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(No253-2の続きです)

それと、その日のうちに広島を逃げて広島に戻らなかったということです。あと黒い雨を浴びなかった、それと水を飲んでも嘔吐してしまった、それからもしかしたら回虫も原因があるかもしれません。
それと、たまたま電車が福屋百貨店の下に入っていて、原爆が680メートルのところで爆発しているんですけども、福屋に当たって直接光線が来ていないんですね。それも大きな原因の一つだと思っています。
【朝鮮人被爆者の存在】
そういうことで生き残ったんですが、その中で私が皆さんに是非知ってもらいたと思うのは、実は当時広島で被爆死した人、被爆死というのは1945年の12月いっぱいで死んだ人を被爆死というんですが、広島の原爆記念館が出来て被爆死した人が13万人と書いてある、その2年後には14万人になりましたが、書いてあります。
その時に見て思ったのは、当時広島には朝鮮人が5万人いたんです。広島には日本製鋼、三菱重工、三菱造船などがあって、朝鮮人がずいぶんたくさんいました。
当時の広島の被爆人口が35万人ですから7人に一人が朝鮮人です。それで僕が小学校に行ったときは朝鮮人の友達がいっぱいいたんです。
20年くらい前の統計ですが、5万人の被爆者のうち、3万人が被爆死しているんです。13万14万のうち3万人が被爆死しているんです。それを計算すると、日本人の被爆というのは3割強なんです。ところが朝鮮人の被爆死は6割だということです。
これは何故かと言うと、我々は疎開していたが、彼らは行くところがない。焼けたらすぐ戻ってきて、焼け跡が燻っているいるうちに戻ってきて太田川の水を飲んで放射能を沢山食べて、ですから日本人の倍の被爆死になった。日本人の倍の被爆死といいますが、本当は、朝鮮人部落は爆心から1キロ以内にはないんです。1キロより離れたところにいる訳ですから、日本人より(生存率が)高くなければあかんのですが、実際には倍(の被爆死)。そういうことを皆さんに是非知ってもらいたいと思うんです。
それともう一つ、僕が小学校6年の終わりで帰ってきて、中学校に入った訳ですね。中学校に入ったら朝鮮人の友達が一人しかいないんですよ。それでおかしいなと思って、新井君とか金光君、こういった仲のいい、すぐ近くに朝鮮部落があって、仲のいいのが沢山いたんのが、一人もいないんです。不思議に思ったけれど、朝鮮人は解放されて帰ったんだ、と言う風に思っていた訳です。
僕は集団疎開していたんですが、その集団疎開に朝鮮人がいなかったことを何かで気が付いたんです。集団疎開というのは町内ごとで何十か所として行ってますから、友達に「変な事聞くけど、おまえらのところに朝鮮人おったか」という話をしたら「そういえば見んかった」と誰も彼も言うんです。不思議だなと思って、僕は朝鮮人被爆者の人に「実は集団疎開行ったことがあるんやけども、朝鮮人は見んかたけども、どうなったか」と聞いたら、その時は小学生1・2年生を除いて3年生以上は強制的に疎開させられた。ですから、僕の同級生で被爆したのは300人くらいいる学生の中で2人しかいない。
それが朝鮮人がどうだったかというと、恐れ多くも天皇陛下の赤子にしていただいたんです、半島人は。ということは子供といえども銃後の守りをせなあかん、疎開などはもってのほかだということです。疎開させてもらえなかたんです。
ということは、僕の友達は恐らく、その3万人の中に入っているんじゃないかと思いました。その時は本当に慚愧の思いがしましたね。
その話を僕が小学校ですると、小学校の子供たちは十人に一人くらいは、「日本は拉致よりももっと悪いことをしたんだな」という感想を書いてくれるので、私はそのことは必ず付け加えて話すようにしています。』

米澤さんは、大飯原発再稼働阻止現地闘争に参加、また、7・16「さようなら原発10万人集会」では、4大学共闘の隊列とともにデモに参加そいている、米澤さんからは、その後、以下のようなメールをいただいた。
『3.11を起こした責任を被爆者として大きく感じています。
50年以上被爆の話をしてきましたが、乞われれば行くとゆう態度が過ちを「繰り返さない」とゆう基本を忘れていたのかもと思い、これからは不十分でも、積極的に話していきたいと思っています。
今これまでの反省の上もっともっと「核」の悪魔的存在を弾劾したいと思っています。』

※米澤さんは出前講演を行っています。ネットの「米澤鐡志の部屋」で申込みができます。
々岷藥?屐。毅以から1時間20分
⊂人数でも無料で出前します。(遠方の場合は交通費の実費を申し受けます)

(終)