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(No320-1の続きです)
(写真は1970年頃の法政大学)

日比谷での集会なども経験して、明大の夏休みは7月初めからでした。それで、マル研はCとBが中心メンバーだったんですね。夏休みに入るので、研究会で合宿をするということになった。場所が明大の山中湖セミナーハウス。そこに行ったマル研の新入生が3人いた。そこで2日間くらい「ドイツ・イデオロギー」とか「経哲草稿」の勉強をしました。最終日の前の晩、Cに呼ばれて、「3ケ月間様子を見てきたが、マル学同中核派に入れ」ということで、加盟書に署名した訳です。そこで中核派の一員(同盟員)となりました。』

Y『その頃、明治では中核派は何人くらいいたんですか?』

A『和泉のマル研は12名位いた。本校は分からない。
それで7月に中核派、社学同、社青同解放派の三派全学連の大会が、日にちを分けて法政大学、東京工業大学で開かれました。法政大学は中核派の拠点、東京工大も中核派の拠点だったんです。三派全学連ですから、党派間のヤジが激しいんです。
その頃、学内ブントで一番がんばっていたのはY・R、それとR。それと、I・Tが毎日毎日、一人でアジテーションをやっていたが、立ち止まって聞いている人は誰も居ない。ブントは「2・2協定」の後遺症なのか、元気がなかった。
Y・RとRは自分たちがブントなのに「S・K一派」を、「裏切った」ということで批判していた。ブント内でケンカしている訳です。我々のグループはCが圧倒的な存在感なんです。
そんな中で9月から10月にかけて、いよいよ10・8(第一次羽田闘争)に向かうことになります。そこに向かう過程で、今でも忘れられない光景に遭遇しました。

<10・8前夜>
10・8に向かう前にCが秋の闘争方針を発表した訳です。「この秋に学生運動の全てをかけて、中核派の存在をかけて闘う」と宣言する訳です。その頃、各大学に前進社の書記局からオルグが派遣されていたんです。横浜国大出身のMという男が、明大和泉の担当として来て、Cと協議して指導方針を決めていました。
10月6日に日比谷公園で三派全学連集会があり、そこで社青同解放派と中核派の間で内ゲバがあったんです。そこでMが社青同解放派に殴られた。
それが大きな伏線になるんです。
10月7日、佐藤訪ベトナム阻止で8日に羽田に行くということで、中核派部隊は法政大学に泊まり込みだった。私も和泉校舎から中核派のグループで行きました。当時、中核派は法政大学の経済学部と文学自治会を押さえていたんです。法政大学の六角校舎内に経済学部自治会室があり、そこで、8日の闘争を前に、7日の夕方から三派全学連の書記局会議が開かれました。それで社青同解放派の幹部二人が出席した。その場で中核派は、社青同解放派に前日、Mを殴った自己批判を求めた訳です。僕は目撃したんですが、それが凄まじいリンチなんです。10月7日の夕方くらいから六角校舎の中で、「昨日の行動はどうなんだ、お前たちは。」と延々と、その幹部二人がリンチされたんです。解放派を代表して打ち合わせ来ているだけなんだけど、修羅場になってしまった。
私は経済学部自治会室の廊下にいましたが、うめき声が聞こえる。中に入る機会があって見たら、椅子と椅子の間に横にさせられていて、足のすねをたたき折られているんです。それをやっているのが中核派の学生幹部、それに上部団体の幹部たちも取り囲むようにして見守っていた。「今から闘争をするのに、何故、10月6日の日比谷公園の小競合いで、Mを殴ったのか。自己批判を求める。」ということで、中核派は総出でその2人を責めていた。夜になって、今度はブントと社青同解放派が黙っていない。自分たちの役員が、8日の打ち合わせで行って監禁されているという情報が入った。それで、明大ブントと中大ブント、それに早稲田の社青同解放派が中央大学に集まり、夜の11時くらいに奪還に来た。中核派は600人くらいが泊まり込んでいたんですが、向こうは1,000名くらいが来て、法政大学を包囲していた。
我々は法政大学の中庭で待ち構えている訳ですよ、内ゲバ寸前ですよ。
僕らは内ゲバは不可避だと思って待ち構えていたが、ブントと社青同解放派は中に入らなかった。後で分かったことですが、機動隊が見守っている中で、明日の事が大事だということでそこで釈放したのでしょう。12時ころ、内ゲバにならずに戻って行きました。
泊まり込むといっても蒲団もある訳じゃない、雑魚寝です。ところが、朝の3時頃、今から武闘訓練だということでたたき起こされたんです。
それで30分か1時間くらい訓練したんです。仮眠を取って10月8日の朝を迎えましたが、ろくすっぽ寝ていない。』

(次週に続く)

※ お知らせ
首都圏反原発連合主催の集会とデモが、12月22日(日)13.00~17.00、日比谷野音・国会議事堂周辺で行われます。(自由参加)