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1月11日、ホームページのゲスト・ブックに書き込みがあった。
「本日aaghさんが旅立たれました。 合掌  藪G」
昨年来、ガンで病気療養中ということは知っていたが、突然の訃報に接し言葉もなかった。

aaghさんとは、1972年明治大学文学部入学、文学部ゼミナール協議会で活動していたN氏のことである。
このブログやホームページのゲスト・ブックにaagh、文ゼミ協の名前で多くのコメントを寄せていただいた。
N氏との「出会い」は、私が明大全共闘のホームページを立ち上げて3ヶ月ほど経った2007年9月、こんなコメントを寄せてくれた。

『 サイト管理者さま
はじめまして。というか、30数年前、すれ違っていたのかも知れませんね。
わたしは、学年的には3年?ずれてますが、御HPを読ませていただき、「あ!あの時だ」と思った場面に会いました。有難うございました。』
その後、こんなコメントも
『わたしは、大学に入ったら当然学生運動やろう、と思っていました。
入学式(九段)で見た戦旗派の人たちの武装情宣が一番格好良かったものです。
でも、和泉で、偶然、文ゼミに入りました。
当時の文ゼミは、顧問のようなOBが元ML。
理論的支柱だったひとがMUPの大学院生(例の地理のアレです笑)。
委員長は「人民の力派」の白ヘル(後に放逐?されましたが、いい人でしたよ)。
明大中野では、文ゼミからも二名の逮捕者が出ました。
その後、4年に渡る裁判闘争がありました。前後関係はよく覚えてないのですが、あの頃、「反革命マップ粉砕」という戦旗派の人たちによる武装デモがありました。
生田の情況派とは、確かに仲良かったですけど。
3年前、三里塚管制塔被告カンパ闘争が、ありました。
酒の席で、当時の戦派派のリーダーと飲みました。「何で内ゲバしたんだっけ?」
お互い、わかりませんでした。』

N氏は「我孫子亜細亜旅社」というHPと『「ゴドーを待ちながら」の街で』というブログを開設していた。
HPの方はウイルス感染でこの1年ほど閉鎖されていたが、ブログはN氏が旅立つ少し前(今年の元旦)まで更新していた。

そのブログからの引用
『2010.3.5(金)
わたしが学生時代に所属していた「文ゼミ協(文学部ゼミナール協議会)」は、小さな自治会組織だ。
明大の文学部には、文学学科と地理歴史学科の二つがあった。
仏文のわたしが、英文や、日文や、独文や、地理や、東洋史専攻の連中と交流出来たのも、文ゼミ協の場だ。
わたしの結婚式(その後失敗したが笑)にも全員来た。
アビコの家に入って、まだ、左にあるライオン君は、彼ら、彼女ら、からの結婚プレゼントだ。
彼ら、彼女らとは、15年前?に会った。新宿ゴールデン街。朝まで語った。
それから、15年、会っていない。
15年という時間が、長いか、短いか、知らない。
明大の先輩のホームページを、読んでもらいたい。』

このブログには、仏文出身のN氏ならではの洗練された文体と、独特のリズムがあった。
60年代後半の音楽、特にビーチボーイズの曲のこと、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のこと、村上春樹の小説のこと、カメラのことなどブログ上でコメントを通じてやりとりさせていただいた。。

N氏とは、2008年11月22日の「日大全共闘結成40周年集会」で顔を合わせ、駿河台の8号館1階のマップ共闘の部屋で見たことがあると思った。
その後、2010年2月の明大集会で再会したが、それが最後になってしまった。

年末にN氏のブログに書き込みをしたところ、こんな返事が返ってきた。
『和解とネットワーク」。いいコトバです。
わたしも微力ながら、自分のコトバでそれを探していきます。今度、アビコに遊びにきてください。』
そして、遊びに行く機会もないまま、N氏は旅立ってしまった。
N氏は私のホームページとブログの熱心な読者であり、理解者であり、支援者であった。
また、1972年当時、二百数十名の部隊を有していた明大黒ヘルの同志であり、今後も明大闘争を伝える人材として期待していただけに、早すぎる旅立ちは残念でならない。

N氏はどこへ旅立ったのだろうか・・・。
幻の「我孫子亜細亜旅社」でダルマストーブにあたりながら人生をふり返り、一人微笑んでいるのだろうか。
それとも、ネパール・カトマンズの空を鳥となって自由に飛んでいるのだろうか。

合掌。