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(No275-1の続きです)

<明大学費闘争の借り>
私が今日ここに来たのは、後輩の人たちに借りがある、借りを返さなくてはいけないということで、ここの幹事をやっているY・R君が私の2年後輩なんですけれど、明大闘争があんな形で終わったために、全国の批判を受けて、彼は明治の名誉回復には死ぬ気でやる以外ないということで、東大安田講堂の攻防の時には、社学同の行動隊長を引き受けて、あそこに籠って闘った、そういうことまで後輩にさせた私の責任というのはある。
明大学費闘争の本題に戻ります。
明大学費闘争当時、私は明治大学社学同のLC、これは常設の委員会で社学同の中のリーダー委員会、そこのキャップを明大学費闘争が終わるまでやっていました。
今考えてみると、未だに私は明大学費闘争が何故負けたのか分からない。何で勝てる闘争を、あんなに粗末な負け方をしたのか分からない。これは恐らく66年の春、明大学費闘争が話題に上る頃から、ずーっと長い間裏面工作があって、それが最後、2・2協定という形で結実したんじゃないかと思わざるを得ない、と私は思っています。

<中執委員長交代>
最初に始まったのが、次の委員長をどうするのか、ということ。「中澤、2期やったんだからもう降りろよ」と私は斎藤克彦に言われて、「そうか」と。でも、私としては、どうせ学費闘争の責任者をやれば退学処分は免れないので、勝とうが負けようが退学処分は出るので、わざわざ被害者を増やすことはない、俺は最初からその覚悟で運動に関わっていて、私は継続すると言ったんですが、同意が得られなかった。私は私がダメなら、次のバッターとして和泉の地区闘の委員長をやった小森君、彼が大衆指導者としての能力が一番高いので彼と言ったんですが、これも同意が得られない。
三番目に、だったら生田の井口君、彼は論理力もあるし冷静だから彼がいいだろうと言ったんだけど、それも受け入れられない。結局、見たことも聞いたこともない大内君が委員長になるという展開があったんです。
私が不勉強なのか、大内君がそこで名前が上がるまで、大内君の名前すら知らない。中執委員長を2年やって、生田の闘争もやりましたから、農学部不正入学闘争もやって知っておるんですが、名前すら聞いたことがない。もちろん顔も知らない。活動歴があるなんてことは、生田で何人かは活動経験でよく知っている人間もいたんですが、そういう人間でもない彼が突然委員長になったんです。
最初のアジテーションなんか見るもお粗末ぐらいだったんですね。ここから、今考えてみると始まっていたんではないかと思います。最後は話は通じないと思ったんだろうと思います。

<裏面工作>
そういう風に思われた私の不徳の致すところなんですが、その後、いろんな工作がいろんなルートで行われました。
政府のルート、総務部のルート、大学新聞のルート、いろんなルートがありました。それから先輩の学生運動経験者のルートが使われました。結局、ああいう形になりました。
私は、直接に裏話で具体的に話を聞いたのは2回だけでした。一つは斉藤君本人から、実は、総務課の職員だったか学生課の職員だったか私は記憶が定かではないんですが、に誘われて1泊で熱海に行かないか、切符も新幹線も手配すると言われた、買収工作だと思って俺は断ったんだと。
もう一つは、斎藤君から次の団交で総務担当、総務担当というのは基本的に学費問題の総括責任を負っている役員なんですが、加藤五六という理事に名指しで白紙撤回を迫れと、そうすれば、加藤五六は失言風にとにかく撤回します、と言うはずだと、だからこれを指名しろと。私はあえて指名しませんでした。何故かと言うと、実に簡単なんです。
これから運動がようやく上昇局面に入るところで、何で運動を止めなければいけないのか。私は勝つことを目的としていないで、勝てると思っていた。それは最も大衆の意識が高揚し、最終高揚局面のある段階まで行ったところで勝つなら勝ちたいと思っていた。
そうでなければ学費闘争をやった意味がない。
その2回しか私の耳には入りませんでした。
コソコソいろいろやてるみたいだから気を付けた方がいいよ、という話は何人かから聞きましたが、陰で誰と誰が会って、どういう話が行われていたかは、2・2の当日が過ぎるまで全く知りませんでした。馬鹿と言えば馬鹿なんですけれど。

<1・20団交と1・27団交>
特に顕著になったのが最終局面です。20(1月20日)団交だったかな。これが明治の学費闘争の大衆運動としては一番高揚して、団交終了後、校内と御茶ノ水の通りのデモで六千人くらいのデモが組めた時です。明治で六千人というのはすごいでしょ。通常三万の学生のうち一万五千くらいしか登校していないんですから。だから最も高揚した時期ですね。

(No275-3に続く)