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No180の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。

私からの「当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?」という質問に対する回答の続きと、「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問への回答である。

【Y氏からのメール】
『なんだかんだ虚脱状態のまま、1970年になり、時は虚しく過ぎていった。
2月に研究室の先生から、小笠原の農業試験場で、新卒を3人募集しているよと話があり、3月初め、筆記試験と面接を受けた。
合格通知が届いて、都庁に出向いたのは3月26日の卒業式だった。
式場の記念館には入らず、学外を仲間とうろうろして、そのまま午後都庁に手続に行った。
御茶ノ水の駅に向かう途中の、電機屋の中から、フォーククルセーダースの「帰ってきた酔っ払い」が流れていた。

今日は卒業式だったというと、係りの人は恐縮していた。そして、10年ぐらい帰れない覚悟でいて下さいとも言われた。
小笠原は日本返還後、まだ2年もたっていなかった時のことだ(日本返還:1968年6月26日)。
地図が好きな私は、小学校高学年の時、小笠原諸島の存在を知っていた。
地図に漢字で、沖縄や大東島と共に書いてあるのになぜか(ア)と書いてあるのが不思議だった。
小笠原に惹かれたのも、移住研に在籍したのがなせる業だった思う。佐藤訪米は1968年なので、小笠原は沖縄返還の足慣らし、下準備だったというのが、偽らない気持ちだ。
3月31日、学校最後の日、赤軍派がよど号をハイジャックした。スゲーことするもんだ。
生田農場の小屋で、その事を聞いて仲間と喝采した。あすから、仕事だ。

ああー、ここまで2日間5時間かけて、書いてきたが、全く筆が進まなくなってきた。
明大全共闘クロニクルなんかを、コスタリカの地で延々と読み始めてしまった。
記憶が薄れ、大学時代の記述がいい加減なので、嫌気がさしてきたせいもあるのか!でも、人のを、読んで記憶を呼び起こしても仕方いないので、また勝手に書く。

3. 都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものがありますか?

1970年当時、日本の景気は良く、役所に入る奴は数が少なかった。
ほとんどは、景気の良い民間会社に入るのが主流だった。
移住はもうあきらめていたし、農家じゃないから農業はできないし、残る選択肢はこれだった。
今だったら簡単に農家になれるのに、当時は戦後の農地解放を受けて、農地売買に関する農地法の縛りが、ずっときつかったからだ。
4月に就職し、7月初めまで、立川の農業試験場で小笠原に行く準備と研修をした。
当時の立川はまだ米兵がいて、暗い雰囲気で、稲毛よりずっと田舎だった。
米軍立川基地はベトナム戦争のため、盛んに飛行機を飛ばしていて、砂川の基地反対同盟にも、活動家が入っていた。
立川で最初にしたことは、ウドの根を、包丁を使って株分けすることだった。
ウドなんて、見たことも食った事もなかった。
これには訳があった。立川、横田に米軍基地があり、周辺の農家は、飛行の邪魔になるので、畑にビニールハウスなどの構造物が建てられなかった。
そして考えられたのが、冬にサツマイモを保存しておくイモ穴を利用して、ウドを軟白(ウドのモヤシ栽培)することだった。
多摩は冬の寒さが厳しいので、熱帯作物であるイモはそのまま冬越しできない。
地中の一定温度下(15度位か)で保存するのは、昔から多摩の農家に伝わる知恵だ。
まず竪穴をほり、一定の深さから横穴を掘り伸ばしていく。
その横穴でウドのモヤシを作っていた。農民が穴の中で、一酸化炭素中毒になったり、落盤事故にあったりと大変な目にもあっていた。

その立川を後にして、竹芝桟橋を1000トンの船で、1000キロ南方の小笠原諸島父島に向けて出発したのは、7月初旬だった。
途中台風に会い、相当揺れたが、43時間後に父島二見港に船は錨をおろした。
初めての船旅、そして台風にも会った。
船長は引き返そうと思ったそうだが、当時は都のチャーター船だったので、都の責任者が引き返してもどうせ揺れる航海なら、そのまま突っ切ってくれと言ったそうだ。(普通の人が、貨客船で、父島に行けるようになったのは、1972年のことだ。)
伊豆七島、ベヨネーズ列岩、鳥島、ソウブ岩など過ぎて三日目の朝、小笠原諸島の一番北の、聟島列島(竹芝から900km)を見たときは感動した。海は濃紺だった。船の突っ切る両側を、トビウオが左右に飛んでいくのが、印象的だった。』

(つづく)