イメージ 1
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No276-1からNo276-3に分けて掲載します。)

先週に引き続き、昨年10月、1966年当時の学生会中執委員長であった故中澤満正氏(写真)が、明大土曜会の会合で明大学費闘争について語っていただいた内容の後編を掲載する。
なお、文章が長いので、筆者の独断でタイトルを付けさせていただいた。

<2・2協定前夜>
翌日、駿河台で大衆集会をやろうと思っていたですが、全然集まらないです。他所の党派はほとんど来ない。明治も社学同系の強烈なシンパの100人弱しか来ない。誰もアジテーションもしない。一人私がアジテーションするだけなんです。
私はここで、大衆のエネルギーからかけ離れた学費闘争の衰弱というのを初めて認識して、翌日の2月1日の全学闘会議で妥結案を呑んで、半年結論を伸ばし、その間に学生と協議するという案で手を打つしかない、敗北を宣言しようという方針を出して、その議論が進行中だったんです。
それが1回でまとまる会議だと思っておりませんから、全学闘では了解されましたけれど、各学部闘争員会、各地区闘での了解を得ておりませんので、その晩、ブントに呼び出されて明治のLCとブント学対、そして社学同の都委員会との合同会議が行われるんですね。
確か「2月7日にブント総力で明大支援の総決起大会を明治で開くから、それまでは妥協されては困る。妥協するならそのあとにしろ。そうでないとブントの面子が立たない。」ということで、私は「ブントの面子はそうかもしれないけど、我々は大衆運動として生きてきたんであって、大衆のエネルギーのないところで、党の面子だけで闘いを続けるなんてことはできない。」と言って、最後まで折り合わなかったんです。
そのやっている会議の中で、一人ずつLCが呼び出されて消えていくんですね。最後に残ったのは商学部の委員長で全学闘の書記長だったスガヤ君と私だけです。最後に「社学同やブントが面子で闘いを進めるというのなら、今日、私は全学闘で妥結すべきだという方針を出したんで、とても一緒にはできない。私はもうここで運動を降ろさせていただきます。やるなら社学同がやってください。明大独立社学同としてはできません。」と言って、そこで打ち切りになったんです。
最後に「斎藤克彦もいないし、コガもいないし、その他、明治のLCも見ての通り一人散り、二人散りしているのでどこかから呼び出しがかかっているようだから、斎藤の行方を確認して、押さえるなら押さえないとダメですよ」と忠告だけして、「私はこれでブントとは縁を切らせていただきます。」と言った。
中大学館の臨時亡命政府から離れるんですね。

<2・2協定調印>
朝、タクシーに乗ってスガヤと二人で「終わっちゃったな。明日からどう生きるか考えなくちゃいかんな」と言っていたら、タクシーのラジオの臨時ニュースで「未明にホテルで、懸案だった明治大学の学費値上げ反対闘争は妥結、調印した。」という話が出た、
「何だ、俺らが政治局とケンカしている間にあいつら勝手にやりやがった。」
しょうがない新宿に出て、深夜映画館に入って、飯食って、それで私の学生運度は終わったんですね。
のちに大内君の証言によると、かなり前から学校当局と会って妥結案の検討がなされ、当日までは約1週間近く篠田さんの自宅にずっと居てですね、そこから調印式場に行った。私は誰が仕組んだなんてことは言いませんけれども、そういう人たちは自分たちが正しいと思っているんでしょうから言いませんけれども、私はいつも交渉は大衆の前で、大衆の道義に基づく共感が得られない運動はやらないということで、一方的に我々は自治会を論破し、大衆的共感を得てやってきたポツダム自治会運動の最後の運動だった。
それだけ大衆基盤もあったんですね。(中略)

<明大社学同とは>
余談ですが、私は明治の社学同、あれだけ全学制覇したけれど何人いたかというと、30名です。30名いれば十分だと思った。30人が100人の人間を、あたかも社学同のように考える仲間を持つ。その100名が5人から10人の、ひと声かければ一緒に闘う仲間を持っていればいいと。
そうじゃなかったら、民青は当時明治に300人いたんですから、それでも全学部で共産党を追放して社学同が持っていたのは、やっぱり、そういう大衆基盤なんです。
その大衆基盤を大事にすることが一番重要だ。できれば学費闘争でそれを倍くらいにしたい、常時だいたい500名動かせる力を、主要な闘争だと社学同のLCが考えた時に、もちろんいろんな手続きを踏んでですが、共に参加してくれる500名の部隊を作りたいと思ってたんですね。

(No276-2に続く)