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No220の続きです。
(写真はサンデー毎日69.2.20号より転載。文闘委の部屋の様子。)

『5 69年1.18~19

N「年が明けて「東大が危ない」という話が飛び交うようになった。俺たちの間では「東大が落ちたら、次は日大だ。そして全国の大学にそれが波及していくのは必至だから東大を死守する」という論理だった。
 正月で、学内に泊まり込んでいる活動家も少なかったんだろう。でも、風雲急を告げる状況で、田舎に帰っていた俺にも仲間から電話があった。「いよいよ東大がヤマ場だから、すぐに戻って来い。」とのことだった。
18日には、既に朝から本郷に通じる道路は機動隊によって封鎖状態で近づけない。
結局、御茶ノ水橋を越えることが出来ず、終日御茶ノ水界隈でドンパチやっていた。
東大が1日目は持ちこたえたというので、理工学部1号館に引き上げて総括集会をやった。その時の文闘委T委員長は上機嫌で、マルキから奪った紺のメットを手に「今日は、安田講堂の諸君に連帯し、神田一帯を席巻したー。」と。俺は、この頃もまだ銀ヘルだった。
19日のことは。あまり覚えていないが、やはり御茶ノ水周辺にいたと思う、安田砦落城といったって、あまり落胆した記憶はない。何故かな。
色が付いたのはもうチョット後、その年の3月に、怪我したんですよ。明大近くの山の上ホテルへ向う坂道で、デモ指揮をして、明大本部を出て曲がろうとしたら、真向かいに「主婦の友」があって、あそこからマルキが撃った催涙弾の直撃を受けた。多分普通だったら、あれでアウト(戦線離脱)だったと思ったけど、あそこでまぁ踏ん張って、それで、声をかけられてそこから党派に入っていった。」

6 「叛逆のバリケード」のセールス

N:「はっきり言うとね、叛バリは全部読んだことないですよ、一回も。拾い読みですよほとんど。今考えてみると、結構あの中に初期にやってた人が実名で出ている。(N氏が自分で持ってきた「叛バリ」を見て)これはね、改めて見たら初版本なんですね。たぶん68年の秋に出したんだけど、その時に買った。で、俺の記憶にあるのは、これを法政大学に売りに行ったことがあるんだよ。法政の六角校舎。」

T「なんか集会で?」

N「そうじゃない。手分けして売ろうじゃないかということを言われて、社会学科の何人かと一緒に、夜、法政の六角校舎って今聞くとゾットするけど、売りに行ったことがある。それはマスコミ研究会の横の繋がりがあってね、法政行けば売れるからっていうんで、セールスに行ったことがある。くっついて一緒に。この本はその頃に買ったんだけど、売りに行った記憶もあるんだ。
青学に文闘委機関誌を売りに行ったこともある。無い?」

T「記憶無いね。」

N「そういう記憶あるんだよね。文闘委機関誌を手分けして皆で売りに行こうというので。結構さばけましたよ、俺の記憶じゃ。何十冊か引き受けた記憶がある。」

T「叛バリは貰ったんだよ誰かに。」

N「文理の中では配っていたかもしれない。」

T「誰かに貰った記憶があるんだよね。何冊か貰った。」


7 文闘委には色んな人が居た

Y「何人ぐらいでやっていたんですか?文理では。」

N「文理は一番隊列が多かった。何故かね?文理で学部集会やって、最後にお茶の水、水道橋で全学が合流すると文理が一番人数多い。社会学科で400人いた時があった。文理全体で1000人を超える。全学になるとそれこそ何万。文理が一番隊列多かったな、何でかな。一説では、文理はつぶしがきかない、就職率が悪い。法学部とか理工とかは食えるわけよ。そこそこやって途中で辞めても、就職できるし、食える。そういうとこが潰れるのが早かったんじゃないか。文理なんてのは中途半端でつぶしがきかないから。学部では文理が一番最後まで残ったんだよね。徹底抗戦はやらなかったけども。
文理って色んな人がいっぱい居たよね。その中にM(政治学者)の息子がいたでしょ。」

T「ランニングシャツ1枚でね。」

N「彼は変わりもんだったよね。高名な政治学者Mの息子が文理にいたんですよ。彼はね、真冬でも半袖のYシャツ姿でヒゲぼうぼうだった。あれホントに息子だったんだろうね。」

T「あれね。そうなんじゃないの。みんなそういう話だった。」』

(221-2に続く)