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全国学園闘争シリーズの9回目は関西大学。
関西大学は1886年に創立された関西法律学校を起源とする大学で、1922年に大学令に基づく旧制大学となった。
関西私学を代表する「関関同立」(関西、関西学院、同志社、立命館)の一つである。
この関西大の様子が、朝日ジャーナルの「学園ハガキ通信」に載っているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル 1969.8.3号(引用)
『関西の日大闘争 <関西大>
6月20日以来全共闘に封鎖されていた関大本部は機動隊導入により7月5日解除された。
この全共闘の闘いは関大の学内支配体制=右翼ファッショ的支配体制(体育会応援団の学内機動隊を駆使して意識的学生を暴力的に抹殺)=大学立法の先取り的体制を打破する闘いであった。
まさに関大80年とは、裏をかえせばそのような血にぬられた暗黒の歴史なのである。
それを端的に示すのが次のような事件である。
登校の電車内で「朝日ジャーナル」を読んでいたところ、関大前駅に降りたとたん一緒に乗り合わせていたらしい体育会系学生3人に取囲まれた。
そして全共闘か?学生証を見せろ(持っていなかった)とか何の権利もないのに高圧的に胸ぐらをつかみながらいい、違う、一般学生だと答えると(はっきり言え、体育会本部で調べたらわかる。全共闘やったら命ないものと思え、関大体育会をなめるな)などとならべたてた。
結局三発なぐられただけで“釈放”になったが、捨てゼリフに、赤がかった本読んでたら一般学生でも2,3発なぐられても文句言えないぞとおどかして帰っていった。
まさにこの言葉こそ関大80年そのものをあらわしているといえよう。』

関西の日大闘争という「学園ハガキ通信」への投稿を受けて、翌月の朝日ジャーナルに関西大のルポ記事が載った。

【苦悩する個別学園闘争 関西から】朝日ジャーナル 1969.9.21号(引用)
『日大ミニチュア版 関西大
しばらく前の本誌「学園ハガキ通信」欄で「関西の日大闘争」と題した記事をご記憶でしょうか。
電車の中で右翼学生におどされた学生の話です。だからボクも日大闘争のイメージを頭にえがきながら関大へむかいました。
が、千里山のキャンパスについてまずびっくりしたのは、その広々として見晴らしのいいことで、この点では全国の大学の中でも十指に入るのではないでしょうか。
キャンパスなしの校舎にぎゅうぎゅう学生をつめこんでいる日大とは、全然様子が違いました。
全共闘の学生がたむろしている建物はすぐわかりました。三階の窓からハシゴで出入りしていたからです。
7月5日、機動隊が入って全共闘が封鎖していた関大会館は解除されたのですが、その後、誠之館(学生会館)、法・文研究棟、社研究棟を封鎖して現在にいたっています。
学生たちの話いろいろ聞いてみますと、たしかに日大闘争を小型にしたような点があります。
関大でも前近代的な学生支配の制度の告発が闘争の基調になっています。
ビラや集会の届け出制などを定めた学生規則の撤廃が5項目要求のはじめにあげられています。
もっとも関大の学生支配構造は日大ほど露骨ではありません。
学生が学生を支配するという構造になっており、その意味では日大より巧妙なのかもしれません。
6学部の自治会の上部機関として各自治会やサークルの予算の配分を牛耳っている中央執行委員会があります。
学生投票で選ばれた中央委員会のメンバーで構成されるのですが、その選挙がいままで相当インチキなものだったらしいのです。
投票時間も短時間、場所も1ヶ所に制限、体育会、サークルなどの組織票だけが入るような仕組みになっていたそうです。
こうした不正選挙をめぐる闘争が昨年来続き、商、文、社会学部の自治会などが中心となって、中執の支配から完全に離脱しようという動きがあったのです。
ことしの4月、大学立法反対をひとつのバネに、関大でも新しい学生の自治体を創設しようとする動きが活発になり、それが6月14日に6学部闘争委員会(後に関大全共闘)による大衆団交要求という形に発展したわけです。
大学側はもちろん拒否、6月20日の第2回目の申し入れも拒否、その日に関大会館を封鎖という形にエスカレートしました。(次回につづく)』

【キャンパス情報】毎日新聞 1969.6.21(引用)
『関西大
体育会系が学生組織を牛耳っていたが、学内民主化を叫ぶ反日共系学生たちが20日、全共闘を結成、理事長室や本部事務局などがある大学会館を封鎖した。同大学では、今年二月にも反日共系学生が社会学部学舎を封鎖したが、こんどは反体育会感情をむき出しにした紛争で、今後学生どうしの衝突が心配される。』(写真は毎日ムックから転載)

(つづく)