(No267-1の続きです)
ゲバ棒を持って、やみくもに突進することが、どれほどの効果をあげただろうか。強大な国家権力にねじ伏せられた敗北感、挫折感からくるゲバルトに対する懐疑。
このような情況のうちに<ゲバ棒時代>は終わろうとしているかに見えるが、ここで簡単に“ゲバ棒”の歴史を回顧してみよう。
1967年10月8日、第一次羽田事件で、花々しく登場し、11月12日の第二次羽田事件、68年1月の佐世保のエンタープライズ事件、つづいて王子、成田と闘争が進むにしたがってゲバ棒は、脚光を浴びるようになった。
しかし、68年10月の羽田闘争1周年全国統一行動、つづく10月21日の国際反戦デー。このころからゲバ棒は、武器としての実用価値というよりも、闘争のシンボルになっていったといえる。
もともとゲバ棒は60年安保のあと、全学連各派が分裂し、その時の内ゲバ用の武器として使われ始めたのが始まりで、それが街頭闘争戦術と結合し、学生運動の一時期を画するシンボルに転化したのだ。
<新しい武器を求めて>
しかし“ゲバ棒”が闘争のシンボルになるにつれて、かえって武器としての効力はうすれていき、その補強策として投石戦術が出現してきた。さらに68年10月の2つの闘争では群衆をまきこむことによって(新宿事件)、かなり大きな効果をあげた。
しかし、道路の敷石が、警備側によって事前にはがされ、群衆がしだいに学生から離れていくにつれて、この新戦法もゆきづまらざるをえなかった。
ここで新しく編み出されたのが火炎ビン戦法だった。
日大闘争で、福島県郡山の日大工闘委が、戦術的エスカレーションのひとつとして、いちはやく使用しはじめた、と自負している火炎ビンは“決戦安田城”で大量に使われ、新しい武器として大きくクローズアップされてきた。
火炎ビンに使用される薬品はまず、ガソリン。これも当初は、ビンの口に布をつけ、そこに火をつけて、投げる。着地と同時にビンが割れ、ガソリンに火がつく。一瞬燃え上がるが、それだけで実際的な効果はあまりない。
そこで考えられたのが、ガソリンに劇薬を混入させる方法だ。硫酸、硝酸、塩酸などのほかに爆発力を強めるナトリウム類。
しかし、この方法も劇薬類が直接、大量に人体に作用しないかぎり、武器としての意味はあまりない。
警視庁でも「ビンが直接、体に当たる以外は、火炎ビンは恐ろしいというほどではない」と言っている。
それに69年10月21日の国際反戦デー以降は、事前に発見する方針が出されて、五千六百本が、事前に押収されている。実際に使われたのは、半分以下の二千本くらい、と警視庁は見ている。
製造する苦労のわりに効果のない火炎ビン。学生側もその性能のエスカレートを研究している、といわれるが、他にどのような武器が考えられているのだろうか。
フロントは語る。
「単なる武器としての銃火器。けれどもさまざまな思想が語られているなかで、個人がどれほどその真の意味をとらえているのか、理論がはたして力となりうるのか、いま一度ここで問い返さないと、単なる武器のエスカレートになってしまうし、また、内ゲバの発生ともなる。武器のエスカレートより意識のエスカレートのほうが先だ」
具体的に、今後の新しい武器はこれだ、と明かしていない。
それはヒミツなのだろうか、それとも、もう新兵器の考案などでは、どうにもならない状態なのだという認識なのだろうか。
革マルも、武器のエスカレートということに特別の意味を認めていない。
「闘争形態を決定するのは、あるいは、ささえていくのは、その実体的力量であって、主体的条件が満たされていくかどうかが問題なので、新しい武器の不要・必要問題性はナンセンスだ。
替わるべき武器があるとすれば、それは、まさに現実に対決してゆくところの、われわれの主体性にほかならない」
ゲバ棒を捨てて、主体性だけで、力と対決していこうというわけなのか。
(中略)
相手の武器をうばって武器にしろ、というのがゲバラの教えだ。機動隊の装備はタテも含めて、全体で15圈タテは4.5圓任△襦
タテはもちろんのこと、乱闘服だけで10.5圓發△襪呂困ない。ヒジアテなどは、りっぱに武器の代用をなすのではないか。
しかし、このゲバラの教えも、機動隊に接近できて、そのうえ、相手の体力を上回る力を持っていなければ、意味はない。機動隊は毎日のように武闘にはげんでいる。
とても現実に学生側が、この教えを実行することは難しい。
(No267-3に続く)
コメント