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明大全共闘クロニクルはNo215以来1年ぶりの登場となる。
最近は明大土曜会の活動を中心にブログに掲載してきたが、「あの時代」の記憶を記録する作業も急がねばならない。

1970年1月、いよいよ70年代の幕開けである。1969年10月に機動隊が導入され、バリケード解除、全学ロックアウトが行われたが、11月の授業再開以降、和泉校舎での全学集会粉砕闘争、明大全共闘政治集会開催など、全共闘は100~150名程度の勢力を維持してきた。
1月に入っても各地区で活動が続く。

【全共闘は相手にせず 生田 全共闘団交を拒否される】明治大学新聞 1970.1.22
『生田地区全共闘は16日、工農両教授会あてに団交要望書を提出した。
要望書によると、「23日午後1時から工学部2003番教室で開催」したいとし、「21日正午まで」の期限付きで回答を求めた。
大学側はこれに対し「対策本部で全共闘との話し合いは拒否することを決定済み」として、この団交要求を教授会に諮らず“黙殺”の形をとった。
一方、全共闘系学生約20人は23日、午後1時頃農学部長質へ押しかけ岩本浩明農学部長に談判した。が、結局ラチあかず、「再度団交を要求する」ことを確認して引き上げ、工学部第1校舎会議室に向かった。学生達は中にいた教官ともみ合い、実力で押し出して占拠した。
学生は「工学部長を出せ」と要求したが、稲垣生田担当副学生部長が「工学部長は不在であるので、この部屋を出るよう」説得した。しかし、稲垣副学生部長は学生につかまり、午後7時半頃学生が解散するまで「ロック・アウト」などについての批判を受けた。』

続いて本校地区。
【学生、学館板塀を解除 大学側は4号館封鎖で報復】明治大学新聞 1970.1.22
『19日から開始される「後期試験」の「実力阻止」を叫んで、全共闘系学生は16日の午後4時すぎから、本校地区四号館前広場で集会を開いた。生田、和泉からの部隊を合わせて約50人が集結した。
5時頃、全共闘系学生は学生会館に向けてデモを開始した。大学側は11号館の特設出入り口と7号館扉をすばやくシャット・アウトしたが、学生は11号館、学館前の板塀を実力でまたたく間に解除し、学館広場になだれ込んだ。また、7号館検問所も同様に実力解除、6号館入口も一部壊した。(写真)
その後、再びデモに移り、大学院前から4号館の前を通り、法学部・10号館に向かった。そして10号館入口も破壊し、学館前に引き上げ、スクラムを組んでインターを斉唱した。
この全共闘学生の実力行動に対し、大学側はマイクで「学長告示に違反するので、即刻中止せよ。中止しない場合は力による措置を取る」旨の警告を発し、神田警察署に警備出動を要請した。
全共闘系学生の行動を見守る局学生、また11号館自習室では試験を控えて、勉強していた学生約30人があわてて避難する光景も見られた。
4号館前に戻った全共闘系学生は総括集会を開いたが「19日以降の後期試験阻止と入学試験断固粉砕を確認」して、早々に切り上げ、5時半頃解散した。
大学側は16日の全共闘系学生の実力行動に対する報復措置として、17日、4号館への「許可なき者の出入りを禁止」した。(後略)』

一方、東大闘争1周年集会が1月18日に開かれ、明大全共闘も参加した。
『「新左翼の健在示す 東大闘争1周年記念集会」
18日、「東大闘争」1周年を記念して午後1時半過ぎから、文京区の礫川公園で、全国全共闘連合、全国各県反戦代表者会議主催の「東大闘争1周年労農学市民集会」が開かれた。
この日、礫川公園は学生、労働者の各セクト部隊、各大学全共闘各ベ平連、地区反戦、高校生など1万人近い参加者を集め、文字通り70年闘争の幕開けを飾るものであった。
昨年11月、大菩薩峠での大量逮捕で壊滅的な打撃を受けた赤軍派が、1月16日の武装蜂起集会を機に再登場し、この日は百人ほどが参加。
集会はいつものように、各大学全共闘代表の決意表明に始まり、全国反戦代表の決意表明を最後に成田空港反対同盟委員長戸村一作氏からのアッピールを読み上げ、沖縄全軍労に対するアッピールを採択して集会を終え、午後4時過ぎ大塚公園までのデモ行進に移った。
大塚公園までのデモは初めから荒れ模様。ジグザグデモを繰り返すデモ隊に、私服と機動隊の一体化した相変わらずの激しい規制。整然とデモしている学生にまで襲いかかる勢いだった。デモコースにあたった東大正門前には放水車がズラリと並べられ、ガス銃を持った機動隊が立ち並ぶという厳重な警戒体制がしかれていた。そこをデモ隊が通りかかった時、正午すぎから「東大1月決戦総決起集会」を開いていた助手共闘、職員共闘などの“造反”教職員約6~70人が、正門の鉄柵ごしにシュプレヒコールをもってデモ隊に連帯の意志を表明し、インターを歌って気勢をあげていた。(後略)』

この集会にはたぶん行ったと思うのだが、覚えていない。
42年という時間は記憶を消し去るのに十分な時間だ。    

(つづく)