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(No245-1の続きです。)

できたら一緒に追悼会でもやるべきだと思う。その上で何故ああいう事件が起きたのかを、きちんと自分たちで語る、また自分たちはこういう意思で、こういう夢を持って運動をやったんだ、ということを、革命運動の楽しさをもっともっと話すべきだと思う。
そうでないと、何時まで経っても暗い連合赤軍のイメージからは払拭できなのではないか。』

次に、ゲスト・パネリストの発言を受けて連合赤軍当事者の発言(要約)。

青砥『あの事件の後、私が一番感じていたのは、土壇場で人間として踏みこたえられなかったな、という思いが非常に強かった。
連合赤軍が、その中の人間に対して、死を突きつけてもいいんだという状況があったことは確かだと思う。
それに対して抵抗する気持ちも当然たくさんあった、ためらいもあったが、一方で共産主義化とか、援助のための暴力であるとか理屈を受け入れていく自分もあった。
ためらいと、そういったものを受け入れていく自分があった。そのことを考え続けてきたのが、その後の私の40年間だった。スターリン主義というのは外にあるのもではなくて、忍び込んでくるものだ。』

前沢『塩見さんが野合があったというが、実際にはあそこに行き着く前に組織の思想的な問題が解体していて、一緒になった時は両方とも思想の殆ど無い組織が方針でくっついた。現実の方針でくっついた。
今、警官を銃撃して倒そう、その1点で一致して、もうその前に我々の理論というのは、たぶん放棄されて、それが原因だと思う。
最終的に脱落者をどうするかという問題を、結局、危ない人間は消しちゃうという、たぶん、あの事件の本質はそういうことだったと思う。
口先では共産主義化とか、同志の援助だとか言われて、本当かなと思いながらも、それに対して違うとは言い切れなかった。だからああいう形になった、と僕は思う。
すでに山に入る前から、我々は思想的に武装解除を自分でしていて、あそこに行ったんじゃないか。』

植垣『野合問題ということで、実際のこういうことをやっている世界に居ると思想問題を考えるヒマも余裕もない。そういう中で一緒にやっていこうとなったのは、経験が同じなので、経験を通じた意識の方が先行していたことが大きかったと思う。
当時は党のためとか言われると、そこで思考停止という人間でした。残念ながら、それ以上、物事を考えることができなかった、ということです。
もう一つは、自分自身が武装闘争の中で死ぬんだ、という思いでいるので、自分が死ぬということを前提にすると、他人に対しても死を強制していくということに対して、それ程の緊張感が無かったという面もある。
連合赤軍が結成されたということは事後報告。だから連合赤軍が結成されたというのは、僕ら軍の方の人間にとっては、まるで他人事のようなことだった。』

雪野『その当時、我々がやろうとしていた武装闘争、その思想、それを私が支持していた、そこに責任を感じる。そういう闘争を支持していたから、準武力的な闘争を一部含めることについては同意していた。それについて責任を感る。だから、銃を持ってきたとか、それを作ったとか、渡したとか、それよりも責任を感じるのが、当時の我々の政治思想、軍事方針。』

この後、ゲスト・パネリストと当事者の発言を踏まえて、武装闘争の必然性があったかのか、また、武装をどのように考えていたのか、前段階武装蜂起のイメージなどについて話が交わされた。
第3部と第4部については、印象に残った言葉をいくつか紹介する。

青砥「全共闘白書という本が以前に出た。その中には全てのページに連合赤軍事件の所為で活動を辞めましたということが書いてある。我々も社会運動とか階級闘争に悪い影響を与えたことは十分承知しているが、辞めたのはあんたの勝手でしょう。」

植垣「(若松孝二監督の「実録連合赤軍 浅間山荘への道程」の最後の場面での台詞をふまえて)勇気がなかったのではなくて、勇気がありすぎた。」

※このシンポジウムの第1部での開催挨拶と、第2部「当事者世代が語る」での発言を、リンクしているホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」の「時代の証言者」コーナーに掲載しています。
なお、発言が聞き取れなかった部分は省略していますので、発言の全体を知りたい方や第3部・第4部の発言を知りたい方は、「連合赤軍事件の全体像を残す会」発行の「証言10号」(2012.7発行)をご覧ください。

(終)