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5月9日、都内でNPO法人原子力資料情報室共同代表 伴英幸氏を囲む会合があった。
この会合は明大生田の方々が中心となった会合であったが、私もブログの取材で、お願いして参加させていただいた。
当日の伴氏の話の内容と、その後の質疑の様子など、今週と来週の2回に分けて紹介したい。

冒頭、W氏から伴氏の紹介があった。
「伴さんは早稲田大学を出た後、当時の都民生協に入って、戸山ハイツ店で品出しをやっていた。そこに半年か1年くらい居て、天然ガス転換反対闘争(注)をやっていたY氏の紹介で多摩消費生協に入って経理とかシステムをやっていた。
その時に反原発運動をやっていた高木仁三郎さんと会って、反原発運動をやりながら仕事をやっていたのだが、そちらの方に進みたいということで13年いた多摩消費生協を辞め、1989年以降、原子力資料情報室で活動して現在、共同代表になっている。」

(注)天然ガス転換反対闘争(伴氏のコメント)
【70年代の前半、東京ガスは当時供給していた石油ガスから天然ガスへのガス源の切り替えを決定、順次切り替えが進んでいった。
天然ガスに切り替えるには火力が違うので、本来ならガス器具を取り替える必要があるが、東京ガスはこれには費用がかかりすぎるので、吹き出し口を小さくする部品を取り付けることで済ませようとした。そこで、切り替え直後にトラブル(爆発など)が起きた。
それで、市民の安全確保を求めて転換反対運動が起きた。反対は工事の実力阻止や転換拒否(ガス器具が使えなくなるので、灯油のコンロを使ったりした)などの戦術が取られた。】

伴氏の話(写真)
『そもそも私は真面目なノンポリだった。大学にも行かないノンポリだった。天然ガス転換闘争があって、その時に国立に住んでいた。それで運動にはまり、活動を行なってきた。
学校を卒業後、普通の会社に行ってもしょうがないと思い生活共同組合に行ったら、これは面白そうだということで、行ったところが都民生協だった。
その後、Y氏の紹介により多摩消費生協で働いてきた。働きながらも、原子力について私自身は1979年にアメリカのスリーマイル島で原発事故が起きた時から関心があって、国立では反原発の運動に参加していた。生協内では環境問題委員会で原子力問題を職場で考えていくようなことをやっていた。
1989年に脱原発法制定運動というのが起こり、今は亡くなった高木仁三郎さんが提起していたのだが、その時に新しいことをやるので手伝って欲しいということで頼まれて、原子力資料情報室に移った。それ以来、20年くらいそこで活動している。

3月11日に福島の事故が起きてから結構忙しい時間を過ごしている。
事故自体について言うと、冷却機能喪失という事故になって、全電源が停止したという状況。原子力発電は福島の第一号だと230万キロワットくらいの熱を持っている。それが急に止まる訳で、火力発電所なら止めてそれでお仕舞いなのだが、原子力の場合は崩壊熱というのがあって、とにかく延々と冷やし続けなければいけない。
それに失敗すると、チェルノブイリみたいに核分裂が暴走的に広がっていって爆発するという事故と、もう一つは止まるけれど冷却機能失敗で炉心の燃料が溶けるという事故の2つの大きな事故のパターンがあって、その後者の方にはまっていった。

その理由は表向きには津波だが、1号機については急に水位が下がっているので、地震で配管が破損してそこから原子炉の水が漏れているのではないかと思われる。
1時間位して津波が来て電源装置が全部やられてしまった。その前に地震で送電線がやられている。それで冷却のため外部から電気をもらうというシステムが破綻してしまう。その場合はディーゼル発電機が稼動して冷却を継続するということになっていたが、そこに津波が来て発電機そのものも機能しなくなった。
それで、すべての電源が絶たれた状態になって、そこから迷走が始まった。

熱で水は蒸気になり炉内の圧力は高まり、隣の格納容器に吹き出し、格納容器の圧力が高まって、しょうがなく外に出すというようなことをやっている間に燃料は水から出てむき出し状態になり、それで溶け始める。
その時に水素が出るので、水素が発生して建物の上部に溜まり、何らかの漏れがあり酸素と混じって爆発した。
3月12日に事故から1日たって1号機で爆発があった。14日に3号機で爆発があり、15日に2号機であった。多分3号機の爆発が一番大きくて、400メートルくらい吹き上げられたので、その放射能は関東地方に及ぶことになり、新宿でも普段の20倍くらいの放射線が観測された。
少しは下がっているが完全に元には戻っていない。それは汚染物質が地面に沈着しているからであるが、この状態は相当長期に渡って続くのではないかと思っている。』

(No190-2に続く)