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先週に引き続き「記憶を記録する」シリーズとして、1967年から1969年まで明大の中核派で活動をしていたA氏の回想を掲載する。
1967年の第一次羽田闘争から1968年の10・21国際反戦デー、1969年の東大安田講堂攻防戦、4・28沖縄闘争など、激動の時代を駆け抜けた、ある元活動家の証言である。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No321-1とNo321-2に分けて掲載します。筆者がタイトルを付けました。また、関係者は仮名にしてあります。)
(写真は「命燃ゆ青春 ザ・全共闘」より転載:1967.10.8第一次羽田闘争)

<67.10.8第一次羽田闘争>
10月8日は、朝6時頃、飯田橋駅からプラカードみたいなものを持って電車に乗って、羽田に向かった。
中核派の部隊600名が駅に着いたら、「走れ!」ということで、プラカードを外した。プラカードはもう角材になっている。すぐに機動隊が来たけれど一瞬にして粉砕、機動隊を叩きのめした。
それまでは素手でスクラムを組んで突撃していたんだけど、10月8日に初めて機動隊を叩きのめした。すごい解放感、勝利感があった。それでまっしぐらに羽田の弁天橋に向かった。弁天橋を渡れば羽田空港に行ける。いろいろ羽田空港に行く橋があって、ブントは稲荷橋、革マルは穴森橋。この弁天橋の闘いが一番有名なんだけど、この闘いに参加した訳です。前哨戦で機動隊をたたき潰して弁天橋まで行った。橋のところに装甲車がずらりと置いてある。その装甲車を突破しないことには中に入れないから、装甲車に一挙に押し寄せた訳です。中核派部隊は泊まり込みも含めて1,000名以上いた。装甲車を巡る攻防が始まった。その中でとうとう装甲車を奪った。警官は装甲車の鍵を付けたまま逃げたんです。1台の装甲車を中核派が押さえた。その装甲車を利用してバックでほかの装甲車にぶつけた。我々はそれに付いて行った。向こうは放水車で対抗していた。僕も装甲車の下で一進一退でごちゃごちゃやっていた。そのうちに「闘い止め!」という号令がかかった。「仲間が死んだ」ということだった。それが山崎博昭だった。それで一瞬、闘いを止めた。Kが放水車の上から、「今、仲間が死んだ」と言って黙とうした。それ以上我々は弁天橋から先には行けなかった。
そんな中、佐藤はベトナムに飛び立った。昼くらいには闘いは終った。その時はほとん逮捕者は出ていない。

Y『Kさんの話がありましたけれども、Kさんは前日も法政大学に入っていたんですか?』

A『僕は記憶にない。だけど、10・8羽田闘争の現場指揮官だった。』

A 『それで、10・8は我々は無傷だった。それから1週間たって、三派全学連の中で山崎博昭をどのように追悼するかということでモメた。中核派は樺美智子にならって、全学連として幅広く国民葬にすると主張した。ところが、ブント、社青同解放派、ML派は人民葬にすると主張した。そこでまたモメた。ただ、山崎君は中核派のメンバーだから、かなり大規模な追悼集会が行われた。(注:10月17日、日比谷野音にて山崎博昭君虐殺抗議中央追悼葬儀が行われた。)
10・8は大勝利に終わって、その闘いを見て全国で衝撃を受けたということです。』

Y『昔のアジテーションでも必ず出てきましたよね。10・8の地平を受け継ぎというのが。』

A『我々の実際の部隊は、そんなに格好いいものではないんです。寝ぼけまなこで、前の日に武闘訓練をやって、その武闘訓練も機動隊に対する武闘訓練なのか内ゲバの武闘訓練なのか分からないままに深夜に延々とやっていて、10月8日はやっとの思いで羽田まで向かったという感じです。
機動隊とやって勝って、その後、各大学に戻って、私も和泉校舎の中で10・8の意味を問うてアジテーションをやりました。そういった中で次の闘いということで、11月12日に佐藤がアメリカに行くと言うことで、10・8は偶然的要素が強かったんですが、訪米阻止の第二次羽田闘争では意識的に全国から集めて、羽田でもう1回やるということで、私も参加しました。完全に角材を持ってやりあっている中で、大量に逮捕されて、私もそこで逮捕されたんです。(注:三百人を超える逮捕者)
警察署に連れていかれました。ただ、逮捕者も相当出たので、すぐに出ることができたんです。その時初めて逮捕されたんですが、すぐに出られたので、また大学に戻って、10月、11月の羽田闘争を踏まえて学内でのオルグ活動をしていました。それに対抗していたのがブントです。羽田闘争から佐世保、王子、三里塚と続く「激動の7ケ月」の中で、中核派も和泉校舎の中で勢力を増してきて、シンパも含めて20~30名になった。

(No321-2に続く)