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前回の続きです。

全学集会の様子を明大新聞の記事で見てみよう。
【全学集会は流会】1969.10.9明治大学新聞(引用)
『<学長は所信表明ならず>
授業再開へ向けて、注目の全学集会は10月4日、八幡山グラウンドで開かれたが、学生が演壇を占拠したため、学長自らの所信表明はならず、流会となった。
グラウンド入口では教職員130人が学生証を検分、大学側のパンフを学生に手渡した。
事前に要請された機動隊は一般学生を刺激させないためか、学生の目の届かないところに待機しデモ隊に備えた。
会場の陸上競技場は約8000人の学生で埋まった。午後1時10分、学長、総長らが演壇に現れ、「これより所信表明を行なう」と呼びかけた瞬間、演壇近くに陣取っていた学生約30人は「ワー」と演壇に押し寄せ、学長らを押し出して占拠した。
2,3人の体育会学生ともみ合ったが、学生はスクラムを組んで、“全学集会粉砕”のシュプレヒコールをくり返した。このため学長らはいったんラクビー部合宿所へ退避した。
ぼう然と立ち尽くす一般学生に前に、まもなく赤旗を持ったデモ隊約500人はグラウンド裏手の金網を越えて侵入、グラウンドをデモ行進した。
学生は集会を開き「大学側がこの場に現れるよう」訴えたが、大学側が合宿所のスピーカーから「全学集会にあたって」のパンフを白石四郎政経学部長が2回読み上げ「これで大学の態度表明を終わります」と放送した。
その後、体育会学生を中心とする「自由討論会」も別のグラウンドで持たれた。
「このままでは流会にできない」とする大学側は、裏側の入口から再び入場、これを学生らがスクラムで巻き込もうとしてが、水野東太郎理事長、松田孝学生部長らは学生を振り切って、合宿所に逃げ込んだ。
その際、木下半冶学務理事が学生につかまり、演壇で「全学集会の意義は」などと追及されたが、木下理事は黙して答弁しなかった。
そして午後2時50分、「本日の集会は混乱のため中止する」と西垣脩二部教務部長が流会宣言をした。これに対抗して学生側は独自の「全学集会」を開いた。
助手共闘、院生共闘の挨拶があり、午後4時近く、インターを斉唱、グラウンドを約500人がデモ行進した後、和泉校舎へ向かった。
なお、約100名の「一般学生・良識学生討論会」も開かれたが、4時前に終了した。』

会場内に入った部隊は阻止されるという前提で我々は会場外で待機していたのだが、“予想に反して”会場に入った部隊が演壇を占拠した。
「演壇を占拠した!」とのレポの情報で、会場外に待機していた我々の部隊も、演壇占拠組を支援するため、既に細工して破ってあった金網から会場内に突入。
私も演壇に駆け上った。
写真(明大新聞から転載)の中央で後ろ向きに立っている学生が横谷氏。右手に生田共闘の学生の顔が見える。学生服で中核旗を振っているのは商学部の学生だろうか。

大学当局が、全学集会の経過を父兄に送った文書の中に「当日午後1時15分八幡山グラウンド陸上競技場に集った数千名の教職員・学生に前に学長があらわれ、所信の表明を行なおうとしたところ、演壇周辺に集っていた全共闘系の学生が一斉に学長その他当局者をとり囲み、マイクロフォンを奪って学長らを演壇から暴力的に引きおろしました。
それと時を同じくして、会場の外に待機していた他大学生の一団が、ラクビー場の金網を破って会場に乱入し、同じく演壇を占拠しました。(後略)」
という記述がある。
会場の外に待機していた他大学生の一団というのは誤りである。私はその中にいた。日大の応援部隊が入っていたかもしれないが、明大全共闘の部隊であり、「他大学生の一団」ではない。

全共闘白書にこの時の様子が書かれている。
『匿名 1968年入学 「是非発言したいこと」
(前略)明大闘争で八幡山全学集会が行われようとしていました。そこで全共闘はそれを阻止しようと八幡山まで行ったことを覚えています。全学集会が始まるや横谷君が壇上を占拠し、流れるようなアジテーション。今でも強烈な印象として頭から離れません。(後略)』

『<弾劾集会も和泉で開く>
この日の全学集会に対する弾劾集会が午後5時すぎ、和泉校舎6番教室で開かれた。
まず関口成一全明全共闘議長から「全学集会は圧倒的な力で勝ち取られた。大学側を弾劾して勝ち取られたのだ」との総括があり、横谷優一吃全共闘から「確かに本日は圧倒的な力量で勝ち取られた。われわれはバリ死守をもってこれからの政治闘争を闘い抜く。方向性としては圧倒的な学友を結集し大デモをくりひろげてゆく。そして質の高揚をめざし、大学解体、世界叛乱を勝ち取るのだ。
70年、帝国主義に対しては全国全共闘で闘い抜こう」との総括と方向性が述べられた。
そのあと、シュプレヒコール、インターの斉唱で午後6時頃終わった。』

ほとんど逮捕者もなく全学集会を流会にさせたことで、全共闘の士気は高まったが、機動隊導入ももはや時間の問題となった。

(つづく)