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No188の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問と「コスタリカに行くきっかけのようなものを教えてください。」という質問
への回答である。

【Y氏からのメール】
『都には通算28年勤務した。小笠原父島の農業試験場に3回、通算で8年強、伊豆大島3年、島勤務は合計11年強だった。あとは、新宿庁舎や多摩の出先機関の事務仕事や、練馬区で農業改良普及員などなど、行政から試験研究まで、農業関係業務はほとんどこなした。
その間に見えてきたものは、東京の農家は奥多摩と島を除いて困っていない、金持ちだということだ。
そりゃそうだ。土地を切り売りして、分譲住宅にしたり、アパート経営して地元の大金持ちだから。
多摩地方は、戦前小作争議が盛んで、1970年代でも革新が強かった。社会党や共産党は、農民組合を組織して地元に食い込んでいたからだ。
田んぼのあるのは、多摩川沿いのみで、洪積台地(武蔵野台地)は水がなく、採れるものは陸稲、麦、サツマイモだけで、米の獲れる多摩川沿いに比べ極端に貧しく、水吞み百姓が多かった。白米を食べられるのは年に3~4回位、現金収入は「お蚕」のみだった(なにしろ「田無」という地名があるくらいだ)。
でも、そういうことも、住宅が多摩地方にドンドン建っていくうちに薄れていった。平らな台地は、溢れる都会の人口を吸収するのにもってこいの場所だった。
東京のほとんどの農家は、山形の菅野のように、純粋に農業だけで生活しているのとは違う。百姓をするのは、所有する市街化区域内の土地を「生産緑地」として税務署に認定してもらい、税金を軽減する手段だからだ。
今でも、区内や北多摩の固定資産税は、反(300坪)当たり、宅地や宅地化農地だと100万を越えるが、生産緑地(市街化農地)の認定だと、たった3,000円だ。大部分は、仕方なく百姓をして、市街化農地以外の土地で資産運用しているのが、現状だ。
確かにそんな中でも、地下足袋を履いて農業だけで食っている、立派な農家も何軒はいるが、ほんの少数派だ。
東京の良い面は、消費者と直結した農業ができることだ。卸売市場で買いたたかれることもない。家の前での直売や農協の直売所で、消費者の声を聞きながら農産物の生産ができる。一生懸命やれば一千万円の祖収益があげられる。
反面、畑の周りの住民の監視も厳しいから、いい加減な農業はできない。農薬だってやたら撒けないし、草ぼうぼうのいい加減な畑には、すぐに空き缶や空き瓶その他のゴミが投げ込まれる。だって、同じ場所に住んで、生産緑地というだけで、畑の固定資産税が300分の一になるんだから、当然と言えば当然である。

4 コスタリカに行くきっかけ
まだ、ナンもせずの年金暮らしは嫌だし、都の嘱託でチンタラと過ごすのも嫌だし、「嫌だ!嫌だ!」もっと前向きに生きられないかという思いが、一つありました。
しかし、他の要因もあります。前にも書きましたが、私はアナキーです。1936年に始まったスペイン市民戦争に興味がありました。バリケードで読んだジョージオーエルのカタロニア賛歌がきっかけだった。ファシスト対人民戦線、その人民戦線内部におけるスターリンに影響され共産党による、人民戦線他派の追い落とし、この構図が学生闘争と重なった。
人民戦線には、各国から義勇兵が参加しました。ヘミングウエー、アンドレ・マルローなどが有名ですが、ナチス占領下のヨーロッパ各地、アメリカ、イギリスからも多くの義勇兵が参加しました。スペインの労働組合は、アナルコサンジカリストの労働組合が主力で、ファシストの軍隊に、最初は武器がなかったので、ダイナマイトと素手で立ち向かいました。(これも対機動隊と学生の様だ)。共産党・社会党以外に労働組合があったなんて、初めて知った。アナーキストの組合が実際にあって活動していたんだ。
ファシストに敗れ、多くが世界に散っていきました。メキシコを中心に中南米にも。今そのラテンアメリカが熱い。キューバは勿論、サンディニスタのニカラグア、チャベスのヴェネズエラ、ブラジルのルーラ、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ガイアナも左派が政権を握っている。そして、北アメリカの新自由主義に異を唱えている。市民戦争の精神がラテンでも継承されているんだと勝手に思った次第です。
ちなみにゲバラは、10代はじめ、父親に買って貰ったラジオで、市民戦争の経緯を熱心に聞いていたそうです。
そして、コスタリカには軍隊がないことです。62年前に、軍隊は廃止され首都サンホセの兵営は、現在国立博物館になっています。9条で軍隊持たないといって、実際は持ってる日本とは大違いだ。』

(つづく)