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2011年元旦。夜明け前に起床して外に出る。「今年はどんな年になるのだろうか。」
夜が明けて徐々に明るくなっていく空の様子を眺めながら、そんなことを思う。
夜と昼との境界の時間、年の初めはこの時間帯が一番いい。
風の冷たさと街の静寂が、「私が今ここに居ることが一番確かなこと」という感覚にさせる。

さて、2011年の最初の回は、「あの時代」から40年、様々な場所で活躍している方々の「今」を伝えるシリーズの3回目として、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
Y氏とは、昨年2月6日に開催された「明大2月6日に集う会」でお会いしたが、「資料をダンボールで送りつけるから」と言われ、「どうぞ」と軽く返事をしたところ、ダンボール3箱もの貴重な資料や雑誌を送っていただいた。(写真)
Y氏の本棚の本がそのまま引っ越してきたようである。
Y氏は昨年の9月、農業指導で南米コスタリカへ渡ったが、現地での活動を伝える「コスタリカ通信」を明大生田のH氏あてに送ってきた。
H氏からはY氏のプロフィールとともに、「コスタリカ通信」がメーリングリストで私のところへも転送されてきた。

【Y氏のプロフィール】
『1966年農学部入学。あまたの活動家を輩出し、生田の松下村塾といわれた海外移住研究会で活動。都農業試験所に入り、志願して伊豆大島や三宅島などの「島勤務」などを行う。当時の資料や雑誌をYさんに託し、2010年JICAでコスタリニカへ。』

【コスタリカ通信】
『皆様お元気ですか。
小生の住所が決まりました。
11月10日に、首都サンホセでの一カ月のスペイン語学校を終えて、首都から65kmカリブ海側(東)のトリアルバにやって来ました。
あと100km余りでカリブ海です。バスで2時間半くらいかな?(後略)』

この「コスタリカ通信」をこのブログで紹介しようと思い立ったのだが、Y氏がコスタリカに渡った背景なども書かないと読者もよく分からないと思い、Y氏にメールを送った。
『ブログで公開するにあたり、Yさんにいくつかお伺いしたいことがあります。
私のブログを見ている方は生田の方たちだけでなく、明大の和泉や二部、また、日大全共闘の方々などいろんな方がいます。当然Yさんがどんな方かも知りません。
ということで、「コスタリカ通信」の背景となる事柄も書きたいと思っています。
お伺いしたいこと。
1 明大の海外移住研究会ではどんな活動をされていましたか?
2 当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?
3 都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?
4 コスタリカに行くきっかけのようなものを教えてください。』

しばらくして、地球の裏側にいるY氏から返信があった。
『お便りありがとうございました。こういうことは、初めてなので戸惑っています。さて、与えられた4課題やっと書き終えました。添付ファイルで送ります。』
こうやって海外とも通信できるのだからメールは便利だ、と思いながら添付ファイルを開くと、そこにはY氏の個人史ともいえる長文の文章が・・。
こんなに書いていただけるとは思ってもみなかったので、ビックリ。
海外での忙しい仕事の合間に書いていただいたと思うと、感謝です!
読んでいくと、「アレ」と思う文書が目に入った。
「私はアナーキーです」
Y氏は生田なので、てっきり赤ヘル(ブント)の人と思っていたが、そうではないことが判明。当時、生田には1回しか行ったことがなく、和泉では生田の情報はほとんど入ってこないこともあり、誤解していたようだ。

Y氏からはこんなメールも
『生田がブンドばかりだったというのは、大きな誤解です。
移住研も、80%違いました。あの頃は、そういう時代です。
今見ると、BUNDの連中の方が、変わり身が早く、時代の流れについて行っているようです。
生田のノンセクトの連中は、ほんと要領の悪い奴らばかりでした。
でも、そういう連中が最後までバリケードに残りました。かれらは、学生時代と今でも、アンマシ変わっていません。
仕事もね!
PS:カタロニア賛歌を、オーエルの原文で読み返しています。POUMが共産党によって消滅させられる過程は、読んでいて切なくなり、何度も読みが続かなくなりました。』

※Y氏からのメールは「南米コスタリカへの道」として、何回かに分けて掲載していく予定です。第1回は次回1月7日、その後、間をおいて公開していきます。

(つづく)