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(No253-1の続きです)

こうやったら髪の毛がパラパラ落ちるんですよ。痛くもかゆくもないですよ。あれっと思って握ったら、その頃子供は5ミリもない丸坊主ですが、こうやるだけでパラパラと全部落ちてくる訳です。
それで「えらいこっちゃ、お母ちゃん、髪の毛が抜けるで」と言ったら母親も同じで、櫛を入れたらザッと抜けるんです。その日のうちに母も私も髪の毛が全部抜けて、丸坊主になるんです。そうしたら、その晩から2人とも熱が出て、高熱が出て嘔吐が始まるんです。40度以上の熱が毎日続いて、朝方になると少し戻ってくるんですが、ところが喉が渇くでしょ、それで水かお茶を飲むとまた上げるんです。そんなんで生きた心地が全く無くて、それが2週間以上続いたんです。
結局、9月1日に母親は全身に青あざが出来て亡くなるんです。母が亡くなったということで、お祖父さんが広島で開業していたんですが、大江健三郎の広島ノートに出てくる被爆しながら医療をしていた医者で米澤貞二というんですが、その祖父さんが長男の嫁が死んだということか、重症かというかどっちかで山の上に上がってきて、私を一目見て「鐡志はこれはダメじゃ」と言って、往診カバンを持ってきていたんですが、何もせずに帰ったんです。
それで周りもそう思ったんですね。ところが不思議なことに、叔父さんが帰ったすぐ後に大量の回虫を嘔吐したんです。丁度うどんのような長さの虫ですが、当時国民の99%は持っていた。それが洗面器に半分くらい出て、鼻からも口からも出て、意識が朦朧としている中で出たんです。周りは回虫が出るくらいやからもう終わりだろうと判断して、もう葬式の準備ですわ。そうしたら不思議なことに熱が引いたんです。熱が引いて喉が渇きますから、上げてもいいから欲しいんですよ。それで「お茶が欲しい」と言ったらお茶を飲ましてくれて、そうしたらお茶が美味しいんです。
「もっと欲しい」と言ったら周りがびっくりしまして、すぐ重湯をこしらえてくれて、上げないし、お腹は骨と皮ですから、「もうちょっと欲しい」、もしかしたらこれは助かるかも分からんと周りが考えまして、自然薯とか卵とか鳥のスープとか、生まれて初めてというくらい美味しいものを食べました。
それで17件の部落のうち7軒が親戚なんですが、あんなひどいのがもしかしたら生きるかも分からん、ということで毎日何か持ってきてくれるんです。それで元気が出てきて、10月の末には完全に回復して学校に行けるくらいまでになったんですけど、学校にいってからも大変だったのは、頭が丸坊主なので、その頃は差別がきついですからキンカンキンカン、ハエが止まったらすぐ滑るとか囃し立てて、悪い奴は頭をなでる、最後はソロバンでこうやる奴がおる。僕は非常に負けん気が強かったから、すぐにでやったり、棒切れ持って殴りかかったりして、あんまりストレス感じなかったです。
実は皆さんにお話しておきたいのは、さっき言いましたように妹が親父が戦争に行った後に生まれた子で、まだ1歳になったかならずかだったんですね。その妹が、母親が6日に被爆して7日に帰ってきて、熱が出るまで10日足らずですが母乳を飲ませたんです。
そうしたら10月に入ってからポツリポツリと髪の毛が抜けだしたんです。そして10月19日、母の49日に息が絶えたんです。ですから、内部被爆というのがいかに恐ろしいかということが、この妹の例でも明らかでありまして、このことは福島の事故のように内部被爆を無視したり軽視したりすることに対する重大な警告になると思っています。妹が死んだときも、僕らも原爆で死んだとは思っていなかったです。父親も帰ってきて、僕のすぐ下の妹が、死んだ妹の「髪の毛が抜けたのは原爆の所為と違うやろか」と言ったら医者である親父が「それはないだろう」と否定しましたから。後には被爆したことがはっきりしたんですけれど。
【何故生き残ったか】
皆さんに是非知って欲しいことが一つ二つあるんですが、1つは何故、私が生き残ったかということが大きな問題としてあると思うんです。
私が乗っていた電車が、当時広島では木造の電車で鋼鉄製が2.3台しかなかったんですが、その鋼鉄製の電車だったんです。ですから三千度の光線を浴びた時にすぐに火が上がらなかったんですね。それが一つ大きな原因。それと人垣が一番大きいんです。昔被爆の話をした時に、京大の工学部の荻野さん、電磁波で有名な人ですが、30年くらい前に私の話を聞きまして「君は周りの人が全部放射能を吸い取ってくれたんだ」と、人間の体というのは一番放射能を吸いやすい、満員電車だったのが第2の原因ですね。

(No253-3に続く)