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(No275-2の続きです)

そのあと、私は過労でずっと大学に泊まり込んで、碌な食事もとらなかったもんですから、一晩に鼻血を3回も出しましてダウンして、これじゃダメだから家で休養してくる言って3日ほど寝ていたのかな。
そうしたら経営学部の同期で、思想的にはどちらかというと構造改革派に近いミヨカワ君という友人が訪ねてきて、「お前がいないと、社学同が大変なことになっているぞ」と言われて、「そうか、そんなになっているのか」ということで、のこのこ行ったら、丁度91番教室で次の団交に向けての討論集会をやっていて、他党派が批判するのはともかくとして、今まで社学同を支持していた人から浮き上がっているんですね。
私は何が起こっているのか全然理解できませんでした。
何故かと言うと、27(1月27日)団交というのが和泉で開かれまして、この27団交というのは私は存在すら知らなかったです。集会の話を聞くと、もうボス交が成立して、手打ちの団交なんじゃないか、ひどいじゃないかと、こういう話です。
「そりゃひどい」と私は思いました。宮崎先生には、私は大変罵倒されておりますけれども、もう話はついていて、そこで妥協案が出されて、それでシャンシャンで、あとは調印だけにしようという話だったみたいです。
私は27団交の招集も受けないし、情報、こういう団交があるとか、ほぼ合意内容が出来たという話も受けてなかったです。ですから私にとっては青天のへきれき、何でそんな団交をやったのか分からない。
とにかく前面に体育会が出て、校歌の斉唱が行われるというひどい団交だった。唯一、和泉地区闘の小森がアジりにアジりまくって、何とかその日の妥結を逃れた後だったと思うんです、私が出て行ったのは。

<1・29団交での体育会との衝突 機動隊導入>
しょうがないから29(1月29日)団交に賭ける以外ない。これは元々設定されていた。
この時に私は、独立社学同の行動隊長であったイケハラに、100名の武装部隊を準備せよ、角材を持って舞台裏に潜めと。これは勝利の確約が得られるまで団交は続けるから、大学当局者が途中態勢しようとしたら檀上で阻止するから、そうしたら体育会が今度は檀上を占拠しにくるから、我々が殴られた後、体育会を殲滅しろと。体育会といっても、当時動員できるのは500名くらいだった。そのうちの過激派というのは100から150くらい。これさえ殲滅すれば、体育会はいなくなる。
北島のラクビー部、それから島岡の野球部、剣道部、ここらあたりしか強硬派はいなかったですから、絶対そうしろと言った。
一つは、私がもちろん現場に行く予定だったんですが、足止めをくらったんですね。当時、統一ブントの議長だった松本礼二氏が「中澤、こういうときに現場に出ちゃいかん。とにかく最後の決戦なんだから学外指導部を作るつもりで、俺と一緒に居ろ」と、こういう話で喫茶店に缶詰になったんです。ところが現場の方は、前の団交で社学同の妥協路線が見え見えになっていたんで、みんな他党派から突き上げられて、明治の指導と称して入っていた当時のブントの学対部長だった塩見、のちに赤軍派の議長になった男ですが、こいつが付き上げられて、社学同を中心にして武装部隊を作って、団交の始まる前から演壇の前を占拠していた体育会を殴り飛ばして、全員メッタ打ちでたたき出す、という行動に及んだんですね。
一番ビックリしたのは、恐らく記念館の周囲に集まっていた学生大衆の諸君だったんじゃないか。明治の社学同というのは、そういうことは絶対にしなかったです。理が通らない。不当に向こうが暴力を振るったから、暴力で振るい返すということは理が通る。
それから急速に学生のエネルギーが退潮になっていく訳ですね。
そのあと、91番教室に撤収した体育会が武装し始めた。この武装に耐えきれずに大学院団交に持ち込むんですね。
他所の党派は命を懸けてやる必然性もないですから、明治大学の学生運動にはほとんど何の足跡もない党派ばっかりですから、MLが二部に多少いましたが、みんな他の部隊は散ってしまう。明治だけ残るという状態です。
私はようやく大学院団交をやって、ここに居てもしょうがないということで、私が一番運動で尊敬していた松本礼二、当時議長に私は現場に行きますから、議長に何と言われようと現場に行きますからと戻ったんですが、もうその時は最後の団交だったですね。
一方で91番教室の体育会は本館のバリケードを崩し始める、いつ警官隊が導入されても支障がない状況でした。結局、警官導入で排除されてお終い。

※ 中澤満正氏は、病気療養中のところ1月21日に逝去されました。
ご冥福をお祈りします。

※ ホームページに「学費値上げ阻止にむけて」(1966)をアップしています。そちらもご覧ください。

(次週に続く)