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No120の続きです。
和泉地区では夏休みに入ると全共闘の動員力も極端に落ち、バリケードの検問所にもヘルメット姿が見られなくなった。
誰でもフリーパスのような状態で、キャンパスには学生の姿も少なく、静かな夏の日差しの中で、体育館から体育会の練習の声だけが元気良く聞こえる程度であった。
この7月下旬の各校舎の様子が明大新聞に載っているので見てみよう。

【和泉 機動隊に起こされて】1969.8.7明大新聞(引用)
『内実はともかく、最も元気のよかった和泉地区ではあるが、最近は全く精彩を欠いている。
和泉地区全共闘の組織的活動はほとんど行なわれておらず、代表者会議、警備、レポなどは皆無である。
泊り込みの学生も、当初100名近くいたが、このところ約30名と激減した。
本部の多くて7~8人、少ない時は2~3人、わずかに電話の交換が細々と行なわれている。(中略)
去る16日、和泉校舎1号館、学館、部室センターが捜査されたが、正門バリケードが撤去されそうになっても、全然気付かなかった。しかも朝の7時。
この時、1号館には32人が泊り込んでいた。
内ゲバに関係のあるブント系の学生は一目散に逃げたが、クラス闘争委員会のノンセクト学生は右往左往、ケッサクなのは機動隊に起こされた学生・・・。(後略)』

この記事にある機動隊に起こされた学生は、私の所属していた414B統一戦線のN君かもしれない。確かN君から機動隊に起こされた話を聞いたことがある。

【生田 手づくりのガリ新聞】1969.8.7明大新聞(引用)
『(前略)
ここにガリ版ですった、手作りの新聞がある。
1つはその名も「二枚舌」。誰かを皮肉ったらしい。
7月15日(火)付で創刊号である。4ページ建て。
1面のトップには「情況を切開く者へ!農再編再考の一視点」という見出し、「天下堂ビル占拠(11日)」のニュースあり、これまでの闘争経過あり、さらには「朝日ジャーナル」から転載した「秋田議長の獄中日記」まで掲載している。
もう一つは「黒潮」新聞。これも創刊号で、日付は7月16日。
トップは「7.11団交、逃げの明治本性暴露」と何やらスポーツ新聞めく、そして、これも同じように闘争経過を載せている。
いずれも週刊だそうで、出来上がった新聞は田舎へ帰っているクラス員に郵送しているという。
散りぢりになったクラス員のコミュニケーションにはいい方法である。』

写真は生田の農学部解放放送局(明大新聞から転載)

【本校 5年生卒試を阻止】1969.8.7明大新聞(引用)
『駿河台一帯にまだ人影もまばらな午前8時半、本学全共闘200人のデモ隊の笛が路上にこだまする。
法学部5年生卒業試験阻止のためにデモ隊は“男坂”から試験予定会場の明治高校で急行した。
しかし、そこには「試験中止」の貼り紙と2,3の職員を残すのみ。
法学部事務長をつかまえて聞く「何で試験を中止したんだ」いわく「“卒試粉砕”のタテカンが出てたから。」
(中略)
全共闘は22日から生田合宿のため出かけたが、その間本館はガラガラ。留守部隊がわずかに残っていた。
また、21日、突然旧学生会館(8号館)2階の駿台祭実行委員会室があっという間にとりこわされた。
生協の書籍部が移転してくるという。
これに対し学苑会は“抗議”の警告文を出し、工事の中止を要請している。ほか、諸団体からも抗議の声が上がっている。』

7月末、全国全共闘連合結成に向けた会議が、和泉で行なわれた。
【戦略、実はバラバラ 全共闘連が初会合】1979.7.31毎日新聞(引用)
『9月上旬に結成をめざしている「全国全共闘連合」の初の全国代表者会議が30日、東京杉並区の明大和泉校舎で開かれ、関東・関西地区を中心に紛争中の約80校の代表300余人が集まった。
個別学園闘争から全国の全共闘がスクラムを組んでの総反乱へ。
キャンパスから再び“市街地闘争”へというわけで、革マル派を除く反日共系諸党派とノンセクト・ラジカルが大連合したものである。
議長には潜伏中の山本義隆東大全共闘代表、副議長には拘留中の秋田明大日大全共闘議長が予定されている。
このほか各党派の代表による全共闘事務局または書記局が置かれ、事実上の指導部となる。(中略)
しかし、各派の大連合とはいうものの学園闘争を教育改革闘争として位置づけるか、政治闘争とするかをはじめ11月の佐藤訪米闘争をどの程度の展開にするか、70年安保闘争をどう進めるか、その中で全国全共闘連合がどういう役割を果たすべきかなどの点では各派の主張もバラバラ。
全国全共闘連合をともかく発足させようという1点だけでは各派一致しているが、あとは同床異夢といったところ。
30日の代表者会議でも各セクトの基調演説がヤジで聞きとれないほど騒然とした。』

(つづく)