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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No290-1とNo290-2に分けて掲載します。)

3月3日(日)、明治大学リバティーホールで、経産省前テント広場やたんぽぽ舎などの主催で「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」が開催された
集会では11名のゲストスピーカーの方が発言し、その内容を5回に分けて掲載してきたが、今回が最終回となる。
(録音が聞きとれない部分など、発言の一部を省略しています。)

郡司『ありがとうございました。それでは本日のスピーカーの最後になります。現在でも浪江町で酪農をなさっている吉沢正巳さん、よろしくお願いします。』

吉沢正巳(よしざわ まさみ)さん
【1955年生まれ。57歳。福島県浪江町にあるエム牧場が経営する浪江農場場長。3・11以降も浪江に留まり、被曝した牛たちの面倒を見続ける。この農場は希望の牧場となった。去る5月の原発民衆法廷(郡山)には申立人として登場。】

吉沢『和牛の飼育繁殖を310頭ほど、今も続けております。原発の爆発を聞きました。3月14日、昼11時。2回ほど3号基の爆発音を聞きました。3月17日、原発の排気塔の隣から吹き上がる噴煙を、双眼鏡でこの目で見てしまいました。
あれから2年、僕たち浪江町は二万一千人の町民が町に帰れません。4月1日に警戒線の解除、再編が行われます。しかし、僕たちの浪江町が抱える無念、絶望感、これはなかなか皆さんには伝わっていかない。首になった大臣がおります。「死の町」、まったくそのとおりだと思います。わが町浪江町は何だ。絶望の町だ。その絶望感を抱きながら、この2年間、牛をどうするか、牛を生かしてきました。農水省、政府は、この牛たちを邪魔者として、全部殺処分してくれと、半強制的な圧力を僕たちにずっとかけてきました。
70軒の酪農家、400軒近い和牛の繁殖農家、飼育農家の殆どが潰されてしまいました。
当時3,500頭いた牛たちは、1,500頭は水もなく、エサもなく、餓死してミイラになってしまった。その現場を僕は幾度も見ました。エサを運びながら牛は見捨てない、逆のスイッチを入れながら、放射能が漂う環境の中を、警察の検問をかいくぐりながら、とにかく牛飼いとして見捨てないんだ、今もその気持ちは変わりありません。
(資料を見せながら)これは、幾度も僕たちが見る、浪江町を中心とした、あの事故の、今も続いている放射能の汚染の真っ赤に広がる地図の状態です。原発事故の後、双葉郡の原発立地町の避難民に対して、自業自得だという、そういうような発言がありました。「今まで原発でいい思いをして、こんな事故に遭ったのは自業自得だ」、僕はそれを聞いて本当に怒りの気持ちを覚えました。我が浪江町では、小高浪江原発を30年間以上の反対運動によって、とうとう作らせなかった(拍手)。反対同盟は一坪運動が長く続いて、東北電力の原発は作らせなかった、本当は、浪江町、小高町に最初に原発が出来る訳だったんですけど、それを止めてきた歴史があったんですね。
僕はこの事故の後、非常に無念、空しくなりました。福島県議会が10基廃炉の決議をした。何だよ、今頃!俺たちの町は真っ赤になってしまった!もう二度と米なんか作れないだろう!。山間部の浪江町が避難していた、あの114号線の脇にある大柿ダムは真っ赤に汚染されている。もう二度と、そのダムの水を使って米作りなんかあり得ないだろう!
南相馬、小高町、浪江町、双葉町、米なんか出来ない、そういうところに何で農家が戻れる意味があるのか。山の除染、ダムの除染、ナンセンス!できる訳ないだろう!
二本松の小学校は、この春から子供たちが一人も入ってこない。街の学校なんて意味が無くなる。工場やスーパーや病院、何の意味もない。再開なんか出来ないだろう。そして、何よりも請戸漁港の大勢の漁師さんが、原発の漁業補償金をいっぱいもらっていい思いをした、そいう風に言われた漁師さんが、今、木っ端みじんに津波で粉砕されて墓も残っていない。その現場に立てば、この世の終わり。心が折れます。浪江町の絶望情景というのは、そこかしこに転がっている。
絶望だらけです。僕たちはそういう中で、あえて希望という名前を、自分の牛でもない、預かった会社の牛を生かす意味を考えながら、とにかく餓死はさせない、殺処分には同意しない、国の言いなりにはならない、そういう気持ちで頑張っています。(拍手)

(No290-2に続く)