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(No322-2の続きです)
(写真は映画「八月の濡れた砂」のDVD)

<選択の時>
その頃、私は本来は大学3年生になるが、授業も出ていないし試験も受けていないので留年です。御茶ノ水に進学できないので、和泉校舎で頑張っていた訳です。
その後、7月に全学連大会があって、9月5日の全国全共闘結成大会に中核派の部隊として参加していた。会場の日比谷野音で赤軍派が登場してブント(関東派)を蹴散らしたのを目撃しました。その後、何回か集会に出た。私の学生運動の記憶はそこまでです。
私の学生運動の記憶は、67年の4月に始まって、69年の10月頃までです。
明大中核派の組織も消耗者が続出して、ほぼ壊滅状態だった。
その時は、今後どうするかということで選択を迫られた。Bは書記局入りの道を選んだが、私はプロとして活動をしていく決断はできなかった。
単に学生運動を続けるということだけでは許されない情勢となっていた。もう一歩進めるためにはプロとしてやる以外にない、と選択を迫られた。一挙に飛躍を求められた訳です。
一方で、ブント系は赤軍派という形で、対権力武装闘争として方針を打ち出した。 
プロ活動家としてやっていくのかどうかという中で、私を含め大多数の人間にとっては、思想を捨てた訳ではないんだけれども、プロとしてはやっていけないという道しかなかった。そこまでに至れば中途半端な学生運動はできない。私は、そこで離脱せざるを得なかった。69年の秋に運動から足を洗ったということです。
1年遅れで3年に進級して御茶ノ水に行った。和泉校舎にも体育の授業で出かけて、部室にも顔を出していた。ただ、組織や運動の第一線から離れていることに対する自己嫌悪みたいなものがあって、今後の人生を考えていた。その中で映画をよく見たんだけれども、ある1本の映画に出会った。藤田敏八監督の「八月の濡れた砂」という映画です。
新宿の昭和館という汚い映画館で、たまたま観たんです。若者の反抗を描いている映画なんですが、途中から涙が出てきました。最後のシーンで、主人公がヨットで沖に出る、この若者たちはどこに行くのか、ヨットだけが延々と映し出されている。そこに主題歌がかぶっていく。このヨットはいずれ、どこかに戻らなければならない、そこは実社会にしかないんです。ヨットの中では勝手なことが出来たけれど、ヨットはどこかに戻らなければいけない。戻った時に待っているのは実社会。私の「夏」の終りを告げる映画になった。

<明大土曜会への参加>
卒業して、ある会社に就職して、それからは30数年間、集会とかデモとか全く関係ない生活を送っていたんです。
それで、仕事の関係で東京地裁に行くことがあり、7~8年前、「今日の裁判」を掲示しているところに重信房子さんの名前を見つけた。重信さんはまだ頑張っているんだ、と思って、重信さんが逮捕されたことは新聞で知っていたが、大学時代は重信さんとは全く接点がなかった。重信さんの本などを読んでみると、「人民革命党綱領」というのが載っていた。大学卒業から30数年、企業社会の中に浸かっていたけれど、それを読んでみると、私の中にストンと落ちるものがあった。「オリーブの樹」の最後に重信さんと会う方法ということが書いてあったので、Yさんを通じて、重信さんに東京拘置所で面会することができたんです。
重信さんは喜んでくれて、別れ際に「明大の土曜会というのがあるから、そこに是非入った方がいい」と言われた。土曜会というのはどういう人がやっているかも知らないし、連絡方法も分からないし、そこはそれで終わった。
それから3年くらい経って、明治公園での脱原発の集会に40年ぶりに参加したら、そこに明大土曜会の旗があったんです。旗を持っていたのはY・Rで、横にKがいたんです。一緒にデモをしながら話をしたら、「是非、土曜会に」ということで、明大土曜会に参加する事になったのです

<最後に>
いつの時代にも、人には「夏の季節」がある。私の「夏」は狂おしいほどの「政治の夏」
であった。短い期間であったが、その「夏」に体験したことが、私の終生の価値観となった。人生の「秋」にさしかかった今、思う事は、次の世代にどういう社会を残してあげられるのか。私達の若い時よりも、現在のほうが、格差が広がり、貧困が深まり、社会の矛盾は深刻化している。そのような情況で、どうしても残さなければいけないもの、一つは「平和憲法」、もう一つは「脱原発社会」であると思っている。この二つの課題の達成に向けた活動に、「同じ夏の匂い」を共有する仲間たちと共に、今後とも関わっていきたいと思う。』

(終)
※ 来週のブログは正月休みです。次回は1月10日(金)の予定です。