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(ブログの字数制限の関係で3つに分けてあります。No221-1から見てください。)
(写真は毎日グラフから転載。)

『N「Tがよく言ってたよね、俺らはね、早稲田や中大と違って運動やりました、立看出しました、負けました、じゃあこれはこれでお終い、また次の立看を出す。我々にはそれはないよなって、負けたらお終いだよなって。学生運動の歴史がある大学は、うねりの中でね、一回の闘争で勝ち負けがあっても、また次出来るわけじゃないですか。」

Y「そこでもうお終いっていうんじゃなくて、まぁチョット・・・・。」

N「一旦ひとつの運動が区切りがつきゃまた次に立看も出せればデモも出来るし、集会も出来るし当局と団交も出来る。だけど日大はそういうのが長い間無かったわけだ。
戦後まもなく日大の学生運動も活発だった時代があったみたいなんだ、昭和29年か30年頃まではね。日大も全学連に加盟していたらしいですよ。でも古田が会頭になってからこうなったんでしょ。歴史的に言うと日大だって学生運動はあった、それが昭和30年代になってから押さえられていたが、昭和43年に勃発した。
67年10.8の羽田闘争で京大山崎さん事件があった時に日大の法学部の学生がパクられたでしょ。あの時、日大に学生運動やる学生がいるとは思わなかった。始まってから誰かがオルグに来て、潜り込んでなったかと思っていたけどやっぱそうじゃなかったんだね。あれだけ弾圧されていたが水面下にいたんだよね。」


10 記憶は消えていく
N「初期の頃、中期・最後の頃、節々にあるけど、やっぱり俺、憶えていますよ。ただね、悔しいかな誰にも言う相手がいないんだよ。カミサンに言うわけには、だって分かるわけ無いでしょ。息子に言ったって分かるわけ無いでしょ。だから、こういう思いはこういう機会でもなけりゃ、出て来ない。」

Y「家庭ではね。」

N「うん。まして、(闘争のことを)知っていて結婚したならいいけど知らないで結婚したら何を言ってるということになる。資料全部処分した切っ掛けは結婚ですよ。それまではダンボールに入れていろいろ持っていた。メットも持っていた。だけどね、ある時に清算とは言わないけど、そういう物理的なものは、とりあえず処分しようかなと思った。それが切っ掛けだったね。今でも持ってる?」

T「機関誌とか?」

N「まぁ、もろもろ。」

T「どっかにあるよ探せば。捨てた記憶はないから、仕舞い忘れてはいると思うけど。」

N「そう。彼(Y)のブログを見てると、あぁ俺もなんか、別に文化財にはならないかも知れないけどさ、とっときゃよかったと思うこともあるよ。記憶ってのは、だんだん消えていくからさ、どこかでいつか。今ならまだ持っているけどあと10年後なんか消えちゃう可能性があるわけですよ。でもやっぱり、紙で持っていればね、違う。」

Y「今ね、部屋にダンボール3箱分くらいある。」

N「いやね、俺も持っていたんだけどね。今回ホント本棚をパーッと見たら、唯一これ(叛バリ)しか無かった。」』

N氏からは、この他にデモの時の話などもあったが、それは省略した。
N氏の発言にもあるように記憶は消えていく。
時間と手間はかかるが、記憶を記録し、公開していく作業を今年も続けて行きたい。

【補足】 9.30大衆団交
『68年9月30日、日大当局が主催した「父兄会」(※)は両国日大講堂で行われたが、途中から「父兄会粉砕」を叫んで全共闘部隊が会場を占拠、父兄や体育会系学生を追い出し、当局糾弾の場と変わった。
俺は、文理の部隊と講堂の中に入ってそのまま演壇に上がり、ゲバ棒を持って演壇の床をゲバ棒で打ち鳴らしていたが、そのうち後続部隊や全共闘派の学生が続々と両国講堂に駆けつけ、しばらくすると講堂内は学生で一杯になった。
そこに古田会頭の車が入ってきた。まさか、古田が学生のまえに出てくるとは思わず、その姿を見たとき、「古田が来たぞー」と叫んでいた。
もしかしたら、古田は父兄会に出るつもりで、既に学生達に占拠されたことを知らずに両国に来てしまったんじゃないかと、今でも思っている。
そして、あの大衆団交が始まった。
まだ日の高い時間から夜中まで、長丁場となり当局も学生も疲労の色が濃くなり、途中で帰った人も大勢いた。実は俺も、この団交が歴史に残る場面になるとも考えず、疲れて帰ってしまった。だから、団交が終わって夜中の両国橋をデモで渡って神田まで帰ったことを翌日知った。』

(※)「叛バリ」によると「右派学生対象の集会」となっている。

(終)