN氏のブログに掲載されている。

休憩の後は、生田、局堯∨楾察ο太瑤了臆端圓ら現況報告があった。
報告の前に、今回の集いの呼掛け人である米田氏から、以下のような開催にあたっての趣旨説明が行われた。

『オール明治の集まりは1990年から10年ごとに開催している。
今回は大きく分けて3つのグループが参加している。1つ目は生田関係で毎年H氏を中心に新年会を開催している。
2つ目は「ネットワークM66」で、怪しい団体と思われるかもしれないが、明大に1966年に入学した者の集まりである。メンバーは約20名、名簿には60名程載っている。2006年には学費闘争の資料集を出した。
3つ目は重信さん関係の「土曜会」。
私が生田の新年会に参加した折、H氏からの提起で、ネットワークM66の呼びかけにより、今回の広く参加を呼びかける集会を実施することになった。』
とのことであった。

報告の最初は、先程講演を行なった土屋源太郎氏。
『現在、生田の中村幸安氏(明大助手共闘)を含めたOB会をやっている。4~5年前からやっているのだが、皆さん歳なので亡くなる方が多い。そこで毎年やることになった。』
と、年齢を踏まえたOB会の実施状況を報告。
土屋氏が『明大で開催するには、校友会に入っていないと会議室が借りられないのでは』と米田氏に聞くと、米田氏が『私も校友会に入っていませんが、大丈夫です』と応じ、会場爆笑という場面も。

この後、生田、局堯∨楾察ο太瑤了臆端圓ら報告が行なわれたが、ブログの字数制限の関係で、続きは次週紹介する。
(つづく)