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No184の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問への回答である。

【Y氏からのメール】
『父島大村の町並みは、芝生がズーっとあり、その中に家々が点々としていた。
庭にはヤシの葉がそよぎ、まるでアメリカの基地の中のようだった。日本じゃない外国だ。青い目の子も、白人みたいなおじさんもいるし。
1944年第二次世界大戦による、民間人の内地強制疎開以来、島は日本軍人しかいなくなり敗戦。有名な硫黄島(父島より300km南)と違い、大正時代末期から、全島岩山の島を要塞化していたため、米軍は戦わずあっさり通り過ぎ、沖縄に向かってしまった。父島の戦死者は食糧不足が大半だということである。
1945年の敗戦後、父島には、アメリカの海軍基地が置かれた。
1946年、米軍は日本本土に同じく強制疎開させられていた欧米系島民200人弱(1830年代に父島に最初に住み着いた欧米系島民の子孫、イギリス、アメリカ、ポルトガル、ハワイ系。日本人の移住は1860年代)を、米軍基地維持要員としていち早く帰島させた。
強制疎開させられた日本人たちは一部漁民を除いて、父島の社会基盤整備(インフラ)整備が済む1972年まで、帰島を許されていなかった。

欧米系島民を都に雇って、戦前の試験場跡の開墾が始まった。
生い茂るガジュマルをチェーンソウで切り倒し、トラクターでは歯が立たないので、ブルドーザーで農地を造成していった。きっとブラジルに行ったら、こんな事してたんだろうと思った。
私は、野菜担当なので、さっそく苗つくりにかかった。ナス、キュウリ、トマト、カボチャなど。直播可能なものは何でも畑に播いた。
亜熱帯の島は、苗は7月に種播きして9月か10月に定植すれば、12月には収穫可能だった。父島の緯度は丁度那覇と同じだが、大陸の影響が少ないため、那覇より冬は暖かく、夏は涼しい。
このようにして、戦前の農家はビニールハウスの無い時代に、野菜を東京に出荷して大儲けしていたそうだ。

町から7km離れた山の中の農場は、水道も電気も来ていなかった。水は雨樋からドラム缶に集めた水を飲んだ。
雨がしばらく降らないと、ドラム缶にボウフラが湧く。ドラム缶をトントン叩くと、表面に浮いているボウフラが沈むので、その瞬間に水をひしゃくで汲んで飲んだ。その水がなくなると、山から引いてきた、濾していない農業用水まで飲んだ。

住まいは、生田の三田団地のような公団方式の鉄筋アパート、初めて入った時は凄く嬉かった。
電話は回線が3本しかないので、なかなか繋がらない。家などに一本もかけたことはなかった。もっぱら手紙だったが、それも一ヵ月に一回きりだ。
TVは、電波が届かず見えない。ラジオは銅線のアンテナを張ると、短波放送が雑音混じりに入るので、それで浅間山荘や成田の事を、ピーピーガーガーの音と共に聴いた。船は一ヵ月に一度なので、新聞は古新聞ばかりだった。
こんな生活だったが、ナンの苦にもならなかった。若いせいもあったんだろうか。アパート生活は、学ぶことは多かった。
ミニ都庁のようなものだったので、あらゆる分野の仲間がいて、互いに自分の持っている知識や技術を伝え合った。
生態学のイロハを学んだのもこの時だった。時代が時代、学生運動の影響を受けた者も、職員の中には何人かいた。あの父島でさえも。当時の都庁の同期には、もっともっと沢山いた。

出来た野菜は島で唯一の店であった生協(Bonin Island Trading Company, BITC)に卸した。
船は一月に一度だから、直ぐに無くなってしまうせいだった。
そういえば、あの何の役に立つかと思ったウドも、父島にたくさんあった防空壕を利用して栽培し、島の皆さんに食べてもらった。
1972年父島への渡航が自由化されると、移住研の後輩達は援農に来てくれた。その中に、戦いに疲れた生田の仲間も何人か混じっていた。

1973年6月初め、父島を去り、明大文学部史学地理学科に編入学、1976年卒業した。
神田は生田と全く違っていて親しめず、学校とアルバイトだけで過ごした。
金が続かず1年間バイト暮らしだったので、2年のところ3年かかってしまった。
1976年10月初旬、幾人かの農学部の仲間や先生に見送られ、南太平洋サモアの地に、2年間赴いた。
羽田からだった。その羽田がまた国際空港として蘇ったのは感無量だ。
成田から出発するのは、いつも抵抗感があった。生田の後輩が、30年以上現地闘争本部でやっているせいもあります。
アメリカ大陸3カ月放浪後、1979年2月成田に降りるのは嫌なので、大阪伊丹空港経由で帰国、故あってJICAに5年ほど勤務した。
1985年3月JICAを辞し、4月に東京都に再就職、2010年6月まで勤務した。今度は25年間も!よく続いたもんだ。』

(つづく)