イメージ 1
(No282-1の続きです)

私は飯舘に叔母たちがいるので空間放射線量を測ってきました。しかし、異常です、高いです。飯舘も川内もそうなんですけど、草むらとかに行くと1以上あります。ひどいところは5マイクロシーベルトありました。それは道路の脇の草むらとかです。私は自分の家が山の方なんです。家の後ろが山なんです。私の家の後ろは双葉です。こんなところに住めるはずはない。ましてや、家の水がしたたり落ちるところで120マイクロシーベルトというのは、このまま住んでいくと、私はどういう人間になっちゃうのかな、と思いました。
私たちは2度と帰れない。また原発は本当に危ないです。今、4号基も全然収束していないし、傾いたままです。人間はこんなに恐ろしいものを、捨てるところもなく作ってしまったことに、あまりにも科学の便利さに頼ってきたことに、私もそうですが、一人一人が自己反省し、二度と作って稼働してはいけません。
そして、この郡山、福島は人が住んでいるんです。子どもが住んでいるんです。チェルノブイリ事故のあったロシアは国土が広い、だから100キロ以内は住んでいない。だけど日本はそうもいかないんです。住んでいるんです。私たちは、ここに住んでいる子たちのためにも、中間貯蔵施設を、私はいろいろ言われましたが、やはり大熊で引き取って、その代り私たちは自分たちが生活する権利がある。だから私たちの補償を国はキチンとして欲しいです。家や土地を私たちにキチンと提供して欲しいです。また被曝管理者手帳を、原発で働いている方とか福島県民に、無料で医療が受けられるように配布して欲しいと思います。よろしくお願いします。』(拍手)

郡司『ありがとうございます、つらさとか悲しさとか、生々しい声からみなさん感じ取れたかと思います。続きまして、同じく富岡から避難された木田節子さん、よろしくお願いします。』

木田節子(きだ せつこ)さん
【1954年岩手県に生まれ育つ。35年前結婚を機に福島県いわき市に住み、21年前に富岡町に自宅を建てる。震災時は松戸の娘宅に同居して都内の介護施設で働いていた。自宅に帰れなくなり、避難所10か所を転々とした後、現在の水戸市へ。その間必死に情報を集め、学習して、昨年3月から原発難民として反原発運動に参加し、積極的に発言。今も日々学習しながら、この国の在り方を告発し続け、若い人たちや福島第一原発の収束作業で働く原発労働者にメッセージを送り続ける。】

木田『皆さんこんにちは。皆さんのように私たちの話を聞きに集まってくれる人はある程度勉強している方たちなんで、私たちよりも以前に、もしかしたら第二次世界大戦が終わった以降の歴史なんかも知っていたり勉強していて、早くからこの国の問題に気が付いていた皆さんだと思うんです。
私は、58歳になりますけれども、そういうことを何も知らずに、どちらかと言うと、今回の原発事故で自分が原発難民になるまで何も知らなかったものですから、反省だとかそういう綺麗ごとではないんですが、自分たちが原発難民になって感じたことを、都会の人たちに聞いてもらおう、なにせこれほどのことが起こったのに、この国は平気で自分たちの思い通りの事をしようとしている、それをするためには私たちが一生懸命働いて納めた税金を使っているんですね。
湯水のごとくという言葉がありますが、私たちが働いて納める税金が湯水のごとくあるのでしょうか。とてもじゃないけど働けない厳しい状況の中で、それでも納めてはいる訳ですけれども、私たちからぶんどったお金で好き勝手にしている訳ですよね、あの人たちは。
それに対して誰も文句を言わないですよね。その文句を言わない奴らは誰かということを考えたら、男の人、現役で今、頑張っているサラリーマンなんです。私の家の旦那なんです。(笑)
被災者で原発難民になりましたが、私の夫はあと3年現役が残っています。一生懸命働いています。たぶん恵まれた環境だと思います、当たり前に給料ももらっています。ボーナスももらっているので、私は東京に来ていろんな集会に出て物を言ったり出来るんですね。
田んぼも畑も失われて、それが出来ない人の代わりに、出来る者がやらなければいけないと言い聞かせてやっているんですけれども、私の目の前にいる夫が「お前が一人原発反対と言ったところで仕方がないだろう」と言ってきかなかった。

(No282-3に続く)