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No170の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?」という質問に対する回答である。

【Y氏からのメール】
2 地下足袋の活動
 園芸学研究室に在籍し、確かにいつも地下足袋を履いて校内でリヤカーを曳いていた。
研究室には3年生から入れた。
丁度、時代は1968年に突入していた。
当時の先生は、国の園芸試験場長から農学部に教授でいらした方だった。
ある時、生田の農場で先生を交えた実習があり、何人かの学生は白衣(実験着)に靴で農場に入った。
いつも温厚な先生がその時怒って言った言葉を今でも覚えている。「畑には、地下足袋を履いて、作業着を着て来るもんです」。そういう、先生の足元には確かに地下足袋が!
確かにそうだ。革靴なんかで入ったら、畑の土は固くなるし、そういう気遣いは大事だと思った。
さっそく、生田駅前の農協で地下足袋を買った。
作業着は親爺のお古だったかな。
当時の卒論は、栽培関係でも、室内実験で済ますことが多かった。
だから地下足袋を履く奴はいなかった。
私は畑で作物を栽培して、その結果を見たかったので、地下足袋になるのは当然だった。
最初、地下足袋で校内を動き回るのは恥ずかしかった。研究室と農場は、校内の北の端と南の端にあったので、畑に行くのに校内を縦断しなければならなかった。
学館前で、昼のアジ演説に人が集まっている横を、リヤカーを曳いて通ることは度々だった。しかし、そのうち平気になった。
だんだん、畑で仕事をする連中は、皆地下足袋を履くようになっていた。
この頃、東京の農家の連中でも、長靴履いて畑に出る奴が多いけど、そういう農家はあんまり信用しない。
作業中に土が中に入るし、長靴は重くて作業がしづらい。やっぱ畑(田んぼじゃない)は踏ん張りがきくし地下足袋だ!と、今ではすっかし全共闘ではなく地下足袋党になってしまった。

生田の農場は、元は、土のテニスコートに、10儖明垢蠹擇鬚靴燭世韻世辰燭里如極端に水はけが悪くて、ナンも作られていなかった。
そこで、カチンカチンの土の耕盤をスコップ一丁で天地返し(土をシャベルで上と下入れ替える作業)を2段行った。
機械がなかったからスコップのみである。スコップは、金属部分が縦30cmだから、それで2段切り返すと、約60cm弱が切り返される。
これを一人でほとんど毎日やっていると、移住研の後輩たちが手伝ってくれるようになった。
そうしてようやく幅5m、長さ10mぐらいのビニールハウスを建てる場所を確保した。
生田には、ビニールハウスなんてなかった。建て方は分からないから、厚木のビニールハウス屋に一か月ばかり住み込んで、建て方を習い、材料を買って貰って、自分で建てた。
次に、中に植えるものを考えなくちゃ。
とりあえず、じゃ胡瓜でも作ってみるかということで、苗つくりから始めた。
サラリーマンの子供だったので、農業のイロハも知らず、昼は畑、夜は研究室で農業書を読んで、毎晩夜中の真っ暗な道を、30分かけて下宿に帰った。
良くパトカーに職務質問を受けた。暗い誰もいない道を一人で歩いていたし、時代が時代だったから。

そのうち、4月頃になりビニールハウスの開け閉めをしなくてはならなくなった。ハウスの中が高温になるからだ。夏場は朝6時ごろに開けた。
めんどくさいので、研究室の長椅子の上に、一人で寝るようになった。
朝は農場で獲れる1kg以上あるレタスに、マヨネーズをかけて食っておしまいだった。昼は、生協の運営する学生食堂で、一皿50円のカレーライスを地下足袋履きながらよく食べた。
そのうち、学校側も農場管理の職員に熱心な人がいて、ビニールハウスを建てるため、天地返しをはじめた。
移住研の連中も熱心に手伝っていた。そうしているうちに、移住研の連中も、人のばっかりやっていないで、自分たちで畑をやろうということになり、農学部校舎の北側、牛を放していた山の一角を、地下足袋を履いて天地返しをして、勝手に畑を作り始めた。
海外移住研究会の面目躍如というところだ。

時は1968年、午前はガッコで農作業、午後は動員で神田や代々木公園によく出かけた。
1968年入学の後輩たちは、高校で学生運動の洗礼を浴びている連中が多く、移住研以外でも、生田の闘争を担った連中が一番多い。
東大・日大闘争は既に始まっていて、大学闘争は全国に波及し始めていた。
佐藤訪米・訪べト反対闘争(御茶ノ水駅の電車にゲバ棒を自分の前にしっかり持って、戸口に立っていた白ヘルメットの学生を覚えている)、4.28闘争などなど学生運動は高まっているようだった。
生田はこの時期比較的静かだったが、移住研内では先輩たちと、ゲバ棒で武装して警官に立ち向かうことについての是非が、真剣に議論されていた。
なかなか真面目だったし、ある程度社会変革(革命)の可能性を信じている部分もあった。

(つづく)